未来とコロのはじめての夜(1) しゃべって、コロ

 わたくしは、ここで、ただの傍観者と成ります。視点。この数奇な子どもたちの運命の歯車がぎしりと動き出すのをモニター越しにただじっとそこのリアルを没入して眺めている、いえ、体感している。

 わたくしは純粋な視点と成る。




「……コロ……?」


 未来はつぶやいて、眠たい目をこすった。手でごしごしと目をこすってはいけないのだと飯野からもよくよく言われている。ばいきんが目に入ってしまうし、天王寺家の跡継ぎとしてそれはみっともないことなのだと。目がかゆいときはハンカチで目を柔らかく拭くのだと。でもコロはハンカチを使わせてもらえない。そのことを飯野に言ったらぎろりと睨まれてしまって、怖くて、未来はそれ以上なにも言えないのだった。

 目が慣れてくる。もともと就寝時でもオレンジ色の豆電球はついているので、真っ暗というわけではない。だがそれでも未来は暗い部屋が苦手だった。明るいまま寝たいという駄々は三歳のときにとっくに許されなくなった。人間らしく寝なければならない、と。

 未来は思う。人間らしく、ってなんだろう。人間だと人間らしくしなければいけないの? でも、人間って、人間だから人間なんでしょ? らしくって、なんなんだろう。それにコロはいつも犬らしくと言われる。コロは犬……なんだよね? でも、コロも、犬らしくしなくっちゃいけないの?

 未来はその違和感を明確に論理化するにはまだすこし幼すぎた。いくら明晰で思考能力が高いといえども、まだ五歳にも満たない幼児であるのだ。……コロのことは未来にとってもとてつもなく大きな違和感だったし、どうにもうまいこと呑み込めていないことが多い。未来自身でもそれはうまく説明できない。コロは幼稚園にもいる女の子たちにそっくりだ。でも犬だという。たしかに首輪をつけられているし言葉も喋らない。……だから、やっぱ、ワンちゃんなのかなあ。そうは、思うのだけれど。

 未来は思う。ベッドの上に座って、やがてはすこしずつすりすりとシーツの上を移動して、コロの檻にこわごわといった感じで近寄っていきながら。コロは夢中で泣いていて、未来が近づいていることに気がついていない。

 僕はペットがほしいっておばあちゃんに言ったよ。だってあっくんもまーちゃんも、ペットのことばかり言うんだもん。僕やんなっちゃったもん。僕んちにはペットいないのにさ。そうしたらあっくんが、おまえんち金持ちなのにペットもいないの? とか言うから、すごくやんなっちゃった。ペットくらい、いいでしょっておばあちゃんに言ったらおばあちゃん、くらいとはなんですかって、すごく怒るの。ひどいの。だから僕もっとペットほしいって言っちゃった。

 僕は弟も妹もいないし、良子さんもパパもいつもおうちにいないから、ペットがいればいいんじゃないですか、って飯野おばさんがね、言ってくれたの。あ、あのね、良子さんっていうのは僕のママ。ママなんだけど、僕は良子さんって名前で呼んでるの。良子さんがそうしろって言うから。おばあちゃんに、そう言ってくれたって、飯野おばさんそう言ってた。飯野おばさんはこわくて変なおばさんだけど、ときどき僕の味方になってくれるの。それで、僕ね、ペット飼っていいよっておばあちゃんが言ってね、すごく嬉しかった。ちゃんとお世話しようって思ったんだ。あっくんにもまーちゃんにも負けないくらい、ペットと仲よしになるんだ、って……。

 未来はベッドの端にたどり着いてコロの檻をじっと見つめている。手を伸ばしたいけれどもなにかが怖くて伸ばせないでいる。

 僕ね、コロが来たとき、嬉しかった。だってコロはすごくかわいいんだよ。人間の女の子みたいなんだよ。それにすごく賢いんだよ。幼稚園の女の子たちよりもずっと賢いんだよ。なんか小学生のお姉さんみたいなの。けど犬なんだって。とてもふしぎ。だから、すごく、頭のいい子犬なんだな、って……。

