悪しき隣人によるフーガ

 彼女の生活パターンは、監視が始まってから半年の間、常に狂いがなく正確だった。朝は七時四〇分にアパートを出て地下鉄に向かう。黒いスカーフで頭をすっぽり覆い、首から下は白の安物のコート。途中で高架鉄道に乗り換えて、小さな貿易会社のビルに入っていく。彼女はここで事務の仕事をしている。勤務は午後六時三〇分に終わり帰宅する。週に二度、帰宅途中にスーパーマーケットに立ち寄って食料品を買う。朝夕の食事は自分で作る。アパートの照明が消えるのは午後十一時だ。

 彼女のアパートには盗聴器が仕掛けられていて、通りの角に止められた白いバンの中からは彼女を二十四時間体制で監視していた。

 盗聴器から聞こえる生活音を頼りに、私は彼女の行動について事細かにノートに記していく。

 深夜一時を過ぎたころ、私の部下がバンにやってきて見張りを交代する。ノートの内容を引き継いでから、私はバンの外に出て新鮮な空気を吸い込んだ。「この任務は長引くぞ」という上司の不吉な予言のことを思い出す。実際、季節は夏から冬に変わっていた。吸い込んだ空気が私の肺をキリキリと締め付けた。

 遠くに明かりが消えた彼女のアパートが見える。彼女にかけられたテロリストの容疑とは裏腹に、平穏そのものの夜だった。

 内務省保安局は彼女がこの国に入国した直後から監視をつけていた。保安局の「最重要監視対象団体」のひとつである「クワラルカート解放戦線」との関係が疑われたからだ。監視を始めてからすぐに、彼女が頻繁に公衆電話を使って謎の相手と連絡を取り合っているのがわかった。以降は彼女への「監視」は「厳重な監視」へと格上げされた。そして私たちのチームが駆り出されたのだ。

 彼女の通話相手が国内の公衆電話であることは分かっているが、通話の時間も場所も毎回無秩序に変わるせいで会話の傍受には未だに成功していないし、誰がその電話を受けているのかも不明のままだ。彼女が単に就労目的でこの国にやってきたのであれば不自然すぎる行動だった。彼女が何らかの密命を帯びてこの国に来たことはまず間違いなかった。

 バンの外で煙草を吸っていると、コートに山高帽の男が近づいてきた。私は思わず舌打ちして、吸い始めたばかりの煙草を排水溝に落とした。

「状況は?」

「変化なし。今日は電話連絡もなし」

 私は世間話をするみたいに上司に報告した。彼は興味なさそうな素振りで私の隣に立ち、馴れ馴れしく肩に触れようとした。

「やめてください」

「男女が二人、夜の街で何もしないのは不自然だろう」

 気障ったらしく言って、私の髪に触れようとする。彼はそういう仕草がよく板についた優男だった。任務のための偽装というだけでなく、私生活でもそうだった。私が知る限り、彼は自分の浮気が原因で二度の離婚を経験していた。

 私は上司の手を払った。

「これはナンパを拒絶する女の演技」

「相変わらず君は石のような女だ」何度も聞いた言葉を背中に投げかけられる。「君のような女と働いていれば、俺の家庭も円満でいられる」

 上司の浮気相手は決まって部下の女だった。三度目の結婚生活が始まったころ、私は彼の部下になった。それ以来、彼の浮気はピタリと止まった。

「君は家族が死んでも泣かないそうだが、本当か?」

「誰がそんなことを?」

「ただの噂だよ」

「わかりません。確かめようにも、家族はもういないので」

 私は上司をその場に残して現場を離れた。




 この任務についてから、私の生活は彼女の生活と共にあった。

 盗聴器から聞こえる彼女の生活に耳を傾けながら、本部から取り寄せた資料に目を通す。何度も。何度も。

 彼女には同じ年の婚約者がいた。親が友人同士で、古くからの幼馴染。二人は高校に入るころに付き合い始めた。彼女は高校を卒業してからは、地元で観光客相手にガイドをしたりダイビングを教えたりして生計を立てるようになった。一方の彼は大学に進学して、そこで「クワラルカート解放戦線」にスカウトされた。

 クワラルカート解放戦線での彼の役割は、外国で買い付けた武器を、この国に潜伏している「実行部隊」に密輸することだった。

 彼が「活動」を始めてから二年が経ったころ、武器密輸の現場を当局が押さえて、彼は逮捕された。弁護士のいない一方的な裁判の後、収容所に送られた彼を待っていたのは苛烈な尋問だった。

