〈3〉剣道三倍段

 それからの李桃は我武者羅だった。もう一度だけ姫芽香から、彼女が剣道部に戻る意思が無いことを確認すると、衝動的に家出する子供のように武道場を飛び出していく。


 道場に辿りついてからそれほど時間は経っておらず、正面玄関前での部員勧誘の喧騒は続いていた。人の波から外れたところで、ひったくるように持ってきた道具一式を置いた李桃は、防具袋の紐を緩め、中から道着を取り出す。


 突然ブラウスのボタンを外し始めた彼女に、誰かが気づいた。ざわめきが伝播し、さしもの群衆も静まり返る。しかし、そんな観衆目線に晒されてもブラウスを脱ぐ手が止まることはない。瞳に涙がうっすら溜まっているのも、恥ずかしさからではなかった。

 女子の場合、下着やインナーシャツの上に道着を羽織ることは珍しくない。面を着ける際に用いる手ぬぐいの予備を二つほどアスファルトに敷いた李桃は、畳んだブレザーとブラウスを置くと、道着に袖を通した。今日が稽古初め晴れの日になることを想定して、祖母が糊付けをしてくれていたのだろう。パリッと気が引き締まるような感触に、申し訳ない気持ちになる。


 重ねた襟の内側と外側、二つの胸紐を慣れた手つきで結んでいく。スカートを降ろすと、前裾の隙間から覗いた桃色の下着に、誰かが息を呑んだ。しかし、歓声を上げる者はいない。男女問わず、下校中の一般学生までが、道端で道着に着替えるという非日常に釘付けだった。

 袴に足を突き入れ、紐を結び終えた後で、一旦防具袋の上にかけていたスカートのプリーツを整えて、畳み、ブラウスの上に置くと、顔を上げる。



「あ……れ? えーっと……あうぅ……」



 そこで初めて、李桃は自分が見られていることに気づいた。彼女が自分の行動を思い返して狼狽えていると、俺も私も何も見ていませんよと言うように、にわかに喧騒が帰ってくる。


 今更ながらに首をもたげた羞恥心を吹き飛ばすべく、李桃はめいっぱいの声を張り上げた。



「け、剣道部に入りませんかっ!」



 輪の中に飛び込み、誰彼問わず、鞄を持った生徒を探して声をかける。この場でユニフォームを着ているのは部活所属者。文化系の部の関係者は制服だが、鞄の有無で当たりを付けた。



「剣道は楽しいですよ。心がすっきりします! め、目上の人だって叩けちゃいます!」



 礼節を重んじる武道にはあるまじき文句まで駆使しながら呼びかける。リボンの色など気にしていられなかった。二年生だろうが、すぐに引退を迎える三年生だろうが、現在が帰宅部状態であると踏めば声をかけた。間合いを詰めることには自信があった。

 しかし、どこか心の中では選り好みをしていたのだろう。せっかく部を作るのだから、女子を五人集めて試合に出たいという気持ちもあったのかもしれない。しかし、3K(臭い、汚い、きつい)などと言われる剣道の誘いを持ちかけても、今をときめき恋に恋して青春を謳歌しようとする女子高生たちには、聞く耳など持ってもらえるはずもなく。



「け、剣道部はどうですか! 『刀剣神楽』とか好きな人っ、いませんか!」



 ミュージカル化したものが紅白出場を果たしたゲームの威まで借りる。李桃自身は一度たりともプレイしたことがなく、詐欺広告も甚だしいが、形振り構ってはいられなかった。

 意を決して、男子にも声をかけようとしたところで、



「剣道なんて、何が楽しいんだず」


「それな。ぶっ叩かれて痛ぇだけだべ?」



 ふと、背後から聞こえた言葉に立ち惑う。彼らはこちらを見てさえいない。興味がない故の、投げ捨てるような批判。珍しくもなければ、過去に幾度となく言われてきた内容でもある。

 だから何も、動じることなどありはしないのに。






 * * * * * *






「うへぇぇぇん、駄目だったよ、お婆ちゃーん!」



 散々たる結果に、帰宅するなり泣きついた。茶の間の畳の上には、涎が垂れている。ぐしぐしと鼻をすすりながら蹲る李桃の背中を、祖母が撫でるようにあやしてくれた。



「大変だっだなっす。ほれ、これでも食べないこいづでもかねが?」



 テーブルの上から取ってくれたせんべいを、李桃は俯いたまま受け取り、無心で噛み砕く。



こぼさないでほろがねで大人しくちょどして食べなきゃかねば



 欠片がこぼれ落ちるのもはばからない孫に、祖母は呆れたような、優しい微笑みを見せた。


 ここは母方の実家である。父が公務員の転勤族で、単身赴任で構わないという彼の反対を押し切って、母もそれについて回っている。李桃が山形に残ったのは、転校を続けることを心配した両親の勧めだった。祖母がいてくれるため、寂しさも特に感じることはない。


 ひとしきり泣いた李桃は、腫れぼったい目を擦りながら、淹れてもらったお茶で一息ついた。


 山形の民家は不思議なもので、茶箪笥を開けばお菓子の類が常備されている。突然の来客にも対応できるよう、茶の用意が万全なのだ。裏を返せばつまみ食いし放題なわけで。最近はお腹周りに一抹の不安が浮上しているのだが、二キロという数字には目を瞑ることにする。


 目下危惧すべきなのは、剣道部の現状だ。



「やっぱり、みんなは剣道したくないのかな……」



 言ってから、はっと居ずまいを正した。


 祖母の左首には引きつれたような裂傷の痕がある。かつては名うての剣道家『村山ナツ』だった彼女が、齢五十にして現役を引退するきっかけになったものだ。あれから十年は経っただろうか。今となっては色も目立たないが、入浴の後などには、赤く浮き出たようになる。

 叩かれて痛いなどという生易しい話ではない。村山ナツは、刃がなくなって安全と謳われる竹刀で、文字通り切り裂かれたのだから。


 李桃の窺うような視線に、祖母は気づかないふりをして湯呑みを傾けた。



「『剣道三倍段』と言うくらいっちゅーぐれぇ、剣道は難しいむずかすいがらなぇ。みんな、手を出しづらいんだべね」


「それだぁっ!」



 李桃がだん、と勢いよくテーブルを叩いたことで、祖母の表情が驚きの色を見せる。



「それだよ、『剣道三倍段』! ありがとうお婆ちゃん、あたし頑張ってみる!」



 興奮気味に捲し立て、「裏が白いチラシ貰ってくね」とだけ言い残して茶の間を出ていった。



「ほほ、子どもおぼこうちうづは素晴らしく元気すぎるやがますいくらいが調度いいんねがっす」



 孫を呆然と見送った祖母は、そう顔を綻ばせて、再び緑茶を堪能するのだった。

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