2.出立と再会

 人々の声援と、餞別に振りまかれた花や香草を踏みしめながら、臨時編成の討伐隊は意気揚々と出立していった。

 リシュヌー下町の錬金術師、テュエンと弟子のレムファクタは、青い旗を掲げた衛士たちの背中が小さくなるまで見送った。新市街にあたる下町では、国を貫く街道との境界にも、上の街にあるような立派な門壁は備えられていない。先ほどまで、あまり多くもない群衆は思い思いに路上に散らばり、遠征へと出向く家族や友人、親戚らを激励していた。

 雨上がりの夏のある朝。大地は薄曇りの空を映した銀の皿のような水たまりと、青草を飾る朝露の無数の輝きで美しかった。公国を南部へ下る街道は、昨夜の雨に石畳を白く洗われていたが、まだ帰らずに見送っている人々の表情は、興奮や期待の色よりもどことない不安が強いようだった。

「ほら、おまえ……。そろそろ泣き止んだらどうだ」

 テュエンの隣にいる男も、しきりに鼻をすすりあげる妻を慰めている。

「笑顔で送ってやると言ってたじゃないか。そんなじゃあ、あの子だって心配で任務に集中できやしないぞ」

「入隊して三ヶ月にもならないのよ、あの子」ハンカチで鼻をかみながら、いかにも愛情深げな婦人がぼろぼろと涙をこぼした。「まずは通りの見回りくらいというから、衛士隊に入るのを許したのに。魔物退治だなんて!」

「いずれこういうことも起こるのは分かっていたじゃないか。覚悟してたはずだろう。それに人々を守る名誉な仕事だよ。ねえ、そうでしょう、術師様」

「ええ……、クルト卿も無理はさせないと約束してくれましたし。息子さんは、ちゃんと無事に帰ってきますよ」

 一緒になってテュエンも諭すと、そうかしら、とようやく夫人は泣き止んだ。しばらく途方に暮れた面持ちで衛士たちの去った街道を眺めたが、「おばさん、クルトさん慣れてるから大丈夫だよ」レムにまで慰められては、やっと帰宅する気になったようだ。

 二人ともに小太りの、仲睦まじい夫婦が帰っていく姿を見送ったあと、「私たちも帰ろうか」テュエンは弟子の手を引いた。気づけばあたりは閑散として、残っているのは自分たちと、路肩で立ち話をする数人だけになっていた。

 谷間の街リシュヌーは、この一月あまり、いつになく騒然とした空気を漂わせている。発端は、公国南部の二地方を襲った激しい獣害だった。

 南北を高い山脈に挟まれたサントラジェ公国は、薬草などの天然資源に恵まれる一方、危険な野獣や魔物の脅威からも逃れられない田舎の小国だ。自然界からの襲撃は季節の変化や山の恵みの豊作不作、そのほか色々な要因を根底に持つ問題で、昔からこの地に暮らす人々を悩ませてきた。

 平地の森には、牛と同じほどの背丈がある大猪が。山地には、家畜も人も等しく獲物とみなす恐ろしい鷲獅子が。高地には冬にも眠らぬ温血の雪毛蛇が潜んでいるし、時に巨大な群れをなす山狼は夜闇を縫って人里を襲いにくる。

 そうした魔物討伐にあたるのは、通常それぞれの地方領主が抱える手勢の騎士たち、続いて公国全土の巡視任務を持つ国防大臣の騎馬隊だ。だが被害が多くなり、彼らの手が回らなくなってくると、兵数の余裕のある組織からも人数を割くのが慣例になっていた。

 ――最初の噂は、たしか大猪だったな……。

 歩きながらテュエンは事の経緯を思い出す。

 公国南部は両脇から山塊に挟まれた谷底地形のリシュヌーとはちがい、ちょうど山と平地の境で扇状地が開けている。国の貴重な穀倉地帯であり、豊かな麦畑の多いそこでは大猪は馴染みの厄介者だった。

 低山帯の森に住み、雑食性で何でも食らう。気が荒くて雄も雌も太く鋭い牙を持ち、そのうえ繁殖力も強いとくれば、南部地方では毎年のように被害を出す野獣なのだが、だからこそ長年の経験による対策もなされているはずだった。