 そして、彼は死んだ。

 彼が死ぬのと同時期に彼女は仕事を辞めて、それから三年間はどこで何をしていたのか未だに不明。次に彼女が私たちの資料に現れるのは、半年前に我が国の空港に現れたときだった……。


 その日の夕方、週末の勤務を終えた彼女は、いつもの同僚の女と一緒に建物を出た。同僚の女は相変わらずピンク色の派手なレザーのコートで、爪のマニキュアは今日は毒々しい緑色だった。

 彼女はここのところ同僚の一人との仲を急速に深めているようだった。もちろん、同僚の身辺は保安局が徹底的に洗っていて、テロ組織との関係がないことは確認済みである。

 信号が変わるのを並んで待ちながら、どちらからともなく二人は指を絡ませ合っていた。

 ……上司は同僚の女を重要視していなかったが、私はその見方には懐疑的だった。

 まるで恋人のように仲睦まじく歩く二人を、私は通りの反対側から観察する。

 彼女がふざけて同僚の肩にしなだれかかった。照れたように笑い合う。同僚の目には彼女しか映っていない。一方の彼女はどうだろうか。どれほど愛をささやきあっても、彼女の心には荒涼とした空洞が広がっている。そんな気がしてならない。


「対象の行動すべてに意味があると思うから、そういうふうに見えるんだ」

 再三の私の警告を上司は一顧だにしない。分かっていたことではあったが。

「対象のことを過大評価しすぎだ。そもそも俺たちは半年もかけて未だに何の証拠も掴めていないんだ。保安局の予算は無限じゃないんだ」

 保安局の「監視対象」のうち、実際に対象の逮捕まで辿り着くのは全体の割合からするとかなり少ない。空振りの多い任務なのだ。ましてや半年も監視を続けて証拠を一つも見つけられずにいるのであれば「時間と人手の無駄遣い」と言われても仕方がない。

「対象が冷徹な人間であってほしいという君の願望がそう思わせてるだけだ」

 願望? 私の願望とは一体何だろう?

 彼女が仲睦まじい同性の恋人を持つはずがないという願望。彼女が飢えた狼のように破滅と破壊を求めているという願望。彼女が人間らしい生活を営むはずがないという願望。それとも、復讐に身を置きながらも人間らしい感情を持つことへの嫉妬? それとも、偽物とはいえ彼女の信頼を得ている同僚の女への嫉妬……?

 馬鹿らしい。


 職場を後にした二人は、その足で小さなレストランに入り、料理と酒を楽しんだ。

 食事が終わると、レストランの前で短い口づけを交わして二人は別れた。

 監視チームは彼女の方を追跡する。私は通りの向こうに消える、同僚の後ろ姿を見た。まるで誘っているかのように尻を左右に振る下品な歩き方。――すぐに意識から女のことを消して、彼女の方に集中した。

 家に向かう帰り、彼女はまたもや公衆電話に立ち寄ると、どこかに電話をかけてすぐに受話器を置いた。今日の電話はいつもよりずっと短かった。私はそれが、何らかのゴーサインを告げた電話に見えた。

 彼女が自宅に戻るのを見届けてから、監視用のバンの中に入った。

 バンの中で上司が待っていた。

「進展があった」

 彼はシリアスな調子で短く言った。「進展」――それはこの任務が始まってから初めて聞く言葉だった。

 慌てて封筒を受け取って、中の報告書に目を通す。

 勤務先の貿易会社を監視しているチームからの報告だった。会社は海外との取引のために普段から貨物船の入港手続きを頻繁に行っている。その申請の中に、会社がこれまで取引した実績のない相手の入港申請――おそらく彼女が密かに偽造して紛れ込ませたものが含まれていたのだ。

 死んだ婚約者の任務が、武器の密輸であることをすぐに思い出した。それを指摘すると上司もうなずいた。

「やっと尻尾を出した」

「船はどこから?」

 言いながら、私は書類をめくって自分で答えを探した。出港地になっているのは、政権が崩壊したばかりの、情勢不安定な第三国。武器の買い付けをするにはうってつけの国だった。

「入港はいつ?」

「今夜だ。ここには最小限の監視を残して港を調べる。君も来るか?」




 夜の港に、保安局のバンが静かに停車した。しばらく待機していると、間もなく港湾局の車もやってきた。

 上司が港湾局のチームに挨拶した。港の地図を見ながら立ち入り検査の方法について細かく指示する。

「よし……ではとりかかろう」

 暗闇に浮かぶ上司の顔は、緊張して強張っているように見えた。

 武装した港湾局のチームがサイレンを鳴らして、陸と海の両方から問題の貨物船を「確保」した。保安局の私たちはそれを遠くから見ているだけだ。最初に船内に踏み込んだチームから安全を伝える報告が無線に入ってきた。

