9 明晰夢など存在しないという異論(2)明晰夢の夢

前略

 ぼくはきみのことを誤解していたようだ。実を言えば、ぼくは、きみが明晰夢を見たいが果たせないでいるがゆえに、導入の比較的容易な入眠時幻覚に固執しているのだとばかり思っていた。しかし、まったくの見当はずれだった。真実には、きみは明晰夢なんてものは存在しないと考えていたとは! しかも、きみは、ぼくが嘘をしゃべっていると考えているのではない。むしろ、ぼくが経験したことをあるがままに物語っていると考えている。しかも、ぼくの頭がまったくおかしくなったというわけではなしに! すばらしい! すばらしい発想だ。いや、流石と言うべきだろう。きみが言おうとしていることをぼくが理解したとき、ぼくは相当な衝撃を覚えた。なぜなら、きみは、明晰夢が存在しないということを、特別な仮定を立てずに論証したからである。

 明晰夢と呼ばれる夢は、通常の夢とは根本的に異なる夢であると多くの人が信じているし、ぼくもそう信じていた。きみは大胆にも、このことに異議を唱えようとする。きみの考えでは、明晰夢と通常の夢は、あらゆる点で、異なるところがない(明晰夢は、通常の夢の枠内で理解することが十分可能である)。これがきみの基本主張であり、きみはそれを抽象度の高い語彙を用いて論証した。きみの論は非常に難解だったので、さしあたっては、ぼくがきみの考えを正しく理解したか確かめてもらうために、以下では、きみの論証をぼくなりに咀嚼した形で提示することにしよう。


 夢の中で、ぼくは映画を見ている。ぼくは「我を忘れて」映画に没頭している。ぼくは映画を見ているという事実を無視しており、また無視しているということに気づいていない。きみの表現で言えば、ぼくは自分が見ているのが映画だということを「失認」している。映画の主人公の発話は、ぼく自身の発話だと思っており、しかも、主人公の思考は、内的発話として、ぼくの脳内に直接に聞こえてくる。それゆえに、ぼくは主人公の思考をぼく自身の思考だと錯覚している。発話や思考のみならず、行動、感覚、感情についても、事情は同様である。

 上演されている映画のタイトルは、『明晰夢』である。映画の内容は、主人公が見ている夢の情景から始まり、主人公は夢の中でそれが夢だと気づく。そして、夢だという前提のもとに、様々な行動を開始する。これが映画の筋書きである。ぼくが見ている夢は、映画の上演と共に終了する。ぼくは眠りから覚める。ぼくは、先ほど見た夢の記憶を思い返してみて、明晰夢を見たと確信しているが、本当にそうだろうか。夢の中でそれが夢だと気づいたことになるだろうか?

 ならない。なぜなら、ぼくは映画を見ていただけであり、『明晰夢』の映像を受信していたにすぎないからだ。ぼくは主人公の行動を誤って自分に帰属させることによって、あたかも夢の中で、それが夢だと気づいたと錯覚しているだけなのである。

 映画とは、ふだんぼくたちが見る夢を喩えたものである。夢の中の「ぼく」が、本当のぼくではないような別の誰かであるとすれば、ぼくは彼の行動を一人称視点で観賞しているにすぎない。きみの考えでは、夢を見るとは、つまりそういうことなのである。夢を見ているとき、ぼくが能動的にしていることは、なにもない。脳が自動的に再生している映像を、ぼくは一方的に見せられているだけだからだ。せいぜいのところ、ぼくはドラマの観衆のように、主人公の行動を追体験しているにすぎないだろう。

 このような見方に立てば、明晰夢と通常の夢とを分けるちがいは、提示された映像のストーリーのちがいでしかない。いかなるストーリーであろうと、映画は所詮映画であって、それ以外の何ものでもない。通常の夢と形式上なんら異ならないとすれば、明晰夢は特別な種類の夢ではなく、通常の夢の範疇に収まることになろう。そうなればもはや、明晰夢と呼ばれる夢に、ぼくがこれまで与えてきたような、夢の中での特権的な地位を与えつづけるわけにはいかない。もしこれが事実だとすれば、明晰夢という幻想は崩壊する。

 重要なのは、夢だという気づきが本当に錯覚であるかどうかだ。錯覚であることを裏付ける証拠をきみは提出していないが、明らかに錯覚とわかるような、似たような気づきの事例が夢には見いだせることをきみは指摘した。きみ自身の言葉を引くと、「夢から目覚めたと思ってそこがまた別の夢の中であるという夢を見ることがある。この夢が特別な種類の夢でないならば、それと同じ理由で、明晰夢は特別な夢ではない。夢から覚めたと思ったことが錯覚であるとすれば、夢だと気づいたと思ったこともまた錯覚であると考えない理由は存在しない。よって明晰夢は存在しない」

 存在しないと断定するのは行きすぎのようにも思われるが、少なくとも次のことは言える。夢の中のぼくの意識に、それが夢であるという気づきが生じたという単純な事実からは、ぼくの意識が夢の中で覚醒したという結論を導くことはできない。夢であるという気づきが夢の中の出来事の一部である以上、この気づきそのものが「夢」でないと断言することはできない。「あなたが見ていたのは明晰夢ではない。明晰夢の『夢』だったのである。」

 また、夢の中の「ぼく」の意識が、現実のぼくの意識とは本質上異なるものであるならば、厳密な意味では、ぼくは夢の中で自分の行動をコントロールしていることにはならないだろう。事実、夢の中でのぼくの行動には、現実からみれば不可解なものもある。きみに言わせれば、母親がとなりにいるのに女性を抱くなんて、夢にも思わないことである!

 夢だという気づきも、夢の行動をコントロールできるという主張も、もはや額面通りに受け取るわけにはいかない。すべては錯覚であるという深刻な疑惑が浮上してきたのである。この疑惑が払拭されないかぎり、明晰夢が特別な種類の夢であるという考えは、幻想にすぎないと考えてしかるべきである。以上が、ぼくが理解したかぎりでの、きみが提示した論証である。なるほど、たいしたものである!

 きみの論証は、明晰夢という幻想をぼろぼろに打ち砕く破壊力を秘めている。現時点でぼくには、きみの説に対する有効な反論の用意がないので、今日のところは、ぼくがきみの主張を正しく理解できたか確認を求めることで満足することにしたい。

 それでは、お返事をお待ちしている。きみの卓越した知性に敬意を表しつつ。   草々

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