8 明晰夢など存在しないという異論(1)

前略

 お返事を読ませてもらったが、ぼくはきみの意見にどう反応していいか、少々困惑している。正直に言って、ぼくには、きみが言っていることがいまいち理解できないでいるのだ。

 きみの意見では、入眠時幻覚において、夢を現実と錯覚する場合と、夢だと自覚する場合とのあいだには、「重大な意味でちがいはない」という。なぜなら、前者の場合には「現実であるという認識」が、後者の場合には「夢だという認識」が夢の中の行動に伴うというちがいしかないからだ。こうきみは主張している。

 もしこれがきみの言わんとするすべてであり、それ以上の含みがないならば、ぼくにはきみが言っていることがぜんぜんピンとこない。夢の自覚があるかどうかは、ぼくには文句なしに重大なちがいであるように思われる。なぜなら、夢であるという認識が伴うことこそが、明晰夢であるための必要十分条件だからである。

 しかし、きみほどの人間が確信をもってそのようなことを言い出すからには、それなりの根拠があるはずだとぼくは考えた。(残念ながら、きみはその根拠を手紙の中に書かなかったが。)もしかすると、きみが考えているのは、こういうことかもしれない。例えば、夢の中でぼくが大きなステーキを食べているとき、重要なのは、それが夢であると気づいているかどうかではなく、その夢がリアルであるかどうかということだ。そして、快楽の質という点から言えば、自分が食べているのが所詮、夢の中の幻の肉だとわかっているよりも、それをホンモノの肉だと錯覚しているほうが、むしろ好都合である。同じことは、セックスなど、快をともなう他のあらゆる夢について言える。こうきみは考えているのかもしれない。もしそうだとすれば、この意見には確かに一理ある。

 だが、ぼくの意見を言えば、それが夢だと気づいていなければ、重大な副作用をもたらすことになる。まずもって、夢であるという自覚がなければ、夢の中のぼくは、「現実的な」行動を選択する保障がどこにもない。わかりやすく例を挙げて説明しよう。

 夢の中で、自分の目の前にステーキの皿がさしだされ、食べるか食べないかの選択に迫られたとする。ぼくはステーキが大好きなので、それを食べるのが「現実的な」行動である。しかし、条件次第では、夢の中のぼくはステーキを食べずに床に投げ捨てるかもしれない。例えば、ステーキを食べるのを我慢して床に投げ捨てるならば、百万円もらえると条件づけられているときには、ステーキと百万円の価値を比較して、百万円をとるのは当然の選択である。しかし、それは夢だから、百万円にはなんの値打ちもない。現実でも、自分が五分後に処刑されることが判明していれば、百万円は紙切れ同然の値打ちしかないのと一緒だ。それが夢だと自覚していれば、このことがわかるが、夢を現実だと錯覚していれば、百万円を選ぶかもしれない。これは、明らかにばかげた選択である。

 また、いま述べたこととは正反対に、夢という自覚がなければ、「非現実的な」行動を選択する余地も消え失せる。これが二つ目の、おそらくより重大な副作用である。ここでぼくが言わんとする対比を正確に理解してもらうには、もう一度先の例を思い返してみる必要がある。

 そもそもの話、ステーキを我慢するだけで百万円もらえるなんてばかな話は、現実にはありえないだろう。失礼を承知で言えば、ばかな人は、現実でも、ばかげた話を真に受けてしまうのであって、それは幽霊や幽体離脱の例にも言えることだ。いまぼくらは、覚醒時の意識に勝るとも劣らない入眠時幻覚の話をしているが、通常の夢では、ぼくの頭は、正直言ってかなりばかである。夢の中では、どんなにばかげた状況でも受け入れてしまうのが日常茶飯事である。しかし、たとえどんなにばかな頭であっても、それが夢だとわかっていれば、ばかげた話に惑わされないだろう。これが、先ほどぼくが「現実的な」行動という言葉を口にしたときに、考えていたことなのである。

 これに対して、「非現実的な」行動というときにぼくが考えているのは、最も賢明な人々でも罠にはまってしまうような状況である。ステーキの例で言えば、もしぼくが現実で医者から脂っこいものを控えるよう指示されているとすれば、夢の中でもステーキを食べずに我慢することは、ありそうなことである。しかし、それは夢だから、我慢しなくてもよかった。ステーキの値段が百万円だったとしても、注文を躊躇することはない。いましたいこと、いまできることだけを考えればよい。