 気がかりな噂がリシュヌーにまで聞こえてきたのは、夏に入るより前だったろうか――交易商人が、値上げの言い訳として市場で話を広めたようだ。大猪は去年も大繁殖して被害が多かった。南部二地方の領主たちがやっきになって討伐したから、今年は数が少ないはずなのに。なにかおかしい、と。

 定期市での買い物がてら、テュエンもちょこちょこそんな話を耳に挟んでいた。妙なことだと思っていたら、噂は徐々に不穏なものに変わっていったのだ。

悪鬼ゴブリンって、師匠は見たことありますか?」

 レムファクタの声に、テュエンは思索から引き戻された。

 端が不思議に翠に染まった金の巻き毛を見下ろせば、弟子の瞳はむしろきらきらと好奇心を湛えている。あごに指をかけて思い出しつつ、テュエンはうなずいた。

「生きているのはないけれど、剥製なら、うん。見たことがあるよ」

「ひょっとして、上の街の講学館で?」

「いや、あそこはどうだろう。昔は無かったと思うけど。私は帝都大学の資料館で、埃をかぶっている古い物を見たんだ。そんなに珍しい魔物じゃないから、なかには個人で剥製を所有している貴族や商人もいるそうだよ」

「へえー!」

 訊かなくてもわかる。少年のそばかすの浮いた明るい顔には、ぜひ見てみたい、できれば生きた本物を、とはっきり書いてある。

 テュエンは苦笑し、一応、釘を刺すことにした。預かりっ子のレムファクタは、テュエンの店にやってきて以来、一度もリシュヌーの街近郊から外へ出た経験がない。

「あのね、レム。私は今まで悪鬼ゴブリン喰屍鬼グールみたいな魔物に出会わずすんで、よかったと思っているよ。広場の寸劇では騎士や渉猟兵の格好いい魔物退治が語られるけど、本物の魔物は恐ろしいものだ。今度の騒ぎにだって、亡くなった人もいるんだから」

「そうですよね……。ごめんなさい」

「謝ることはない。知りたいと思うのはいいことだよ。ただ、魔物が危険な存在だということは忘れないように」

 一瞬しょげたレムだったが、師匠に頭を撫でられてすぐ復活する。

「師匠。クルトさんが、ゴブリンが湧いてるって言ってましたけど、ゴブリンって湧くものなんですか? 湧き水みたいに?」

「それはものの例えかな」テュエンは微笑して首を傾げる。「ゴブリンやグールなんかの魔物はね、普段は洞穴のような暗い場所に住んでるんだ。それで時々、何かの拍子に外へ出てきて、出会った動物や人を襲う。ところで、レムはこの国に大昔の遺跡がたくさんあるのは知っていたかな」

「知ってます! ドワーフの遺跡でしょ? 広場の劇でもよく出てくるもの。山はドワーフの遺跡で、平地はエルフの遺跡なんですよね」

「大雑把にいうと、そうだ。じゃあ、ドワーフの遺跡がどんなものかは?」

「えっ。えーと」レムファクタはやや慌てる。テュエンをまねるように、あごに拳を当てて唸った。「山の中にあって、大きくて、でもだいたい入口は魔法で隠されてて……」

「なるほど。劇では秘密の扉が隠されているという話が多かったかもしれない。だけど本当のところは、遺跡がとても古いために、入口が崩落――自然に崩れてしまって、埋まっていることが多いんだよ」

 ふうん、そうなんですかぁと弟子はうなずいた。曖昧に眉尻を下げているのは、遺跡と魔物がどう結びつくのかわからないからだろう。

 そこでちょうど二人は、夏苺のクリームがけを売る振り売りとすれ違った。テュエンは二袋を買い求め、一袋をレムに手渡す。

「レムはさっき……」艶やかに赤い苺を一粒刺した串を教鞭のようにかざして、テュエンは再開した。「ドワーフの遺跡は山の中にあって、大きいと言ったね」

「はい」

「それは正しい。ドワーフの遺跡は、大半が地下にあるんだ。そしてとても底が深い。偉大な魔術師であり錬金術師でもあったドワーフ族は、その力で大地の下に立派な住まいや道を作った。発見されて調査された遺跡も多いけれど、ほとんどは地表に近い浅い部分しか調べられていない。地下通路はあちこちに繋がっていて、迷ったり事故にあう危険があるから人はなかなか入れないんだ。

