第10話 いい意味で読者を裏切る。

 読者を裏切る。

 それも、いい意味で。


 一部、読者には毒者も含まれのかもしれませんが、小説というのは、作る側、送り手側が主体というわけではなくて、受け取る側がすべてなのかなと思います。


 受け取る側が感じ取った情報、思い描いた感受性がすべてであり、そこには百通りの顔、表現があるように、読者の受け取る感情も、当然のことながら通り一辺倒では書き表すことができない。


 読者をいい意味で裏切ることはできる。

 一億総作家時代では、ある程度の読み物は、これはたぶん、こういう結末だろうとか、過去に読んだものと同じだとか、容易に推測することはできる。


 また、他の作家が書いた作品を盗作する目的で読書する低俗な作家もなかにはいて、粒ぞろいでなく、玉石混交なのも電子作家の特徴である。


 作家というのはインプットがすべてであり、蓄えた情報、今までに読んだ本や視聴した映画、読みふけったマンガの情報が後日、生きてくる、それはごもっともな話でもあるのですが、推理作家が新しいトリックを見い出すために常に過去作を盗作し続けるかといえばそうではなくて、読書は考え方、本の構成、思考回路を学ぶというのが、正しい本の読み方であり、文体を真似るのもその1つにある。


 他の人が書いた小説からアイデアをパクり、キャッチコピーを盗んだりしているうちは、オリジナルな文章を書くことは永遠にできないように思いますし、新しい時代の潮流に間違っても乗れないと思う。


 小説というのは、その作家にしかできない描写、オリジナルの文体、表現方法を体得することに本懐があり、アイデアのパクりを目的とした読書が正攻法ではないのはもはや言うまでもない。


 作家は表現者です。

 情報の発信者でもある。

 その情報の発信者が、情報の二番煎じに徹していては先が思いやられる。


 そこに安易なパクり思想があってはいけないように思うし、そういうことをし続けている輩は、ある程度までは成長できたとしても、それ以上の到達点に達することはできないだろう。


 学ぶというのは、真似るという言葉の三段活用、進化系です。

 最初は模倣を目的としたものでも結構ですが、いつしかオリジナルの文体、表現方法を身に着けたいものです。


 矛盾していますが、どん詰まりになった時は、今までやってきたルーティンに少し変化を加えるべきでも、気分転換の意味でも、読書は有効な手立ての1つだということも敢えて述べておきます。


 

 

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