22 夢の解釈(2)深層心理

前略

「自分探しがしたい」と言うときの、きみの意図と動機は、おおよそぼくの予想したとおりのものであった。アイデンティティというほどおおげさな問題ではないが、確かに日常でもぼくらは、自分が本当のところ何を望んでいるのか、はっきりと意識できているわけではなかろう。まず自分が何を望んでいるのか正確に理解できなければ、夢の中で何を実現したらいいのかわからない。なるほど。確かにこのプロセスを抜きにしたら、明晰夢はただの麻薬のようなものと化してしまう恐れがある。ただ快楽のみを際限なく貪り食うことを無上の喜びとするのは、人間ではなく、ただの猿である。きみはそう言っているわけだ。

 ぼくはきみの高貴な魂に敬意を表したい。ぼくは普通ならそう考えないと思う。きみのその殊勝な心がけに、ぼくとしてはただただ尊敬の念を持ってきみのまえに平伏しつつ、かくも高尚な意図を前にして、ぼくはなにをくよくよと思い悩むことがあろうか。極端な思想は往々にして対極にある思想へと大きく揺れ動きがちだとか、きみが本当に望んでいるものがカブトムシだったらどうしようかとか、きみが犯したいくつかの些細なまちがいを訂正することに果たして意味があるのだろうかなどと、ぼくはきみの光輪を拝しながら黙々と思案するのであるが、やはり自分に正しいと思われる筋を通すのがきみに対するぼくなりの礼儀だと勝手に思い立って、きみの言うことに散々文句をつけた挙句、終いにはきみの高尚な企図を台無しにしてしまうであろう哀れなぼくを、神よ、赦したまえ。

 わけのわからない冗談はさておき、率直に言って、きみの計画には重大な欠陥があるようにぼくには思われる。

 きみも懸念するように、脳科学者たちが言っていることが正しいならば、多くの夢は無意味であろう。彼らの言い分に従えば、夢は脳内のランダムな信号に由来する無意味なイメージと理解されるからである。この意見が正しければ、夢の事象はきみの「無意識」の願望とは無関係に生起するものとみなされることになろう。この点に関して、ぼくの意見は脳科学者たちに加担する方向に傾いているが、ここではそのような身も蓋もない反論はやめて、きみが見る夢のうち、少なくともいくつかは、きみの「無意識」の願望を反映していると仮定しよう。

 そうした願望は、動物的本能に由来する抑圧された願望かもしれないし、ユングの言う集合的無意識かもしれないし、あるいは個人的なレベルでは、幼少期のトラウマに基づくものかもしれない。日常では意識に上らない秘匿された願望を夢の世界で開示することが、きみの言う「夢の世界での自分探し」であり、そうした願望を満たしてやることが人類にとっての究極の癒しであり、はたまた希望であるというのがきみの考えである。

 なお、以下では、議論を単純化するために、明晰夢ではなく通常の夢を対象として議論を行うこととする。(きみの意図は、明晰夢における鮮明な意識で夢を観察することかもしれないが、ひとまず後回しである。)

 そこにはまず、次のような難点がある。きみの見るいくつかの夢がきみの「無意識」の願望を反映していると仮定したとしても、きみはそのような夢を他のどうでもよい夢からいかにして区別できるのか。

 今夜きみが見る夢には、きみの願望が反映されるかもしれないし、されないかもしれない。いったい何を手掛かりとしてきみはそれを見分けるつもりなのか。クローバーの群れから四つ葉を探すのとはわけがちがうのである。きみが知りたいと思っているのは「無意識」の願望なのだから、きみはそれが何なのかあらかじめ知っているわけではない。(もし知っているとすれば、あらためて知る必要はなく、したがってきみの計画は無意味であろう。)そうすると、きみが見分けることができるのは、きみがあらかじめ知っている(意識的な)願望だけであり、きみの「無意識」の願望がなんであるかは、結局のところわからないことになる。それだけなら、まだよい。もしきみが、願望がまったく反映されていない夢を誤ってそのようなものとみなした場合、まったくきみの精神のうちになかったものが、誤ってきみの願望とみなされてしまう危険すらあるのだ。

 そこで、きみの計画を救うためには、いくつかの夢でなく、すべての夢にきみの「無意識」の願望が反映されていると仮定しなければならない。これは、まったくもって疑わしい仮定であるが、議論のために受け入れることにしよう。加えて、抑圧された願望、集合的無意識、コンプレックスやトラウマ、その他ありとあらゆる自覚されざる実在なども、百歩譲って認めてもよい。

 しかし、これらのことをすべて仮定した上でも、依然としてきみの計画は不成功に終わるようにぼくには思われる。ここでも根本的な障害となるのは、「無意識」の願望がなんであるか、きみは最初から知っているわけではないということだ。

 きみがやろうとしているのは、一言でいえば、夢の内容の「解釈」という作業であるが、きみはそのために必要ないかなる基準も持ち合わせていないがゆえに、最初の段階で挫折してしまうか、疑わしい前提のために、まちがった解釈に導かれる危険があるかのどちらかである。後者の場合には、とんでもなく悲惨な結果に終わることも稀ではない。