 でも、人間じゃなかったら? もともと洞穴が好きで、夜目の利く魔物たちならどうだろう」

「そっかあ」苺を口に入れたまま、レムが答えた。「遺跡は魔物の家なんですね」

「そのとおり。そして古くなって痛んでいるから、時々自然に崩れてしまう。行き来していた通路が塞がってしまったり、住処を失った魔物たちはどうすると思う?」

「ええと、他の道を探すとか、引っ越し? ……あっ」

「わかったようだね。それが答えだ。どこかで遺跡が崩れると、地面の穴からたくさんの悪鬼が湧いて出てくる。埋まってしまった家を捨てて、新しい住処を探すためだ」

 なるほどお、と理解の喜びに目を輝かせ、レムファクタは苺をもぐもぐ食べた。

 テュエンも甘酸っぱい夏苺を味わいつつ、とりあえずこんなところだろうと考える。実際には、遺跡についても亜人種族の魔物についても未知の部分が多かった。

 サントラジェ公国では、時どき悪鬼が大量に湧くことがあり、まれに発見されるドワーフの遺跡穴は、たいがいが亜人種の魔物の住処になっている。テュエンが言及したのは、その二つの事実から類推される定説だった。

 遺跡を調査したがる錬金術師は多い。絶滅種族の考古学は、錬金術でも最重要の分野のひとつだ。だが平地で暮らしていたエルフ族はともかく、ドワーフ族の地下遺跡については先述の危険性のため、現代でも研究はなかなか進んでいない。わりを食うのは魔物討伐に当たる騎士や兵たちだった。

 テュエンは「まあ、なんとかなるだろ」と、いつもの軽い調子で出かけていった親友を思い出して眉をひそめた。

 態度こそ変わらなかったが、出立前、下町の衛士隊長であるクルトは討伐に役立ちそうな錬成品をテュエンの店でごっそり買い込んでいった。討伐遠征には街の錬金術組合からも支援物資が確保される。それでも危ういと判断したのは、下町の隊より先に出かけた上の街の衛士隊が、かなりの損害を受けて早々に帰還してきたせいだった。

 そもそも衛士隊は、魔物討伐の訓練を日課としていない。私生児とはいえ大貴族の一員であるクルト自身は、少年の頃から鍛えられ、個人的に魔物討伐にも参加している。しかし大半が町の平民で構成される衛士隊は、町民相手の治安維持が普段の主任務なのだ。

「定期的に訓練は積んでる。なかには元渉猟兵もいるしな」店でテュエンと二人になったとき、クルトが見せた珍しい懸念の横顔をテュエンは忘れていない。「しかし恩師の報告だと、異常に数が多いらしい。死人を出す気はないが……」

「あれ、師匠。店の前に誰かいますよ。お客さんが待ってるみたい」

 再びのレムの呼びかけで、テュエンは我に返った。

 いつのまにか二人は月蝋げつろう通りまで戻ってきていた。通りの末に位置した店の前には、弟子の指摘どおり、大小二つの人影がある。一人は筋骨たくましい偉丈夫。鋼の鎧の背中に、これまた大きな戦斧を背負った戦士だ。もう一人はその男の影かと思うような、ほっそりした濃緑のローブ姿だった。

 戦士には見覚えがある。彼はと言いかけたとき、半地下の店へと降りる石階段からもうひとつ、遠目にも目立つ頭がひょいと突き出されてきた。

 チェリー色の派手な髪が、陽の光を弾いて揺れている。彼女は口の両脇に手を当てると、まだ距離のあるうちから溌剌とした挨拶を叫んできた。

「やっほお、テュエン! どんな陰気なつらで引き籠もってるかと思ってたら、ずいぶん可愛いもん食ってるじゃねえか!」

 通行人が、驚きの眼差しをテュエンと大声の主に向けてくる。けらけら笑うその人物と、クリームがけの夏苺を見比べるテュエンの裾をレムが引っ張った。

「し、師匠。あの人、知り合い?」

「おや、レムは初対面だったっけ。あれは――あの常識外れの女性はね、私の友人だ。信じられないかもしれないけど、錬金大学時代の同期だよ」

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