〈2〉居合少女と干物女

 少女の腰の前に垂れた下緒だけが静かに揺れている。


 ほぼ、無音だった。あったのは衣擦れの音くらいか。抜き打ちの際にしゃっと鳴るのは、鞘の内部を削っている未熟の証。その様子を一切見せないことから、彼女の実力を窺い知れる。

 テレビの時代劇などでは派手な演出のためか、刀を抜く際ににも納める際にも金属の音がしているが、実際にチャキチャキと音を立てた納刀などをしていると、次第にハバキが緩み、鯉口を切らずとも勝手に刀が抜け落ちてしまう体たらくを晒す未来が待っているだろう。


 少女は抜いた刀を泰然とした所作で上段に被り、斬り下ろした。ぴゅぅ、と鋭い風切音が弧を描く。斬り終えた瞬間の隙を緩やかに殺し、刀を居付かせることなく耳の頭へと掲げる。

 血振りと同時に浮かせた中腰で、足を入れ替え、納刀。まるで心剣が一体となって、そぞろに鞘へと吸い込まれていくように。刀身の根本部分――切羽が鳴ることもない。


 一つの技を終えた少女は、ふと、入口で呆然と立ち尽くしているこちらに気づいた。振り向きざまに舞った艶やかな髪の隙間で、驚いたように目が見開かれる。



「あなたは……モモちゃ――」


「ヒメちゃんせんぱあああぁぁぁぁぁぁい! !」



 彼女が呟ききるよりも早く、李桃はその胸に飛び付いた。



「会いたかったよぉ! 今のは居合? すっごくカッコいいね! あれっ、一年見ない間にまたおっぱい大きくなったんじゃない? でへへへへ、ふかふかのぽよぽよだぁ!」


「ちょっと、モモちゃ……んっ、止めてってば」



 つい先ほどまで毅然とした表情で刀を振るっていた少女が、ぐりぐりと胸に顔を擦りつけられて照れたように身じろぎする。がばっと顔を上げた李桃と目が合ったことで、頬に差していた紅潮がさらに濃くなった。しかし、



「また一緒に剣道やろうね!」



 そう言って笑顔を咲かせた李桃とは裏腹に、少女は血の気が失せたかのように半歩たじろぎ、そのまま目を伏せてしまった。震える唇から、弱々しく声が紡がれる。



「あのね、モモちゃん。私はもう、剣道をやらないのよ」


「えっ? ……ふぇえええええええええっ!?」


「――ったく騒がしいな。何かあったのか?」



 衝撃の告白に李桃が飛び上がっていると、『師範室』と書かれた木札の部屋から、気だるそうな声がかけられた。



「あのなぁ、居合は静かだからって理由で、ここをサボり場所にしてんだぞオレは」



 やさぐれたように扉が引き開けられる。目を擦りながら現れたのは、朱色のジャージに身を包んだ線の細い女性だった。身長もさほど高くなく、顔立ちも幼げに見えるが、狩人のように吊り上った眼だけはやけに大人びている。肩にかかる濃紺の髪は寝起きでもしなやかだ。

 干物女は、だぼついたジャージの袖から小さな指を突き出して、居合少女へと目を向ける。



鍋山なべやま。こいつは誰だ?」



 彼女がそれに答えようとするより早く、李桃が兵士の如き気を付けの姿勢を取った。



「新入生の村山李桃です!」


「……村山? まさかお前、家はこの辺りじゃなかろうな」


「はいっ、ヒメちゃ――姫芽香ひめか先輩とは中学生の時に同じ剣道部でした」



 李桃の姓を聞いて、自称サボり魔の眉間が怪訝に皺を寄せる。問いの真意に気がつかないまま自己紹介を続けた新入生に、彼女は乱暴に髪をかき回しながら踵を返した。



「うちにはもう剣道部はないし、オレも剣を置いた身だから教えることもない。部の新設をするにも、今日日剣道をやりたいなんて奴がそうそういるとは思えん。残念だな、諦めろ」


柳沼やぎぬま先生、そんな言い方をされなくても……」



 棘のある物言いに異を唱えた姫芽香だったが、「お前も身に染みている事実だろう」と吐き捨てられ、それ以上何も言えなくなってしまう。


 李桃はじっと、下唇を噛みしめていた。ジャージ姿のやさぐれ女が教師だったことにも驚いたが、何よりも剣道部がないという事実に動揺を隠せなかった。伊氏波高校といえば、数十年前までは全国でも十分に通用する強豪校だった。近年ではその活躍を聞かない状態が続いていたが、よもや部自体が解散しているとは思いもしない。


 まして、姫芽香すらも剣を置いているだなんて。



「……それでも、やっぱりやりたいんです」



 勿体ないという気持ちもあった。武道場が体育館に併設されているわけではなく、一軒の建物として独立しており、床は檜。これほど恵まれた稽古場は、大会の会場にもなるような武道館でも借りなければお目にかかれない。



「部員なら集めます! だから、剣道を教えてください。剣道をさせてくださいっ!」



 悲痛な叫びに、姫芽香が顔を背ける。道場の入り口で足を止めていた柳沼は振り返り、神前と道場への礼を済ませると、こちらを一瞥することもなく「勝手にしろ」と後手に戸を閉めた。


 曇りガラスの向こうに見えるジャージの赤が消えるまで、李桃は、今にも泣きそうな顔で、睨むように見送ることしかできなかった。

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