はじまる

 監視室。



 薫子さまのお部屋に近いところにある部屋です。バブルがバンと弾けそのままのろのろとミレニアムも近いこの世のなか、まあコンピューターなどというものもパーソナルコンピューター略してパソコンなどといって馴染み深いものになってきておりまして、あれでいてあんがいミーハーの薫子さまが放っておくわけもないのです。そういうわけで監視室には最新技術のパーソナルコンピューターなどが導入され、このSF映画じみた部屋の技術力は底上げされていくばかり。一面のモニターで簡単に各部屋の監視ができる。すでに五十のわたくしが女学生のころなどはコンピューターなどというもの想像だにしていなかったものです。薫子さまであればいざ知らず。

 ピコピコとブルーに光り続ける画面を見張るのももう慣れた。これも、わたくしの数少ない仕事のうちです。


 天王寺家の本家の使用人たちであれば自然とこの監視室の存在を知るところになります。だがだれしも入れるわけではない。監視室に入れるのはごくごくかぎられた人間です。使用人として大変優秀なあの桃さんにさえ、監視室への出入りは許可していない。むしろ監視室には専用の、監視人、とでもいった人間を数人、雇っております。彼らは大変高給取りでございますよ。なになに、深夜勤務なんてこの仕事には些末な問題です。……なにせこの天王寺家の夜の顔を知って永遠に黙秘していられる人間というのは希少価値が高いから。


 いまも本日の当番の監視人がこの部屋にいる。だがいまはわたくしが見たいので隅の椅子に移動させている。監視人の黒ずくめの服は監視室の制服です。なぜわたくしが映像を見に来たのかなどと越権的な質問を監視人の彼らはけっしていたさない。監視人は歳も年齢も立場も事情もバラバラでしたが、みな極めて寡黙であるというところだけは徹底して共通しておりました。……監視人の人事は、わたくしが担当する使用人の人事と違い、薫子さまが直接最終面接をなされる。つまり、それほどの、仕事であるのだ。……ただ椅子に座ってモニターを仔細に眺めて報告するだけの仕事に、裏稼業の人間を呼ばねばならぬ。つまりして天王寺家は、それほどの家であるのだ、いえ、――あるいは薫子さまがそれほどでらっしゃるのだ。

 どうせ映像はすべて録画してある。異常は二十四時間すべてリアルタイムで監視人たちが交代でチェックしている。わたくしがリアルタイムで監視する必要はない。


 だがいまわたくしはここにおりました。三日めでございます。時間は現在二十二時を過ぎたところ。三日めなのだ、おそらく、そろそろ。わたくしはこのあたりの勘は自分をものすごく頼っているものでして、自分自身のみを。


 三日め。未来さまの幼稚園のお友だちとその姉のふたりの子どもがこの家に遊びに来てから、三日め。


 未来さまのお部屋にも当然監視カメラがございます。ご本人はご存知ないでしょうが。天王寺家そして天王寺グループの跡継ぎということもある。ましてやまだあのように幼い。自立心を促すためにお部屋でおひとりで過ごさせたりはしておりましたが、そういうときだってつねに監視人が危険なことはないか見張っているのですし、わたくしもある程度まとめて録画映像のチェックはいたします。

 小さな姉妹が遊びに来たあの日、わたくしは監視室でじっと一連のことを見ていた。未来さまはこのごろがんばってコロをしつけようとしている。コロが捨てられてしまってはいけないとの一心なのでしょう。だがそのようなしつけは未来さま自身にとってもストレスであるらしく、このごろ未来さまはコロを簡単に蹴飛ばすようになっておりました。未来さまもおわかりになってきたでありましょう、優しい態度でどぶどぶ甘やかすよりも、相手のことをこそを考えあえて鬼のごとき態度を取ることがいかに困難であるかを。そしてまた未来さまはこのことをもおわかりになってきているのでありましょう、……鬼になるということはとても困難であっても未来さまにはけっして不可能なことではない、と。ええ。天王寺家の正統な血は、きっとあなたさまに流れているのですから。

