後編 夕陽に染まる惑星

 タイヤの跡をたどりながら進んでゆくと、穏やかな波の音が聞こえてきた。

 遠くの砂浜になにやら動くものが見える。

 それは、この惑星で初めて遭遇する生物だった。


 子犬ほどの大きさがあるそれは、巨大なウミウシのようだった。

 軟体動物のような湿り気を帯びた体がぬらぬらと動いている。おそらく海かその周辺で暮らす生物なのだろう。

 青や黄のカラフルな角をひょこひょこと動かす様子は、なかなかに興味深いものだった。


 5、6頭ほどのウミウシたちが、円陣を組むように砂浜で群れている。

 彼らが発する甲高い音は鳥の鳴き声に似ていた。まるで会話のようだ。

 残念ながら、ほんの数分程度では言語パターンの解析まで至らなかった。もし意思疎通ができたなら「ここらで見慣れない者シロイに遭わなかったか?」と聞くことができたかもしれない。


 それにしても、彼らはここに集まって何をしているのだろう。

 そう首を傾げたとき、ウミウシたちの中央から声が聞こえた。


「起こしてー」

「……シロイか?」


 思わずそう尋ねると、俺の声に反応してウミウシたちが一斉にこちらを見た、ような気がした。実際には、どこに目があるのか、あるいは目に該当する器官があるのかどうかさえもわからない。

 だが、なんとなく視線のようなものを感じる。


「タグチー? 助けてぇ」

 また情けない声が聞こえた。


 どうやらシロイは海に向かおうとしていたらしい。

 自分だけでノアの方舟を海へ運ぼうと考えたのだろう。

 迎えに来るのがもっと遅ければ、雨や海風で錆びついていたかもしれない。


 ウミウシたちを刺激しないように、そっと近寄る。

 シロイは砂浜にひっくり返っていた。海水をかぶる位置ではなかったのが幸いだ。 十本のアームがわきわきと動いている様子は、ひっくり返ったカニのようだった。


「今、起こすから待ってろ」

「はーい」


 タイヤを点検すると、案の定いくつも小石が詰まっていた。どうやってシロイだけでここに辿り着けたのか不思議なくらいだ。

 俺はせっせと小石を取り除き、シロイを起こしてやった。


 その作業中ずっと、ウミウシたちは甲高い声で鳴き合いながらこちらを観察しているようだった。

 といっても、警戒ではなく「あれはなんだろう?」「何をしているのだろう?」という好奇が強いようだ。

 彼らには俺たちがどのように映っているのだろう。


 ひとつだけわかるのは、この惑星には彼らの外敵がいないということだ。それは彼らの反応からわかる。

 もし外敵がいるなら、シロイはとっくに襲われていただろう(もっとも、その程度でどうこうなるシロイではないが)。


 ここは、人類が望んでいた通りの『穏やかな』場所らしい。


 地球上での戦争や紛争に飽き足らず、宇宙に出てまで殺し合いをした人類。

 そして、浜辺で俺たちを眺める無害なウミウシ。

 両者が遠い兄弟にあたるとは、なんとも皮肉な思いがした。



   * * *



「バイバーイ!」

「じゃあな」


 シロイはウミウシたちに向かって二本のアームをぶんぶんと振り、俺も大きく手を振った。

 彼らもまた、俺たちを見送ってくれているような気がした。


「……それで? なんで海なんだ」

 改めて尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「タグチが教えてくれたのー。生物は海から生まれたって」