 私と上司はタラップから貨物船の中に入った。ジャンルとしては確かに「貨物船」であったけど、船の規模は「漁船」というくらいに小さな船だった。

「中には肥料がいくつかあっただけでした」

 船内を調べた港湾局の人間が上司に言った。小さな船だ、見落とすほどの容積もない。

 貨物の実物を見たが、船内には木箱がいくつかあるだけで、ただでさえ小さな船の中はスカスカだった。木箱はバンドで固定されていたらしいが、港湾局の手によって今は外されていた。

「金属探知機で中を調べろ」

 上司の指示に港湾局の人間が渋々、と言った感じで頷いた。そして、探知機による捜索も成果を上げなかった。

 船内には化学肥料の独特の臭いがこもっていて、外に出たときはずいぶんと空気が美味かった。

「彼女を拘束して締め上げますか?」

 保安局の同僚が言った。私は上司の顔を見た。

 上司は逡巡してから、

「いや、今日は引き上げる」

 と告げた。

 彼女の身柄を押さえれば、彼女自身の駒としての機能は停止するが、彼女の企てた陰謀は組織の誰かが引き継ぐことになる。

 ゲーム続行だ。

 私は決着が近いことを予感していた。




 翌日は休日だったが、彼女は珍しく朝からアパートを出た。いつもの白いコートに、頭には黒いレースのスカーフを巻いた出で立ち。私たちのチームはバンを降りて彼女を尾行する。

 彼女が向かったのはあの同僚のアパートだった。同僚が玄関で彼女を出迎えて、二人が中に入ったのを確認した。

 彼女が再びアパートを出たのは三〇分後だった。すぐに尾行を再開する。

 彼女は鉄道を使わずに道をまっすぐに歩いていた。彼女のこれまでの生活を考えても目的が分からない。連絡のための公衆電話を探しているのかとも思ったが、そのような素振りもない。ただひたすら遠くに向かって歩き続ける。彼女がこのような行動を見せるのは初めてだった。

「……ユニットリーダーよりコマンダーへ。様子がおかしい。対象を拘束する許可を」

 私は無線機を取り出して連絡した。本来であれば尾行中の無線連絡など御法度だった。監視していることを宣伝するようなものだ。ややあって上司から、戸惑った声で応答があった。

「コマンダーからユニットリーダーへ。許可できない。監視を続行しろ」

「ユニットリーダーよりコマンダーへ。対象は替え玉の可能性あり」

「コマンダーからユニットリーダーへ。通信を切れ。監視を――」

 私は無線を切ると、気配を消すことを忘れて全速力で"彼女"に向かって走った。戸惑ったように、他のチームメンバーも私に続いた。

「そこの女、止まれ! 保安局だ!」

 私は女の反応を待たずに飛び掛かった。足を払って道に押し倒すと、スカーフを剥ぎ取った。

 果たしてそこにあったのは、あの同僚女の恐怖に引きつる顔だった。

 悲鳴を上げる女を放り出して私は無線に怒鳴った。

「尾行を巻かれた! 対象はアパートに残っていた! すぐに踏み込め!」


 もちろん彼女が呑気にアパートに留まっているはずがなかった。

「してやられたな」

 バンの中、上司が椅子に座って力なく言った。同僚の身柄は取り調べのために本部に送られていたが、何を頼まれたのかは大体予想がつく。同僚は身代わりにされたのだ。

「とりあえず、空港と鉄道を押さえるか? 国外に逃がさなければ、捕まえるチャンスはある」

「それでは対象の計画を阻止できません。何よりも対象の身柄確保を優先するべきかと」

「しかし押さえようにも」

「――おそらく、港です」

 私は答えた。




 港の中をバンで走る。私は助手席の窓から港に視線を走らせた。

 大きな観光船が停泊しているのを見て叫んだ。

「……ここで止まれ!」

 私はバンから降りた。

 観光船と陸をつないだタラップから観光客が出てくるところだった。近づこうとすると、港のスタッフに止められたので、私は保安局の身分証を見せた。

 船に向かう途中、すれ違う観光客に視線を走らせた。

 そのとき、帽子を被った女が私の横をすり抜けた。

 私は振り向いて、咄嗟にその女の手を掴んだ。

「――コンウェイさんですね?」

 私は彼女の名前を呼んだ。

 次の瞬間、彼女の方から逆に私の手首を掴んで引き寄せたのは分かった――直後、彼女の後頭部が一瞬見えた。頭突きが私の顔面に当たって、私は平衡感覚を失ってタラップに崩れ落ちた。青い空が見えた。間抜けなことに、彼女の方からの攻撃をまったく想定していなかった。

