ブログ編1「テレワーク」

 ここからは小説ではありません。エッセイです。


 

 常々、職場や学校は、なぜ同じ時間に、同じ場所に集まらなければいけないのか疑問に思っていました。少なくとも90年代頃には、確実に「さっさとやれ」と思っていましたね。

 それが、00年代になっても、10年代になっても、全く始まらない社会に相当、うんざりしていました。あきれていました。「まだ満員電車っすか!?」


 社会で語られるのは、せいぜいが、「満員電車が嫌なら、早起きすればいい」「始発に乗ればいい」くらいの案なのです。一旦逆方向に乗って、終点まで行って、はじっこに座ってから出社とか、なぞ案も出る始末。

 

 そもそも、人が集まることって、危険が多すぎます。家から出ればブレーキとアクセルを踏み間違えた老人の車が突っ込んでくるし、うっかり駅のホームから足を滑らせたら死ぬ。学校に行けば、いじめ殺される。もう、死にすぎではありませんか。


 にもかかわらず、しない、させない、やらせない。在宅、ということを。

 実に不思議でなりませんでした。利権が絡む問題とも思えません。


 それが、2020年、思わぬ形でようやく社会がその方向を向き始めたように思えます。


 生物の進化は、ウィルスによって起こされるという説があります。

 進化というか、少なくともこの進歩は、新型コロナウィルスによって起こりつつあるようです。

 東京は少なくとも、「家から出るな」とまで言い始め、諸外国ではついに「出たら逮捕」とまで言い始めています。

 

 こう書きながら、想い出す小説がいくつかあります。


 「リング」という小説。はい、貞子です。あれは「らせん」「ループ」「エス(?)」など続いています。それはおいておいて、「らせん」はホラーではなく実は完全にSFなのですが、そのらせんにおいて扱われるウィルスというテーマについて、「もはや貞子は人類とはいえない。進化だ。俺たちは進化を目のあたりにしている」という(ような)一文があります。


「在宅勤務」「在宅〜〜」といえばそれまでかもしれませんが、我々はいま、大きな転換のさ中にいる、少なくとも俺はそう思いたいのです。


 森博嗣という作家がいます。ずっと好きな作家で、なん百年にもわたるストーリィの作品を描き続けているのですが、森先生の作品では、「未来では、人と人の接触、直接会うことがとても貴重となる」という世界観が描かれています。


 ずっと「そんなことはないだろう」「人と人の会いたいという気持ちが消えるはずがない」と思い続けていましたが、少なくとも、二千二十年、三月の今、そうなっているのです。


 これから私たちがどうなるのかはわかりません。

 もし生き延びることができたなら、私は、俺は、その切っ掛けとなるウィルスに、感謝するかもしれません。


 などと言っていることは、まだ楽観すぎでしょうか。



















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