38 夢の解釈(9)

前略

 前置きは一切抜きにして本題に入ろう。きみは、夢の中の行動はつねに性衝動と密接な関係があるというばかげたフロイト的考えとはきちんと距離を取っているし、法や道徳を抜きにした「人間」というものが人間の真の姿を示すというホッブズ的テーゼに対しては判断を留保している。それにもかかわらず、(いや、もしかするとそれゆえにだろうか、)ぼくが見た夢は不完全な明晰夢などではなく、まったく通常の夢だときみは主張している。

 きみの意見では、ぼくは、ぼくが以前きみに警告を与えたような「危険な解釈を夢に施しており、自分で仕掛けた罠にはまってしまっている」。もしきみの意見が正しいとすると、ぼくはかなりまぬけであり、破滅的解釈へとみずから突き進んだことになるが、幸いそうではなさそうだとぼくが考えていることはあらかじめ指摘しておく。

 きみは自説を補強するために、あろうことか次のような疑わしい仮定を持ち出してきた。すなわち、きみによると、夢の中でのぼくの衝動性の増大は、「実生活での心理的ストレスを反映して」おり、ぼくを衝動的行動へと突き動かした「夢の世界の人々のひどく失礼な行動」もまた、「現実の世界の人々の〔ぼくに対する〕態度を反映したものだろう」。要するに、きみの意見では、ぼくは「現実での葛藤を夢の中で処理しようとしている」のである。

 このように「診断」することで、きみとしては、きみが親近感をもつ心理療法的な夢へのアプローチを正当化する材料として役立てるつもりだろうが、そうは問屋が卸さない。ぼくが見た夢は、きみが考えるのとはまったく異なる種類の夢、不完全な明晰夢だったのである。しかし、このことを前提にして議論すれば、ぼくは論点先取の誤りを犯すことになろう。そこで、ぼくはきみの説明の不審な点を洗い出し、きみの説を反証することで、ぼくの説明の間接的な証明を試みることにしたい。

 まず、ぼくときみの考えが一致している点を確認しておくと、ぼくの夢の中での行動は、通常ではとらないような「不可解な」行動であったという点である。その行動を説明するために、きみが持ち出すほとんど唯一の論拠は、「夢の中の行動はおしなべて衝動的である」ということである。きみによると、「夢の中で人間は暗く盲目的な衝動の海に沈みこんでいる」。ぼくもまた、かの夢の行動が衝動的な種類のものであったことを否定するつもりはぜんぜんない。

 しかしながら、きみの説明は、ぼくに言わせれば、まったく説明になっていない。きみは、不可解な行動を、衝動的な行動と言い換えているにすぎない。かの行動がどうして不可解かというと、通常ならば、ぼくはそのような行動へと衝動的に突き進んでいかないからである。この点について、きみの解釈はこうである。「現実にはこのような犯行を衝動的に行ってしまう人もいる。あなたはそうではないとわたしは考えたい。だから、夢の中のあなたは、あなたではないような別の誰かなのだ」。ここからきみは、かの夢が、ぼくの主張するような不完全な明晰夢などではなく、通常の夢であると推測するのだ。通常の夢だとすれば、おかしな行動をとるのは、むしろ普通なことなのである云々。

 しかし、この推測を裏付けるはずのきみの説明は、明らかにおかしい。なぜなら、きみは、ぼくが「現実での葛藤を夢の中で処理しようとしている」と考えるからである。もしそうだとすれば、夢の中のぼくが、ぼくでないような誰かであるなどとは、主張できないはずである。仮にそう言い張ったとしても、夢の中の「ぼく」は現実のぼくの葛藤を引き受けているわけだから、「ぼく」が失礼な夢の住人たちに復讐を企てるのをぼく自身もひそかに望んでいるわけである。だとすれば、夢の中のぼくは本当のぼくではないと言ったところで、いったいなにがちがうだろう。自分は犯罪には手を染めず、悪行極まりない犯行を安全なところからにやにやしながら眺めているほうが、ずっと質が悪いようにすらぼくには思われる。

 したがって、きみの説明は、明らかに首尾一貫しない。信憑性の低い理論にコミットすることで「罠にはまってしまっている」のは、ぼくではなく、きみのほうなのである。

 以上で述べたことからしてすでに、きみの説は反証されてしまっているが、「夢の中の行動はおしなべて衝動的である」というきみのテーゼ自体が、まちがったものであるということも併せて指摘しておきたい。きみのこの意見は、無意識的行動と衝動的行動とを誤って同一視しているようにぼくには思われる。この二つのカテゴリーは、はっきり分けて考えたほうがよい。夢の中の行動はおしなべて無意識的であるとしても、衝動的であるとはかぎらないからである。無意識的ではあるが衝動的でない行動は、現実世界でも存在する。極端な例で言えば、反射行動は、強い意味で無意識的であるが、衝動的ではない。また、ぼくたちは、朝起きて歯を磨くといったような、習慣に従った行動をほとんど無意識に行っているが、やむにやまれぬ衝動に突き動かされてそうしているわけではない。(なかにはそういう人もいるだろうが、明らかに病的である。)

 また、どうやらきみは、夢の中の行動はおしなべて不可解だと考えているふしもあるが、この考えも明らかにおかしい。夢の世界の無意識の行動は、原則的に解釈不能であるわけではない。いまぼくらが問題としている夢の例で言えば、空腹にせかされて思わずラーメンの屋台に入る行動は、まったくもって不可解な行動ではないし、ラーメンの屋台でラーメンを注文しようとする行動は、すぐれて理知的な行いである。(仮に、ぼくがラーメン屋で服をオーダーしようとしたり、ラーメンを一万杯注文したとすれば、冗談か何かでないかぎり、その意図は解釈不能であり、理知的でもなんでもないであろうが。)また、チャーシューメンではなく、ラーメンで我慢しようという判断は、現実と遜色ない合理的な判断であるとすら言える。(むろんこれは夢なので、最も合理的な選択は、どんなに法外な値段でもチャーシューメンを注文することであったのだが。)

 それでは、それ以外のぼくの不可解な行動、とりわけあの悪態の数々は、どのように解釈されうるのか。あらためてぼくの考えを述べよう。

一般的に言って、夢では規範意識の低下による衝動的な行いの増加がしばしば認められる。その原因は、神経生理学的には、睡眠時に前頭葉の働きが弱まるためだと考えられている。店主の失礼な行動に腹を立て、思わず恫喝するといった行動は、この一般的な枠組みで解釈できよう。しかしながら、とりわけ最終場面での鬼畜な所業は、明らかに限度を超えた行いである。

 ぼくは生まれてきてからこれまでに見た夢の経験のなかで、夢の中の自分の行動可能性の限界枠をなんとなく心得ているつもりである。夢の行動は、現実生活における行動傾性と規範意識によってある程度まで影響づけられていると言える。(さもなければ、夢では規範意識が低下するとすら言えないことになってしまうだろう。)ところが、かの最終場面での、衆人環視のもとで女性をレイプするという悪逆非道なふるまいは、通常の夢におけるぼくの行動可能性からの過度の逸脱を示している。なぜこうした限度を超えた行動をぼくはとりえたのか。ぼくの解釈はこうである。夢の中のぼくは、暗にそれが夢だと気づいていたのであり、それによって、あらかじめ道徳を無効化する準備ができていたのである。

 以上で、ぼくはきみの誤った考えを正すことができたと確信している。きみがぼくの夢の公正な判定者であることを自分でも望むならば、希望的観測に導かれるのではなく、冷静で客観的な判断に従うことをぼくは期待している。   草々

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