 けれどもまあ一時的な振れ幅とでもいいましょうか。未来さまはこのごろコロにとても厳しくなった。いままで通りに頭を撫でてやることもある。だがそのときはむしろ未来さまも必死の形相であった。どのようにすればコロにとってよいのだろうかといつも思案なされているようだった。しかしコロはさすがにそこまではわからないのか、急におそろしくなった未来さまにただただ怯えているようでした。未来さまはコロにとってはいまのところ世界でもっとも優しい存在であったはずなのだから、無理もない。……わたくし相手みたいに簡単に恨めない憎めない殺意を抱けないのもまた、道理であるのだ。

 監視人はモニュメントとなろうとしているかのごとく気配がございません。まるでわたくしここにひとり、と思ってしまう。



 モニターはたいそう見晴らしがいい。わたくしの好きな景色です。

 メインモニターには暗い部屋が映っている。未来さまのお部屋は翌日が休日であっても九時半には消灯しますから。



 さあ。さあ。さあ。

 今晩ですか。あすですか。待ちますよ、いつでも、……けれどもねえ、そう遠いことではないでございましょう。



「……ぅ」



 音声が、小さく、音を拾いました。コロの声です。わたくしは手で監視人に音量を上げるよう指示します。監視人はすっと音もなく調整板の前に立つと、音量を上げ、ざああっと沈黙の音を拾うくらいに上げましたので、わたくしはひとつうなずいて手を下げました。監視人は下がります。



「……ぅ。あぅ。……うぅ……」



 暗い部屋で主人は眠っていておそろしい鬼婆はいないというのに言葉を言わない。やはり気丈というか、ある種硬すぎるというか。あの子は犬みたくあうあう言うのも嫌なのだろう、必要最小限しか声を発さなくなっておりました。言葉は喋りたいし意思の主張もしたいけれども、言葉が禁止されるくらいならと、かたくなに歯を食いしばり口を閉ざすことが増えました。

 声を上げて泣くことも、ここ数日は、ございませんでした。むしろすごくいい子になって。……そういえば本日は半月めにしてはじめてあの子はランニングマシンの二十分間掛ける五回で百分ノルマをいちども取りこぼすことなく達成していたのでした。わたくしもすこしは褒めましたよ、ええ、すこしは。犬にそうしてやるべきくらいには。



「……うえぇ……」



 泣いてますね。これは。そうですね、三日以上ぶりに。

 暗くてきちんとはわかりませんが、オレンジ色の豆電球はつけることにしていますので、コロの檻のなかでもぞもぞと動きが発生しているのはわかります。



「……う、う、うあ……う、うぅ……あぅ……うああああ……」



 コロはいよいよ本格的に泣き出した。……ふむ。

 あっ、と――思わず声を漏らしたのはわたくしでした。



「音量もうすこし上げて。そう。映像の明度最高にできるかしら、急いで」



 未来さまが、うーん、うーんとうなっているのです。そして起き上がろうとしている。



「……コロぉ……?」



 ――未来さまが、消灯後のコロに、はじめて、声をかけた。……半月おなじ部屋で寝ていてこんなことが発生した夜ははじめてだ。その眠りがすこやかで安らかだったかは別問題として、コロは最初の一週間は体力的な疲れでぐったりとすぐに寝ついていたし、このごろはずいぶん夜遅くまでもぞもぞと動くようにはなっても、とても、静かだったのだ。うめき声ひとつ発さなかったのだ。寝言もないし泣き言もなかった。それだから未来さまもいかにも自然、といった感じで眠られていたのでしょう。



「……コロ」



 未来さまはこんどははっきりとした声で言うと、ばさりと毛布をよけて立ち上がった。



 わたくしは、ぞく、とする。




 ああ。わかる。わたくしには、わかるのです。



 ――はじまりますのね。

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