005

 自宅を出て、徒歩数十秒の場所に、私は用があった。

 引っ越しの準備の一つ。それは、彼との仲直りだ。

 あんなに簡単に押していた隣の家の呼び鈴が今ではとても重く感じる。指が震えて、なかなか上手く押せない。

 でも、決めたんだ。

 私は今日、彼と話をする。絶対に。

 ここで怖気づいてしまったら、きっともう二度と彼と話せないかもしれない。

 一旦深呼吸を挟む。胸に手を当てて、「大丈夫、大丈夫」と何度も唱える。

「……よしっ」

 意を決してグッと指先に力を加えて前へと押し込んだ。その力で、呼び鈴のボタンがへこむ。優しいチャイム音が鳴り響き、私は静かに反応を待つ。すると、

『さくらちゃん!』

 繋がって即、間髪入れずに幼い少女の声が聞こえてきた。

 受話器を勢いよく置く音、そして玄関扉を素早く開錠する音が聞こえ、開いた。

「さくらちゃーん!!」

 私を確認すると、舞ちゃんは猛スピードで私に駆け寄って、抱きついてた。

「舞ちゃん、お久しぶり」

「ほんとーにおひさしぶり! さびしかったよっ」

 目を潤ませて舞ちゃんは私を見上げた。とっても愛らしくって、頭をたくさん撫でる。

「お兄ちゃんも舞ちゃんも大丈夫? 学校休んでるって聞いたけど」

「わたしはへーき! お兄ちゃんの調子が悪いから休んであげてるの」

 太陽のように明るい笑顔でそういう。一応マスクはしていた。

「おにいちゃんは今、隔離じょーたい!」

 家の外から彼の部屋の方を指さして、彼女は真剣なまなざしを私に送った。


「おじゃまします」

 半年以上ぶりに、宮澤家に入る。

 玄関はいつもと同じ。そして、同じ匂い。周りを軽く見渡しても、何一つ変わっていないようだった。でも、緊張している私がいる。

 しかし、いつもと違う点がある。おばさんがいないのだ。

 もしかしてとは思っていたけれど、最近の彼の遅刻は、おばさんの不在が大きく起因していると考えて間違いない。私はあえて舞ちゃんには聞かなかった。

 靴を脱いで、音を立てないほど大人しく廊下を歩く。舞ちゃんとは居間で別れて、私は階段をゆっくりと上った。無意識に息を止めていて、苦しくなってようやく気付く。相当、緊張している。

 あっという間に、彼の部屋の前に着いた。

「……ふう」

 息を吐く。少し強張っていた肩の力がいつも通りに戻るまで目を閉じて自分を落ち着かせる。

 さあ、行こう。

「舞、誰だったんださっきの呼び出しお……ん?」

 私がノックするために拳を握り、今にも叩こうとした寸前。向かい側からドアが開けられた。

「……桜?」

 目の前にいきなり彼が現れた。


 突然のこと過ぎて慌てつつも、彼は部屋に招いてくれた。

「移るかもしれないから、あんまり近寄るなよ」

 そう言って、彼はすぐにベッドに横になる。

「……何しに来たんだ」

 私に背中を向けながら、口ごもるように蛍は私に尋ねた。

「お見舞いだよ。最近学校休んでたから」

 と言っても、何も持ってきてはいないけれど。お見舞いなんて口実に過ぎない。

「違うんだろ、どうせ」

 やっぱり、すぐにバレてしまう。

「……うん。実は、仲直りしたくって」

「仲直り?」

 こちらを向いた彼は半目がちで、少し気怠そうだった。

「私ね、小学校卒業したら、引っ越しするんだ。北の方だって聞いてる。ここより少し寒いとこ」

 私はやっと、ここで初めて引っ越しについて伝えることができた。

「知ってたよ。お前の母さんから聞いた」

「あ、そうだったんだ……知ってたんだね」

 どこかで母と会ったのだろう。流石に家族まで無視することは、彼の性格上できないとすぐに理解できる。

 でもなんだか、それを聞くと余計もやもやした。引っ越すってわかった上で、そんな冷たい態度を取ってたの?

「……お、おい桜」

「え?」

「な、なんで泣いてるんだ」

 言われて、頬を伝う冷たい何かに気づく。私は涙を流していた。

「ご、ごめん。なんでだろ、あはは……」

 笑ってごまかせるほどの量じゃなかった。もう、拭いても拭いても、私は涙を拭い切れない。

「急に来て、いきなり泣いて、迷惑だよね、ごめん。ごめん……」

 繰り返し、謝ってしまう。これでは、本当に迷惑だ。わかっているけれど、取り繕える言葉が出てこない。

「迷惑なわけあるか。お前はいつだって俺を助けてくれただろ」

 真剣なまなざしで、蛍は私を見つめていた。霞んだ視界でも、よくわかるくらいの視線だ。

「小さい頃から俺は、桜に助けてもらってばっかりだった。むしろ迷惑かけてたのは俺だよ。だからこそ、お前が引っ越しするって聞いて……正直、このままじゃダメだって思ったんだ」

 ベッドの上に座って、こちらに身体を向ける。蛍はまだ話を続ける。

「今年くらいから、母さんが海外に行くことが増えちまってさ。元々父さんも単身赴任だし、家にはほとんど俺と舞だけだ。多分、中学に入ったらほとんど帰ってこれなくなるって。それで、お前の手を借りずに頑張らないといけないって」

 彼はマスク越しに咳込む。心配する私を手で制止して、更に続ける。

「俺の方こそ、突き放して悪かった。本当にごめん」

 頭を深く下げた。私はようやく、涙が少し治まって一息吐く。

「もう、そうならそうって、言って欲しかったな」

「ごめん……」

 なんて酷いことだろう。私のこの半年くらいのモヤモヤを、どうしてくれようか。でも、不思議と今の理由でスッキリしてしまった自分がいた。ああ、私は蛍に本当に甘い。なんであんなにも心をむかむかとさせていたのに、こんなにもスッと納得が言ってしまうのだろう。

 もっと、めんどくさい女だったら良かったのに。

「……待って蛍、ということは今、舞ちゃんと二人なの?」

「うん。舞は俺の看病で休んだんだ」

 胸が締め付けられた。小学6年生の男の子と小学3年生の女の子だけで暮らしている事実。そして、それをよく見知った幼馴染であり、あの蛍がしているということに。遅刻してた理由も、大いに納得できてしまう。これまで以上に不安が募る。

「すっごく心配だよ……」

「病院行って薬も飲んでるから、もう少しで完治する。学校にも行くし、気にすんな」

「そ、そっちじゃなくて!」

 私いなくなっちゃうんだよ、蛍。

 もう、そばにいられないんだよ。

 私が引っ越したら、あなたはどうなってしまうんだろう。

 不安で不安で、私はまた涙が止まらなくなってしまう。

「さ、桜……」

 涙を流している私に、何か声を掛けようとしているのがわかった。でも、私はどうしても、蛍のことが――もちろん舞ちゃんのことも――心配で仕方がなかった。

「あーーーーー!! おにいちゃん、桜ちゃん泣かせた!!!」

 突然現れたキュートな少女によって、悲しいムードは消え去った。


 こんなことなら、私は、やっぱりここに残るべきだったのかもしれない。

 そんなことを考えても、もう、後の祭りなのに。

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