良い子ですから

「公子ちゃん、大変だったわねえ」



 薫子さまはほんとうにただのかわいらしいおばあちゃんであるかのように喋る。いえ、もちろん演技です。わたくしはそのことをよく存じ上げている。だからやはりこのひとは底知れぬのです、もう四十年近く御傍にいるわたくしでさえも薫子さまという人間のすべてを知ることは不可能なのでありましょう。


 じっさい薫子さまは御年五十二。五歳の公子から見ればおばあさんでありましょうが、なに、五十二、若いと言えば若いのです。じっさい大きなパーティーなどで薫子さまは若い女のようにふるまう。妖怪も妖怪、大妖怪として戦後の日本を動かしてきた、七十八十の老人たち、介護よ、なんて馬鹿にした顔で裏では御顔を歪めて嘲り笑ってそうおっしゃますが、老人たちの前ではまさかまさか介護だなんてだれも思わない、薫子さまはもしやほんとうに本気で大妖怪たちに初恋をしているのかと周囲がいぶかるくらいに、頬を染めることすらおできになるのです。いとも、簡単に。



 だから薫子さまが感じのよい優しいおばあちゃん、を演じることなど小指を動かすことよりも容易なのでございましょう。



 ……たったひとりのお孫さまである未来さまに対してもたしかに優しいと言えば優しい。だが未来さまに対するときには優しくはありながらも有無を言わせぬ強制力、しなやかな強さ、厳しさ、未来さまがこの和室におばあちゃーんなどと言ってばたばたと駆け込むことはまずありえないような、上と下としての関係性を思い知らせるような……そのようなたぐいのおばあさんを演じてらっしゃいます。


 だが、いまは、そのような厳しさはまったく見えない。いえ。悔しさを正直に認めてしまえば、この薫子さまはわたくしでもはじめて見る。それくらい完璧に薫子さまはいま、気安いおばあちゃん、でした。



 薫子さまは扇子で自身をあおいでいましたが、正座してかたくなにかたくなっている公子の顔をふと覗き込むようにいたしました。



「緊張しているのかしら」



 さも心配しているかのように言って、扇子のゆるやかな風を公子の額に向けてやります。



 公子は、わずかに顔を上げました。



「ほら、公子ちゃん。顔を上げていればあなたかわいいんですから。前を向きなさいね」



 公子は驚いたように薫子さまの顔を見つめます。



「あなたはきょうからこの家の子なのですればね。そんなにかたくならないで。ねえ公子ちゃん。このお家は気に入りそう?」

「……ぁ、」


 公子は口をぱくぱくさせて顔を真っ赤にして、必死に喋ろうとします。薫子さまはじっくり返事を待っている。ほんらいはかなり気の短い御方であるのに。いや、だからだ。気が短いから、だいじなところは気長に対応することができるのだ。


「……わ、たしは、このおうちに、住むの……ですか」

「あら、そうよお。あんなお母さんといっしょにいるよりよっぽどいいでしょう?」



 ――あ、おっぱじめた。気長かと思っていましたがやはりすこしは苛々していたのですね、公子のテンポに……というか、子どものテンポに。この御方はご自分のひとり娘である良子さまが幼いときにも、そして未来さまにも、そうでした。子どもの対応が根本的には壊滅的に嫌いな御方なのです。なにせ子どもはおとなの下位互換であり劣った存在だと本気で思っておりますから。……その御腹を痛めて良子さまという血のつながったお子さまをお産みになった経験がありながらして、なお。


 しかし、公子は、気づかない。むしろ自分に興味をもってくれたおとなにわずか安心しはじめているみたいでした。頬がまあ桃色。そうでしょうよ。幼子に薫子さまの道理がわかるわけもない。いえ、十年何十年と歳を取りおとなになったって、薫子さまの道理をわかる人間など、そういないのですけれどもね。


「……ママのこと、知ってるの……?」

「ええ、それはもう、よーく知ってますよおー。最低の女ね」


 公子の表情は固まりました。薫子さまは口調もなにも変えずに相変わらずきゃらきゃらと楽しそうにお話しているのですから。


「公子ちゃんもうすうすは思っていたのでしょう? ねえ、おばあさんにはごまかさなくてもいいのよ。あんなお母さん、大嫌いだったでしょう? 死ねばいいって思ってたでしょう? いいのよ。それでいいのよ。だからおばあさん公子ちゃんのことかわいそうになっちゃって。公子ちゃんのこと救ってあげようと思いますればよ? ねえ。お父さんはいまどうしているのかしら?」

「……パパ、は、……いない……」

「あらあらどうして。パパは、公子ちゃんのことを助けには来なかったの?」

「……パパはたぶん、こーこのこと助けたかったんだけど、パパは南の島の王子さまだから、こーこを助けに来れないの」


 薫子さまはふっと笑いました。……この笑顔だけは素でありましょう。いますごく、馬鹿だ、と憐れんだのです。蟻が砂糖にたかるのを見てどうしようもなく嫌悪感を覚えるかのごとく。


 公子の父親のことはよくわかってはいない。ただ何人かの優秀な探偵の持って来たデータを総合すると、おそらく、詐欺師の可能性が高い男でありました。唯一手に入った後ろ姿の写真は燕尾服で、薫子さまはげらげらお笑いになったものです。

 おそらくは、こういう筋書き。愚かな娘は詐欺師に騙され、人間未満の彼らは避妊も知らず交尾して、詐欺師は出すもの出してスッキリ、娘は子どもを妊娠したが堕胎などという発想も働かず、ただ、産んで、ただ、餌を与えた。……まあほんと。動物ですね。人間も動物とはいえ……やれやれ。


「いけないパパねえ。あとでおばあさんががつんと叱っておいてあげるわ」

「……あの、あの」


 公子はもじもじしています。


「なあに、言いたいことがあるの? なんでもおっしゃい」

「……見た、の……う、えと、うぅ。……見たん、ですか?」

「あらあらあら。見たわよ?」


 なにを、とも言わない。この切り返しの速さ自然さ。

 公子はうつむきました。ぼそり、と、とても暗い顔で言います。


「……こーこは悪い子だ……」

「あら、どうして?」

「……う、うぅ、だってこーこ、日記に書いちゃったの、こーこの日記、見たんだよね」


 公子は顔を上げました。……ああ、泣いちゃってる。


「こーこがママも南の島に行っちゃえってこーこの日記書いちゃったから、ママは南の島に行っちゃったんだ、よ、ね」


 ……薫子さまはそっと笑いました。


「あーらあらあらあら。そんなことないわ。だいじょうぶよ、なにもかもだいじょうぶですればね。ねえ公子ちゃん」


 薫子さまは机に身を乗り出し、公子の小さな手を、そっ、と包み込みました。――幼児はぶよぶよと蛆みたいな肌だから嫌いだと日ごろ笑っている薫子さまは、ああ、いま、まるで世界でいちばんだいじな宝物を手にしているかのごとき繊細な手つきでこの哀れな幼子の両手を、包み込んでいる。



「わたくしがあなたを救ったのですればね」



「……すく、った?」

「ええ。あなたはきょうからわたくしたちの家族です」


 公子は意味がわかるのかわからないのか、ただ忽然とした表情で薫子さまを見上げております。


「ねえ、だから、……公子。約束できますよね? あなたはとっても良い子ですから」



 薫子さまはとても優しくにっこりしました。



「きっとよいワンちゃんになれる、って」

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