 こうした単純な例からもわかるとおり、現実ではありえないような行動選択は、明晰夢が秘める最も魅力的な可能性である。それに関して、ぼくが実際に経験した例を元により深い理解を得るために、二つ前の手紙で書いた夢の続きを話すことにしよう。実のところ、ぼくはそれを話すのを非常にためらったが、議論のためにも、思い切って書くことに決めた。

 さて、ぼくが自転車で岬の小道に出て、海を見ていたく感動した話はきみもまだ覚えていると思う。その後どうしたかというと、ぼくはわざと海の中に自転車ごと落ちてみようとした。ぼくがなぜそんなことをしようとしたのかは、いまはどうでもいい。とにかく、ぼくは落ちられなかった。夢の中とはいえ、潜在的な恐怖がはたらいたと見ることもできるが、ぼくはハンドルを切れなかったわけではない。ぼくは思い切りハンドルを切ったのだが、どういうわけか自転車がくるりと逆方向を向いてしまったのである。

 ぼくが自転車に乗ったまま回れ右をすると、目の前には、一人の女性が立っていた。そのひとは、ぼくの現実での知り合いで、詳しくは書かないが、ぼくはその女性からある時期好意を抱かれていた。むろん恋愛的意味においてである。だが、現実では、ぼくは彼女に振り向かなかった。実のところ、ぼくはそのことをいまでも後悔している。だから、ぼくは夢の中で彼女と結ばれようと決意した。夢の中での彼女は、いまでもぼくのことが好きだった。彼女は一言も言葉を発しなかったので、どうしてぼくがそれを知っていたのか、ふりかえってみれば不思議だが、夢の中ではこの種のインスピレーションがある。なんの根拠もない思念が理屈抜きに真実であるとわかってしまう瞬間が、夢にはしばしば訪れるのだ。

 ぼくは自転車を降り、彼女の肩に手をかけて、林のほうにむかった。ぼくたちは芝生に腰をおろして、キスをした。ぼくの頭の中では、やることはもうひとつしかなかった。彼女が着ていたカーディガンを脱がし、シャツのボタンに手をかけたときのことである。とんでもないことが起こった! 誰かがぼくたちのとなりにいるのだ。なんとそれはぼくの母親だった。ぼくは一瞬、羞恥心を感じて、彼女から手を離そうとした。行為を中断しようとしたのである。

 だが、ぼくはすぐに思いなおした。これは現実の母ではないと。ぼくは夢の中で、選択に迫られていると思った。現実では板ばさみになって、常識的な選択をするところだが、もしそうであってみれば、つまりこれが夢ならばこそ、ぼくは現実ではできない選択をしようと決め、現実ではしなかった選択をした。ぼくは行為を続行し、夢の中で彼女と結ばれた。途中から記憶が曖昧なのだけれど、ぼくたちの様子を見ると、夢の中の母はじきにどこかに行ってしまったようだ。

 夢の話は以上だが、ぼくが言いたいことはすでに明瞭だろう。夢という自覚がなければ、現実では不可能な選択をすることができない。常識を超え、時間をも越えられるのは、夢の世界だけである。明晰夢の可能性は、あらゆる領域に及んでいる。夢の世界では、物理学、生理学、道徳、法律、その他くだらない常識など、ありとあらゆる領域において、現実での制約を無効化することができる。最も低俗な例で言えば、ぼくが彼女を無理矢理レイプしたとしても、夢の中ではお咎めなしなのである。夢の自覚を欠けば、制約を意識的に打ち破ることができない。あらゆる制約を完全に打破しうるのは、明晰夢の中だけなのである。

 そういうわけで、ぼくはきみの意見には加担しがたい。やはり、それが夢であるという自覚があるのとないのとでは、重大なちがいがあると言わなければならない。

 明晰夢の行動可能性は、無限である。賢明で、自制心がある人ほど、この世の快楽というものから遠ざかってしまうのは、どうしてそうなってしまうのかわからない、現実世界の偉大なパラドックスである。快楽を悪として否定するのは、どう考えてもばかげた思想である。犯罪的な傾向を持つ人のほうが、この世の快楽をより多く享受できるというのは、神がこの世界を正しく創造し損ねたとしか思われないほど、不条理なことであるようにぼくには思われる。だからこの世界から悪というものがなくならないのだろうと、ぼくはひそかに思うわけだが、(神への愚痴など、言っても仕様がないことはともかくとして)ぼくが言いたいことは、以上で十分伝わったと思う。

 それでは、お風邪など召しませんように。長風呂も大概にしたまえよ。   草々

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