第11話 冷たいときめき

 それから、輝夜の悩み事は「怜史くんのお願い事ってなんだろう」もしくは「怜史くんの誕生日プレゼントは何にしよう」の二択になった。仕事をしていても家事をしていても、ふとした瞬間に頭をよぎる。怜史の望みが何なのかは想像もつかなかったけれど、喜んでほしいことだけは確かだった。

 輝夜の心の中には、透明な水彩絵の具で描かれた怜史という名の少年の笑顔がすっかり住み着いてしまって、浮かれるやら落ち込むやら、いつになく不安定に精神が揺らぐ。

(なんか、懐かしい。これが恋、かぁ)

 人並みに恋愛経験値のある身として、ほぅ……とため息をつく。明るい側面ばかりでないことは知っていたが、これほど心の痛い恋愛も少ないのではないかと思った。

(怜史くんは、誰かを好きになったことがあるのかしら?)

 そこから、さらに思考を進める。

(怜史くんは、私のことをどう思っているんだろう?)

 恋愛で肝心なことはまさにそれであって、今まで失念していたのは間が抜けているとしか言いようがない。それとも、初めから叶わぬ恋だと思っているから、心が考えることを拒否していたのだろうか。


 とにかく輝夜は、来る六月十日が素晴らしい一日になるよう努力することを、自分自身に誓った。

 怜史の好きな料理をリサーチしてレシピ本を買い、誕生日プレゼントに頭を悩ませる。それは、大きな喜びをともなう準備だった。

 同時に心の奥で、何かが抜け落ちているような、何かに気付かなくてはならないような、焦燥がアラームを鳴らすのだった。


 そして、今日は六月十日の前夜。

 仕事から帰ってきた輝夜は、怜史とふたりで料理を作り後片付けをして、ふたりきりの時間を楽しんでいた。

 怜史とならんでソファーに腰かける。テーブルの上には、ほうじ茶オレの入ったマグカップがふたつ。向かいのTVからは、バラエティ番組のにぎやかな音が流れてくる。

 ぽつりぽつりと贅沢に時間をおいて、時には笑い声をあげながら、最近の出来事やTVの内容について語り合う。

 それはふつうの恋人たちと変わりない、でもかけがえのないふたりの時間だった。

「かぐやってば、さっきからアーモンドばかり食べてるね」

 ミックスナッツの袋から、アーモンドを狙って抜き取っていることがばれていたらしい。

「だって、アーモンドが一番好きなんだもの」

「じゃあ、アーモンドだけのを買って来ればいいのに」

 怜史の言うことはもっともだと思うが、それでは物足りない気持ちもあるのである。

 輝夜は、冷蔵庫から梅酒を取り出し、ソーダ割を作った。怜史は、一度ビールを試して以来「お酒は苦手かな」ということだったので、彼のためにジンジャーエールをコップに注ぐ。手渡すと「ありがとう」と透き通る笑顔が返って来る。それは、アルコールの力を借りなくても、輝夜の頬を熱くするのに十分な効果があった。

 少し甘えてみたい気分になり、輝夜は怜史の横にころんと横になった。彼に実体があれば、間違いなく膝枕してもらうのにな、と思いながら。

「かぐや? 眠いの?」

 怜史の声が降って来る。同時に、優しいひんやりした手のひらが、輝夜の頭をいい子いい子してくれる。怜史は、すっかりこのコミュニケーション方法がお気に入りになっていた。

「ん~ちょっと眠いかな。でも怜史くんが撫でてくれたら、目が覚めるかもしれないな~」

 くすくすと小さな笑い声。

「なにそれ。ふつうは逆じゃないの?」

 そう言いながら、手は休めない。

「……かぐやって不思議な人だね。普段はしっかりしたお姉さんなのに、こんなときは可愛い人だなって思う」

 怜史の口からこぼれた「可愛い」という単語に、輝夜の耳たぶは赤く染まった。

「……そんなお姉さんは、嫌いかしら?」

「ぜんぜん。むしろ、大好きだよ」

 ストレートな怜史の言葉に、輝夜は身を起こした。

 黒くて深い、吸い込まれそうな瞳が、真っすぐ輝夜を見つめている。

 怜史の顔がだんだん近づいてきて、輝夜は自然に目を閉じた。ひんやりとした怜史の存在が、火照った全身に快い刺激を与える。

 おそらく輝夜の右頬に、接吻の冷たい証を残して、怜史は立ち上がった。

「さ、そろそろお風呂にしよう。輝夜は、明日も午前中お仕事があるんでしょう?」

 そう言った怜史の表情はいつもと変わりなく、ひとり赤くなっている自分を恥ずかしく思う。

(これは……期待しちゃっても、いいのかしら!?)

 思わせぶりな怜史の態度に、「お姉さん」のはずなのに振り回される輝夜だった。





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