第8話 芽生えた思い

 輝夜は、最寄駅から実家までの約三十分の道のりを、あえてバスを使わず二本の足で歩いた。

 五月中旬のかがやかしい緑あふれる町並みは、そうせずにはいられない誘惑に満ちていた。瑞々しい若葉をしげらせた木が、風に身をゆだねて奏でる緑の輪舞曲ロンド。さわさわ……と心地よく鼓膜を打つこの梢のさざめきこそ、妹・かなでの名前の由来でもある。

 近くのバス停を通りかかったとき、偶然にも、本日の誕生日パーティーの主役である奏と出会った。

 バス停を通り過ぎようとしていた輝夜と、バスから降り立った奏。ふたりは偶然の再会に目をぱちくりさせ、次いでお互いに笑顔を見せた。

「お姉ちゃん! 早いね、仕事は?」

「まだ途中よ。次のアポまで余裕があるから、荷物だけ先に置いとこうと思って」

 そう言って、ボストンバッグを掲げて見せる。

 ふうん、と返事をした奏と並んで、自宅までいっしょに歩く。

「今日、泊ってくんだよね? 魁人兄ちゃんは、ニ~三日ごろごろしてくって言ってたよ」

「……あの子、仕事のほうは大丈夫なのかしら?」

 本人が望んで就いた美容師という職である。姉としては、ぜひとも精励してほしいと思う。

 そして、ピタっと肩を寄せて来た奏から思わぬ発言が飛び出した。

「ところでお姉ちゃん。そろそろ、彼氏のひとりくらいできた?」

 輝夜は反射的に身をひいた。

「え、えぇ!? 急に何を言い出すのよ、この子は!」

 その反応に、奏は興味をそそられたようだ。

 じりじり……と間合いをつめてくる。口元ににんまりを笑みを張り付かせて。

「あらあら~。てっきり『そんなことあるわけないでしょ』ぐらいに軽くあしらわれるかと思ったら。真っ赤になってるわよ、ふふふ」

「そ、そんなことないわよ。ここまで歩いてきたから、少し熱いだけ!」

 輝夜はそう言って、ハンカチを取り出すと首筋の汗をぬぐう動作をした。実際、妹と出会うまでそれほど汗ばんでいなかったことを輝夜は知っていたが、鋭い妹の前では、知らぬ顔をしていたほうが良さそうだ。

 奏はゆったりとした口調で「じゃ、そういうことにしておいてあげましょう」と言い、やかましい兄たちや、両親には告げないと約束してくれた。

(あれ、これじゃまるで、私に彼氏ができたことが事実みたいじゃないの!)

 と輝夜は慌て、そして「彼氏」という単語で連想されたひとりの少年とも青年ともつかぬ人物の顔に、いっそう慌てる羽目になったのだった。


* * * * *


久しぶりの静かな我が家。

それは、ちくちくと胸の奥のやわらかいところを突き刺す。


さみしいな。

はやくかえってきてくれないかな。


でも仕方がない。

彼女は、彼が二度と持つことのできない、家族のだんらんを楽しんでいる最中なのだ。邪魔をするのは本意ではない。


でも、ボクのお願いごとはいつ話そうか――。


その時期を考えると、またちくちくと胸が痛みだすのだった。


もう少し長く、もう少し先まで待とう。

だって、彼女と過ごす日常は、まるで生あるもののようにキラキラと輝いているのだから。





 

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