二、悪 霊

 マタヨシは死して霊となったのちも、

 しばらく現世に留まっていた。


 あるときマタヨシは言った。


「おれはいつまでこうしてぐずぐずと、

 現世にとどまっているつもりなのか。

 かつて自分の持ち物だった体が、

 徐々に腐り、崩れていく様を、

 どうしておれは見続けているのか。

 

 彼の虚ろな眼には、もう何も見えていない。

 野犬どもが食い荒らした腸には、

 蠅どもが集り、蛆が湧き、

 崩れた皮膚からは、

 膿血が滲み出している。

 室内には臭気が充満していて、

 この世の不浄という不浄を

 招きよせているかのようだ」


 そのとき、家の前を通りかかった一人の僧侶が、

 マタヨシのいる部屋の中に入ってきた。


 僧侶は室内の様子を見て言った。


「なんという酷い有様だ。

 このほとけの遺体は、いつから

 ここに放置されているのだ? 

 この腐乱した様は、いつかの修行の折、

 九相図くそうずに見た通りではないか。 

 しばらく飯が喉を通らなくなりそうだ。

 げに人道にんどうとは、かくも不浄なるものなり。

 南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」


 マタヨシは僧侶に向かって言った。


「おいこら、糞坊主。

 他人の家に土足で上がり込んできて、

 何をするかと思ってみれば、

 他人の体をじろじろ見て、

 やれ、人道は不浄だなどと、

 つまらん能書きを垂れやがって。

 おれの死体の崩れていく様を

 絵画でも観るように観て、

 芸の肥やしにするつもりか? 

 それともおまえはここを

 便所だと勘ちがいしたのか?

 糞を垂れ流すのなら、寺へ帰ってやれ。

 そうして貴様の糞尿にたかる蠅や蛆どもを

 飽くまで眺めていればいいさ」


 僧侶は呆れ顔で言った。


「やれやれ。こいつはかなわん。

 こういう分別のない手合いは、

 御免被りたいものだ。

 後で若い者をやって供養させよう」


 マタヨシは答えて言った。


「分別とは恐れ入った――。

 おまえの言う分別とは、

 不浄なものを見て、

 飯が喉を通らなくなることを言うのか?

 おまえはおれのことをと言ったが、

 おまえやおれのような愚かな人間が、

 どうして仏などになりえようか。


 念仏を唱えただけで成仏できるなら、

 かの独裁者だって成仏しただろう。

 殺戮に明け暮れて、

 人を物のように扱い、

 他人の物を盗って、

 裕福な暮らしをした者が、

 今際の際に念仏を唱えたからといって、

 成仏できる道理がどこにあろうか。

 おまえの頭の中にあるのは、

 所詮、我が身かわいさだけであり、

 他人のことは捨て置いて、

 知らぬ存ぜぬで切り抜けて、

 自分が困ったときにだけ、

 他者との助け合いを説く。

 これがおまえの言う人道なら、

 なるほど不浄にちがいない。


 さりとておまえがしていることは、

 己が捻り出した糞を食い、

 己が垂れ流した尿を飲んで、

 苦い、苦いと愚痴をこぼしているにすぎぬ。

 改心せよ――。

 おまえが帰る家はもうないぞ? 

 おまえはおれを抱いて地獄に堕ちる運命なのだ。

 懐の短刀を取れ。

 今際のときは来た」


 僧侶はマタヨシに答えて言った。


「減らず口はそれまでか? 

 忌まわしい悪霊めが。始めのうちは、

 貴様のことを哀れに思って、

 経を上げて成仏させてやろうと思ったが、

 気が変わった。助けるのは、やめだ。

 義理も恩も知らぬ輩には、死だ。

 わが鍛えた技をもって、

 貴様を地獄に葬り去ってくれるぞ」


「念仏を唱えることしか能のない

 浄土教の僧侶なんぞに、

 いったい何ができるというのだ」


「地獄で後悔するがよい。

 namaḥ samanta vajrāṇāṃ

 caṇḍamahāroṣaṇa sphoṭaya ……」


 僧侶が真言を唱えると、室内に異変が起こった。


「なんだ!? いったい何が起こったというのだ! 

 地面が割れて火が吹き出しきた!」


「きさまも運が悪かったな。

 あろうことか、

 密教の修行を収めた者に、

 喧嘩を吹っ掛けるとは」


 マタヨシは、彼の背後にぽっかり開いた

 暗黒に飲み込まれて姿を消した。

 主を失ったはこは、もぬけの殻と化した。


 僧侶はマタヨシのむくろをまじまじと見て言った。


「わしを恨んでくれるなよ? 

 ほれ。少ないが、冥土の土産だ」


 僧侶は銅銭を躯のそばに投げて去った。

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