 以下ではこのことを二つの夢の例を用いて説明しよう。便宜上、ぼくがみた夢の話だと仮定する。いずれもセンセーショナルな内容の夢である。


1.ひとりの少女が屈強な男によってレイプされており、ぼくはその様子をなすすべなく見つめている。

2.ぼくは罪のない少女たちを次々とレイプしていった。


 いずれの夢にもぼくの深層意識が反映されていると仮定し、また、1と2の夢に現れた願望が同一の願望か、異なる願望かはわからないと仮定する。

 さて、ぼくはいかなる解釈を各々の夢の内容に施すべきであろうか。2の夢にはほとんどひとつしか解釈の余地がないのに対して、1の夢は、まったく異なる二つの方向から解釈できる。一方では、ぼくは、世の中で悲劇的な犯罪が行われていることに憤慨ながらも、自分の無力さを嘆いており、もっと力が欲しいという願望を抱いているとも解釈できる。他方では、屈強な男とは実は自分の願望が実体化したものであり、その男のように少女をレイプしたいという願望を抱いているとも解釈できる。あるいは、ぼくは、それら相反する願望の両方を同時に持ち、そのあいだで板挟みになっているとも解釈できよう。

 ぼくは何らかの理論にコミットしないかぎり、それらの解釈のいずれが正しいか決定することはできない。そこで、各方面の専門家をまじえて、この夢をどう解釈したらよいか議論したとする。

 心理学者の見解は、上記の三つの選択肢のあいだで揺れ動くであろう。臨床心理士は、ぼくの過去になにかトラウマがないか調べようとし、精神分析学者は、イドと超自我がせめぎ合っているようだと呟き、脳科学者は、最近そのような映画を見た記憶はないかとぼくに尋ね、倫理学者はとくに何も言うべきことがないので沈黙し、フランス現代思想家は興味津々でわけのわからない分析を施し、教育者はあってはならないことだと言い、偽善家はあってはならないことだと口では言いつつ内心では別のことを考え、利己主義者は自分も屈強な男になりたいものだと冗談まじりの発言をして一同の顰蹙を買い、フェミニストは何を言い出すのかまったくもって不明だが、とにかく男性の側にいちばん不利な選択肢はどれか検討し始める、等々。各人が各人の領野から勝手な分析を始め、諸子百家状態になって収拾のつかない事態に陥るのは必至である。

 そうして、実りのない会議を終えて、ぼくが疲れきった表情で佇んでいるところに、神学者がつかつか歩み寄ってきて、「神に祈りなさい。最後に懺悔をしたのはいつかね?」と聞くと、ぼくはキリスト教徒でもないのに、まんざらでもない気分になる。そういうオチである。

 以上の議論から、ぼくの言いたいことはもう明瞭だろう。夢は、きみの頭の中で起こる事象であるから、現実の事象に比べれば、きみの欲求や感情と遥かに密接な関係にあることは確かだ。だが、ここからただちに、きみの頭にある夢の事象がつねにきみの無意識の欲求や願望を反映しているという結論は出てこない。

 夢は、きみの意志に反することや、きみが恐れること、回避したいと思っていることも反映するだろう。最悪なのは、2の夢のような、犯罪的な種類の夢をきみが見てしまった場合に、そこに現れているのが自分の無意識の願望であると断定してしまうことである。もちろんそれが真実である可能性もあるが、きみは自分に帰すべきでない願望を誤って自分に帰してしまっていることも十分考えられる。もしかすると、きみにそう判断させるものこそ、きみの無意識の願望であるかもしれない。つまりきみは、罰せられたいという無意識の願望に導かれて、誤った結論を下したかもしれないのだ。素人診断ではしばしば混同されるが、内罰的願望と犯罪的願望はまったく別の種類の願望である。前者はまったく善良な人々のうちにも生じることがある。たいていは根拠のない自責感に苛まれたゆえの不幸な産物であって、犯罪に結びつくような種類の願望ではない。そのような区別すらつかない人に夢を解釈する資格などない。空想をもてあそんだ挙句、自分の身を破滅させる危険が夢の解釈にはつねに伴っているのだ。

 心理療法の一部としてなされる本格的な夢分析は、時として専門家すら扱いに苦慮する代物であることは知っておいたほうがいい。夢分析はセラピストとクライアントの幅広い相互作用の一部でしかないことも指摘しておく価値がある。そもそものところ、専門的な夢分析は、夢のイメージの直接的な意味表示に抗い、これを人間の実存にとって有益な方向に解釈しなおす目的論的な取り組みであるようにぼくには思われる。ぼくはいまユング派の分析治療を念頭に置いて話をしているが、無意識の象徴的な解釈体系が神経症の治療を目的として形作られたことからすれば、近親相姦や殺人といったテーマを文字通りの邪悪な意味で解釈しないのは当然のことであろう。それについてとやかく言うことは、明らかに見当ちがいである。問題はそこにはない。

 著しい問題は、これとは対照的な探求過程において生じる。それはきみの探求とおそらく無縁ではない。知的好奇心のみによって方向づけられた探求がしばしば人の道を踏み外しがちであるということは、どんなに強調してもしすぎることはない、人間の愚かさを指し示している。西洋思想界の文脈で言えば、保守的な信仰的立場への反発から、不合理でわけのわからないものに惹かれていった一部の思想家たちは、アブノーマルなセッションを繰り返すことで、彼らに親近感を持つ人々を無軌道な破滅的行動へと駆り立てていった。「無意識」こそ、人間の内にある最も不合理なものとみなされ、もてはやされたのである。そこには、人間存在の本質に対する暗い興味しか見出されない。悪への自由は、彼らにおいては、人間が打ち勝つべき誘惑とはもはやみなされていないのである。この一事をもって、彼らを人類の敵とみなすことは、決して不当ではなかろう。

 言わなければならないことはまだまだたくさんあるが、かなり長くなってしまったから、今日はこの辺で筆をおきたい。かなり上から目線で忠告を与えた感じにはなったが、本音を言えば、きみからどのような反論が寄せられるか期待しているのだ。   草々

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