風船に溺れて

 西崎とそのお姉さんに誘われたライブ当日の朝、母親のお気に入りのコーヒー豆を挽いて、ゆっくりとお湯を注ぐ。ふっくらする泡を眺めながら今日の服装を考える。


 ダイニングで椅子に腰掛ける。秋晴の光が窓からたっぷりと入り込む。本を読みながらコーヒーを飲むと、書物の中へすぐに没入していった。朝起きて一番最初に浴びる活字の快さよ。そこに父親が現れて本のタイトルを盗み見た。


「石川淳の狂風記か、いいのを読んでいるじゃないか」


「まあね~」


「亜弓はあれか、無頼派が好きなのか」


「ん~、好きだけれど、それを理由に選んでるわけじゃなくて、なんとなく読んでるだけだよ」


「亜弓は進路どうするんだ。もう来年は受験だが」


「まだ決めてないけど、どっかの文学部に入れればいいかな」


「そうか。良いと思うよ。やりたいことは見つかりそうか?」


「どうだろう、やりたいことは、わかんないな」


「これから見つかるといいな。何でもそうだが、やったことないものが目の前に転がってきたら、やらないよりはやってみたほうが良いぞ。その方が楽しいし豊かになれる」


 たまには良いことを言うのだなと、本を読んで聞き流しながら思う。父親のことは好きではないが、本の趣味は合う。その為、もしかしたら思考回路が似ているのかも知れない。私も共感できることを言う場合は素直に共感することにしている。


 私は一つだけ自分の考えで絶対にしないようにしていることがある、それは思考の放棄を多様性を認める態度で隠蔽する行為だ。「そういう意見もある」で済ませないこと、それだけは守るようにしている。「そういう意見もあって自分はどうなのか」、までは必ず考えること。これは自分を生きづらくしていると思うし、無駄に軋轢を生むことがあるのも自覚しているが、これをやめるのは自分の理性を明け渡したような気がする。


 今朝はそうでもないが、父親との会話はこの思考の連続だ。自己防衛的に偏らず、相手の意見を考えられるようでいたい。とは言え、やはり父親との会話は少し息苦しく、対等に話すためにはやはり自立するのが一番良い。


「私は仕事しながら大学に行こうかな」


* * *


 夕方、待ち合わせ場所に行くと、既に西崎とお姉さんがいた。


「ほ、本当に女の子が来た……! しかもかわいい! ウチのハダカデバネズミがお世話になってます。姉の玲子です」


「そんなに前歯出てねえよ!」


「初めまして、鴻巣亜弓です。今日はお誘いありがとうございます」


「いえいえ~、良いのよ~、こいつの哀れな妄想じゃないかと疑っていたけれど、精神病院を探さずに済んだわ」


「俺に対する信用のなさひどすぎるだろ」


「さて、私の友達とは現地集合だからもう行きましょう~」


 会場には既に沢山の人が集まっていた。入場するとお姉さんは友人のところに向かい、私たちは二人になった。気を遣ってくれたのだろう。西崎はこちらに手を出して言う。


「人も多いし、その、はぐれるといけないからさ、手、繋ぎませんか」


 私はその手を取って握る。もっとじっとりしていると思ったのに、彼の手はむしろ乾燥していた。骨ばった頼りないその手は強くこちらを握り返した。しかし移動をしようとしたら西崎は前傾姿勢のまま一歩も動こうとしない。


「ねえ、もうちょっと前で見ようよ」


「あの、すみません、その、勃起してしまって動けない」


「キッモ! なんで勃起してるのよ!」


「自分でもわかんないんだけど、手を握ったら心臓バクバクして、海綿体バキバキになってしまいまして……」


「はあ、それ鎮まる?」


「今一生懸命フェノミナの蛆プールを想像して収めようとしています。あ、駄目だ、ジェニファーがかわいいので興奮してしまう」


「……」


「嘘です収まりました!」


 変な姿勢の西崎を引っ張って前列の中頃まで進む。みんな何かソワソワしているような、ライブが始まる前の独特の期待感を会場全体から感じる。


「あのさ、俺さ、あんまり頭良くないから上手いこと言えないんだけれど」


「うん、何?」


「亜弓さんはその、気付いているかな、キミはすごくかわいい。その生きづらそうな態度とか性格とかそのままなのに、強くて、かっこよくて」


「知ってるよ。」


「俺は自分に自信がないからすごく憧れてて、それで。今こうしているのはすごく幸せで」


「知ってる」


「俺はどうすればキミを幸せにできるんだー!」


「締まらないなぁ。いい、キミはね、偏屈です。すっごいキモいナードです。でもね、その音楽や映画や芸術に対するわけのわからない情熱。知識が追いつかなくても全身の感覚で享受する姿勢、そういうものが美しいの。あなたはそれで私を元気づけてくれてる。周りを気にして対等だどうとか言ってる私とは違って、あなたはただただ感動を貪っている。それが羨ましい。見ていて楽しい」


