書矩

 Aはある日、彼の友人──仮にBとしておこう──と共に街を逍遙していた。行きつけの喫茶で一息ついたあと、しばらく他愛ない話をした。店を出る。

 大通りに差し掛かったとき、Bはふと足を止めた。

「どうしたんだ?」

 Bは応えなかった。視線の先を追うと、一人の老婆が居た。彼女はしきりに手を叩いており、道行く人びとはあからさまに彼女の周りに真空地帯を作っていた。Bがため息をついた。

「哀れだな」

 しかし、Aは純粋に老婆の行動を疑問に思った。

「なんだってあんなパチパチパチパチと」

「そうすると星が見えるんだとよ。それでおかしくなっちまったんだ」

「いつから居るんだい?」

「数日前からさ」

「そんなことがあるのか?」

「さぁな……でも可哀想だよな、視力を失った上で狂っちまったんだから」

 Bは肩をすくめた。


 あぁ、そんなこともあったな──ある暇を持て余した昼下がりのAは、そう回想した。部屋に差し込む西日がやる気を融かす。何をするにも億劫であった。

 だからこそ思った。確かめてみよう、と。

 Aはおもむろに立ち上がると、二回手を軽く叩いてみた。星は見えなかった。きっと部屋の明るいのがいけないんだろう、そうAは考えた。そして、カーテンを引いた。

 今度はいくつか星が見えた。しかし、ごくうっすらとであった。

 Aは、長らく使っていなかった遮光カーテンを押し入れから取り出した。この部屋の前の住人が置いていったものだ。日が暮れかかっているのもあり、遮光カーテンを引いたあとの部屋は真っ暗になった。

 Aは期待を持って手を叩いた。両掌の間の空間からぺかぺか光る星が幾つか転がり出た。Aは天にも昇る気持ちであった。そのまま続けて手を叩く。部屋の中を歩き回るうち、Aは鞄につまづいて転んだ。

「明日はここを片付けて部屋いっぱいに星を散らそう」

 そうAは考えた。

 朝から夕方までかかって、Aは部屋の中を完璧に整理した。そしてまた遮光カーテンを引いた。心行くまで星を眺めよう、そう思ってAは手を鳴らした。

 たちまち部屋中に星が振り撒かれた。Aは暫しそれを眺めて楽しんだ。

 しかし、その星は閉めてあったはずの扉からの光に霧散した。Aが振り返るとドア枠に手を当てて立っていたのはBだった。

「よう、何してんだ」

 Aはすぐには答えなかった。彼は失望していた。邪魔はこんな身近にも在ったのだ。Bがまたこのようにして訪ねてくる限りAの安寧は無いだろう。

「部屋を片付けたんだ。だから手を叩くとよく反響するんだ」

「……それがどう、こうして遮光カーテンを閉めきった部屋で阿呆みたいに手を叩くことに繋がるんだ」

「……」

「お前さ、」

 AはBが何を言おうとしているのかを察した。そして今すぐ何らかの天変地異が起きて、その質問が発せられなければいいと思った。

 何も起きなかった。

「星を作ろうだなんて……思ってないだろうな?」

 Aは目だったレスポンスをしなかった。それは「肯定」という意味で受け取られた。Bはため息をついた。あの日の街角で、白痴の老婆を見ていたときのように。

「見えるもんなのか」

「見えるさ」

「何で手を叩くと星が出来るんだ?」

 Aは思案する──振りをした。それに対しての結論は、彼の中ではとうに出ていた。

「そもそも、宇宙に在る星は岩石がぶつかり合うことで生まれるだろ?」

「ああ」

「同じように、頭を打つと視界に星が飛ぶ。火打ち石から火花が散る。何かをぶつけると星が生まれるものなんだよ」

「でもそういうのって普通見えないじゃないか」

「当たり前だろ」

「当たり前か?」

「相対的に環境が暗くないと星は見えないんだよ。あの老婆は視力を失っていたから昼間でも星がみえたんだ」

「そういうことなのか……?」

「気は済んだか? 帰れ」

「あぁ、邪魔して悪かった」

 Bは礼儀正しい男である。Aは彼のことを一瞬でも邪魔に思ったことを申し訳なく感じた。

 ああして追い払ったのだから、Bは暫く来ないだろう。Aは今度こそ手を叩き続けられた。

 空間が煌めく。今や部屋はAを中心としたプラネタリウムであった。

 一切の窓や扉は閉めきられたままだった。Aは一週間もそうしていただろうか。彼の呼吸する空気はだんだんと星に置き換わっていった。彼の内訳も大方星が占めるようになった。それとともに、彼は自らの身体の軽やかになっていくのを感じた。今までにない多幸感だった。

 Bはあのあと旅行に出掛けていた。だからAの部屋を訪ねる理由が無かったのである。

 彼は素晴らしいバカンスを終えた。その気分の片鱗でもAに味わわせてやろうと、彼は土産物を手にAの部屋へやってきた。

 彼は扉の縁から何かきらきらするものが溢れているのを見た。不思議に思いながらドアを開ける。

 さ、と光が差した。Aはごく反射的に「まずい」と直感した。

 そしてそれは正解であった。星が瞬く間に消えた。彼を構成する星も同様であった。もはや彼の身体は外形を留めることが出来なくなっていた。

 BはAの消える瞬間を見た。流星群の夜のようだった。


 Bは一言、「なるほどな」と呟いた。

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書矩 @Midori_KAKIKU

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