「動くな!」

 上司の声。

 直後、パーティのような銃撃戦の音。頭の中がキンと痛んだ。

 体を起こそうともがくと、タラップに薬莢が転がっているのが見えた。手をついて何とか起き上がったとき、船の中に駆けこむ彼女の背中が見えた。

 少し遅れてから、それが意味するところに思い至る。私は反対を向いて、その場にうずくまっている上司に駆け寄った。

「う……ごほっ……」

 上司の体を抱き起す。コートには何か所も赤い染みが広がっていた。

 私は拳銃ではなく無線を取り出した。

「局員負傷! すぐに救急車を寄越せ!」

 そのとき、無線を持った私の腕に、拳銃を握ったままの上司の手が触れた。

「何を、してる……奴を追え……」

 私の頭にさっと血が廻った。私は上司をその場に残すと、拳銃をホルスターから抜いて船の方へ走った。

 突然の銃撃戦に船中はパニックだった。悲鳴を上げながら飛び出してくる観光客をかき分けて進む。そのうち、床に彼女の血痕が落ちているのに気づいた。私は観光客に踏みにじられた血痕を追跡して、船の奥へ奥へと進んでいった。

 血痕は従業員専用の部屋に続いていた。拳銃を向けながら慎重に進む。乗客の入らないエリアは窓がなくて照明も暗かった。それに機械の音が足音をかき消してしまう。私は警戒を強めた。

 視界の端に動くものを捉えて咄嗟にその場にしゃがんだ。銃声が反響して耳が痛くなる。私はそちらに三発撃ち返した。

 ワンテンポ遅れて自分の心臓がうるさく鳴りだす。大きく息を吐きながら、拳銃を向けて慎重に近づく。倒れていたのは船員の男だった。男の手に握られていた拳銃を蹴り飛ばす。

 私は血管が千切れそうなほど緊張しながら、彼女を追ってさらに船の奥に進んだ。

 階段を下りた先に、濡れた黒いビニールの立方体がいくつか並んでいた。

 私たちがこの半年間追いかけていたものがそこにあった。昨日、彼女が呼び寄せた貨物船に武器は乗っていなかった。港に入る前に箱に詰めて海に落としたのだ。それを今日、彼女は観光船から海に潜って引き上げてきたのだ。彼女がかつて、故郷の海でダイビングを教えていたことを思い出した。

 そのとき部屋の明かりが急に消えた。

 私は壁際に飛び退いた。廊下の先で閃光が炸裂した。一瞬の光の中、私の真正面に拳銃を構える彼女の姿が見えた。この半年間、ずっと見てきた彼女の顔だった。

 暗闇の中、ろくに狙いもつけられないまま、私たちは一瞬の間に撃ち合った。

 パッ、パッ、パッとストロボのように光が瞬いて、彼女の姿を私の目に焼き付けた。発射の轟音は、弾倉が空になるのを待たずに私の聴覚を麻痺させた。

 ――そして暗闇に戻った。

 手の中の拳銃は全弾が撃ち尽くされて、引き金から手ごたえが失われた。

 彼女を討ち果たしたのか、それとも次の弾丸を込めているのか、私には分からなかった。

 私は空の弾倉を落とすと、予備の弾倉を震える手で装填した。

 しばらく待つ。聴覚は回復しない。次の銃撃は来ない。

 私はポケットからペンライトを取り出して彼女の姿を探した。

 そこに、いた。

 壁にもたれかかった彼女の胸には大きな血の花が開いていた。

 彼女の口から血がこぼれた。聴覚が回復するにつれて、彼女が口から漏らすごぼごぼという血液の混ざった音も聞こえるようになってきた。

 私は彼女に駆け寄って、彼女の傷口を手で押さえながら無線で救急を叫んだ。




 遅れて踏み込んできた警察に彼女の死体の後始末を任せて私は船を降りた。

 保安局の同僚が外に待っていて、病院に運ばれる前に上司が死んだことを私に伝えた。

 私は奥歯を噛みしめて、胸からあふれる叫び声を必死に押しとどめた。

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【短編集】そして百合が始まった 叶あぞ @anareta

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