「お互いにないものねだりをしてるってことなのかな」


「さあね。でも私はあなたが好きよ」


 照明が落ちて音楽が始まる。強烈な照明、頭上を埋め尽くす紙吹雪と風船の雨。舞台にはたくさんの女性と着ぐるみが踊っている。誰もが笑顔で手を伸ばして風船をトスする。多幸感の過剰摂取のような会場。そんな中で私と西崎はキスをする。彼の歯が唇に当たって、それが気持ち悪くて笑ってしまった。


* * *


 ライブが終わって渋谷に移動するとお姉さんとそのお友達の奢りでイタリア料理を食べた。お姉さんも友人も幸せそうな顔をしている。もちろん私たちもとても満足した。西崎は感極まって泣いてしまったほどだ。


「本当に良かったね。来てよかっただろ耀司」


「うん。最高だった……。あんなのズルいぜ。泣くに決まってる」


「幸せだと泣きたくなるからな」


 閉店までライブ後余韻を味わいながら会話に花を咲かせ、街に出ると23時を回っていた。お姉さんたちは帰って行き、私たちは少しだけ街を歩くことにした。


 電飾とまばらになったとは言えまだ沢山の人たち。騒がしい音。光を反射して黒く光る道。その全てがセンチメンタルだった。西崎と私は手を繋いで歩く。雑音だらけの静寂。あてどもなく渋谷の街を歩いた。時々寄る古本屋は勿論閉店していたし、西崎の好きだというレコード屋も閉まっていた。


「あのさ、亜弓さん」


「ん?」


「うんこしたいんだけど」


「はあ、そのへんの影ですれば?」


「捕まっちまうよ! カラオケとかでどう?」


「そんな下心ミエミエな……。まあ良いけど」


 私たちはカラオケに入り、西崎は本当にトイレに籠ってしまった。私は特に歌うのとか得意ではないので、持ってきていた文庫本を読む。暫くすると西崎が帰ってきた。


「俺、歌うの苦手で」


「私も好きじゃないから。え、どうするの?」


「あ、じゃあ……」


 西崎が身を乗り出す。私はちょっと嫌そうな緊張した顔をしてそれを見る。すると彼はノートの白紙のページを出して言う。


「絵しりとりしようよ」


「……いいけど」


 二人でカラオケボックスに入って歌いもせずに絵しりとりをする図。一体私は何をしているのだ、という気持ちになる。しかし不思議と嫌ではない。むしろこの何でもない行為に安心感を覚えている。


「あ、やべ、終電」


「あんたわざとでしょ」


「すみませんわざとです。もっと一緒にいたくて」


「はあ、しょうがねえ。散歩でもしよう。新宿まで歩こう」


「ホテルとかは泊まらない?」


「泊まらねーよ! 朝までのんびり散歩やなんかして過ごして始発で帰るよ」


「はい」


「手、繋ぐよ」


「あれやりたい、線路の上歩くやつ」


「都心だとなんか危ないしやめときな」


「あのさ、亜弓さん」


「何?」


「この時間すごい幸せで、夜が明けて欲しくない」


「そうね、でもちょっと既に疲れてるからやっぱり早く帰りたい」


「そんなぁ」


「でもこういうのは確かにいいね」


「うん」


「この時間だと都心でも本当に人が全然いないんだね」


「そうだね。なんか滅んだ世界を二人で歩いてるみたいでいい」


「男の子ってそういうの好きだよね」


「女の子も好きじゃないの? ポストアポカリプス」


「わりと好きだと思う。廃墟とか、嫌いな人あんまりいないよね」


「廃墟ね~。まあ俺は普通かな。怖いし」


「なんだよ、共感してやったのに」


「原宿って初めて来たかも」


「そうなの?私も服買いに来るくらいだけど。すごいな、がらんとしている」


「やっぱり普段は人沢山いるの?」


「いるよ~。ウンザリするくらい」


「意外と寒いね。缶コーヒー、俺奢るよ」


「お、ありがと」


「代々木だ。ここまで来ると新宿までスグだな」


「結構ゆっくり歩いているつもりでもこの調子だと1時間かかんないのね」


「正直、今勃起してるんだけど」


「またかよ……」


「暗いんで堂々と胸を張って歩いている」


「言わなきゃ気付かねえのに余計なこと言いやがって」


「あー、新宿、着かなきゃいいのに」


「どっか座る?」


「座る」


「あ、もうサザンテラスじゃん。そこに座ろっか」


「着いてる! 新宿着いてる!」


 私たちは渋谷から新宿までをゆっくりと歩き切る。暗くて人もいない都会の風景が何故だか豊かに見える。恋人といるだけで夜がこんなにも彩るのか。幸福とはいつだって現実の角度を変えたプリズムの中にある。西崎が齎すプリズムは現実を書き換えるような強烈な光ではないが、自分の人生を映画の一場面で眺めるような不思議な味わいがある。


「あー、キスしようか西崎」


「え、また勃ってしまう! いや断ってるわけじゃなくて是非したいです!」


「最後まで締まらないわねあんた」


 うるんだ目に走り去る車のライトが滲んでいる。唇を近づけるとさっき飲んだ缶コーヒーの甘い香りする。二人の影が一つになってそれが夜の闇に溶ける。太陽が登る前のこの気持を覚えておこう。



――クリームソーダのパロール 完。

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クリームソーダのパロール 柚木呂高 @yuzukiroko

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