 あっくんにもまーちゃんにもコロの話いっぱいしたよ。コロは喋るんだよって言った。そしたらあいつら、そんなわけないだろ、犬は言葉をしゃべらないって笑うんだ。だから僕、叩いちゃった。あっくんのことをいっぱい叩いた。幼稚園の先生が僕のことすごく怒って怖かった。



 ……ねえ、でも、コロ、喋らなくなっちゃった。

 ほかのワンちゃんみたいに、わんわんしか言わなくなっちゃった。



「……コーロ」



 未来は、たいそう優しい声でコロを呼んだ。コロの肩はぎゅうっと収縮する。怯えている。暗いときだけは平穏な時と思っていたのにこの時間さえも地獄と化すのかと震えている。



「……わう」



 このごろコロは必要なときにだけは、わう、と返事をするようになっていた。言葉ではなく、かろうじてワンという発音でもない。五歳の子どもがそのような賢しい技術を発明するにはどれだけの苦痛が必要であったのか。

 未来はおそるおそる、でも、幼いながらに強く決心をして、ぴょん、とベッドの上から、跳び下りた。

 ――それは小さいけれども跳躍であった。

 目が慣れてくれば豆電球の淡い光のある部屋は明るい。お互いの身体だけでなく表情も認識できる程度には。未来はケージの入り口にしゃがみ込んで、コーロ、コーロ、とわらべ歌でもうたうように話しかけ続ける。その声がじょじょに愛しさめいた響きを帯びていけばいくほど、コロの嗚咽が激しくなっていくことに、幼い未来は気がついていない。コロは子どもだとしてもあまりに小さく丸まっている。この世界に自分が占める空間はこれっぽっちなんだとでも言いたげな丸まりかたをしている、弱冠、五歳にして。



「コーロ。どうしたの?」



 コロは丸まったまま。


「コロ……ねえコロ」

「……あう。わう。……うぅ。うううぅ……ううっ……」


 未来には、わかるまい。ひととして生まれ、ひととして在ることをゆるされた人間は、公子にとって、あまりにもまぶしい。しかもそんな人間が自分自身をいちばん気にかけてくれていて、でもそのひとはたぶんおない歳の男の子で、幼稚園にも通ってるし絵本も読めるし、それだけではない、この男の子がひとこと休めとか歩けとかいうだけで、公子のコロとしての生活はとても気まぐれに決定される。

 引き裂かれる。

 そんな、絶望が、……未来には、わかるまい。

 未来はむしろ戸惑っている。ひとさし指をひゅっとケージの隙間から入れてみた。コロはその指をぎらっと睨む。指を差し出されたら舐めねばいけないとコロはしつけられている。だからそうせねばならない……いちにちのうちでゆいいつ安穏の時であったこの、夜さえも。

 コロはゆらりとわずかな角度で起き上がる。まるで少年漫画に出てくるこれから殺しをする殺人的超能力者のように。けれどもじっさいコロはただ犬として扱われている無力な少女だ。

 もともとが狭いケージだ。しかしそれでもコロはけなげにケージの入り口付近まで這いよって、屈辱的にも舌を、出す。コロの舌は赤くてそこがいいと天王寺薫子は気に入ってそんなところを裏でかまわず褒めている。



 ちろ、ちろ、ちろ……と。未来はそこで、顔をしかめて指をひっこめた。



「いいよ、コロ、そういうの。……ねえコロ。なんで、しゃべらなくなっちゃったの?」

「……うぇ?」

「僕、コロってすっごく賢いんだなーって嬉しかったんだよ。犬ってふつう言葉をしゃべれないんだよ。でもコロは賢い子だから言葉をしゃべれたんでしょ? それなのに、なんでしゃべらなくなっちゃったの?」



 コロはひさかたぶりに人間らしく呆然として未来を見つめている。ケージの、鉄格子、ごしに。



「僕、コロともっとしゃべりたい」



 ……コロは、その瞬間。

 決定的に、変化した。

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