 俺は笑った。

「ああ、そんなこともあったな」


 この惑星へ来るまでの460年間、俺たちはたくさんの他愛もない話をした。

 そのなかの何気ないひとつをシロイが覚えてくれていたことが、なんだか嬉しかった。


「高いところへに行こう」

 俺はシロイにそう提案をした。


「えー? 海はー?」

 少し不満そうな声が返ってきたが、海岸でひっくり返っていた手前、俺の意見にもいくらか耳を傾けてくれる気になったらしい。


「砂浜に捨てるとすぐ陸に打ち上がっちまうだろ」

「そうかもー」

「それに、少し高い場所のほうがこの惑星の様子を見渡せる」

「うんー」

「せっかくだ。ノアの方舟も連れて行ってやろうぜ」

 俺の言葉に、シロイは大いに賛成してくれた。

「行くっ!」



   * * *



 何度も石ころを取り除きながら、ゆっくりと斜面を登ってゆく。

 空は相変わらずいい天気だ。


 切り立った崖の下に、海が広がっていた。

 その美しい青は、汚染されきった地球のものとは似つかない。

 人類がさんざん地球をないがしろにしてきたのは、地球が本当の故郷ではないことを本能のどこかでわかっていたからなのだろうか。


「ねえ、タグチー」

「ん?」

「どうして山にしようって言ったのー?」


 シロイに問われ、俺は海を眺めながら答えた。

「安らかに眠りたいっていう話だったからな。眺めのいいところに土葬しようと思ったんだ」

「そっかぁー」

「でも、今はシロイの意見に賛成だ。俺も海がいいと思う」

「うんっ!」


 ミッションクリアを目前にして、俺にはまだひとつだけ気になることがあった。

「……ところでなあ、シロイ」

「なぁにー?」

「俺にもノアの方舟を見せてくれないか」


 てっきり、すぐに返事がくると思った。

 でも、シロイは何かを悩んでいるようだった。


「……あのねー、タグチ」

「ん、なんだ?」

「ミッション終わっても、ずっと一緒にいてくれるー?」


 ふと、口元に笑みがこぼれた。

「当たり前だろ」

「わぁい! ありがとうっ!」


 喜ぶシロイを見て、ああそうか、と気付いた。

 海がいいと言いながら、なぜシロイは着水後すぐにノアの方舟を海へ落とさなかったのか。あるいは、自分だけではまともに進めもしないのに、なぜ強引に海を目指したのか。

 その疑問が、やっと解けた。


 シロイの胸部が静かに開く。人間なら心臓のあるあたり。

「そこに入っていたのか」

「うんー」

 460年も一緒にいたのにちっとも気付かなかった。

 まるで親鳥が卵を抱くように、シロイはずっとこれを守ってきたんだ。


 ノアの方舟を目にするのは、地球以来だった。

 ルービックキューブほどの大きさで、金属に覆われた表面が鈍い光を反射している。こっそり手入れされていたのか、さびも曇りも見当たらない。


 これは『記録媒体』だ。

 中には地球のあらゆるデータが入っている。

 生物の画像とDNA情報。

 虫や鳥や動物の鳴き声と、人間の話し声。

 世界遺産や有名な建築物の写真や見取図。

 さまざまな土地の文化や風習や歴史。

 書籍。地図。写真。映像。音楽。

 乗り物や工業機械や機器の設計図。

 ロボットの設計図とプログラム。

 それらすべてが、電子データとしてまとめられている。


 人類は、いや、は、

 故郷から遠く離れた地球で生き延び、

 気の遠くなるような歳月をかけて進化を繰り返し、

 広大な星空からついに故郷を探し出し、

 自分たちの寿命ではそこへ辿り着けないとわかればロボットを用意し、

 なけなしの資源をつぎ込んでロケットを造り、

 最後はデータという形に姿を変えてまで、

 故郷であるこの惑星へ帰りたいと願ったのだ。


 【ノアの方舟】を故郷へ運ぶこと。そして、穏やかな眠りにつくこと。

 それが人類最後の悲願だった。


 460年かかった。

 たったそれだけのために、彼らは俺たちを遠い星へと送り出し、俺とシロイは宇宙を漂い続けた。

 それはあたかも、大海原に一枚の葉を浮かべるようだった。


 その長い旅も、もう終わる。



   * * *



「いくよー」

「おう」


 合図をすると、シロイはノアの方舟を海に向かって放り投げた。

 銀色のキューブは綺麗な放物線を描いて波間に消えた。

 少しのあいだそれを見送って、俺たちは顔を見合わせる。


「やったー! ミッションクリアっ」

「おつかれさん!」


 俺たちは、ここで機能が停止するまでのあいだ、墓守として過ごすことになるだろう。

 あるいは、もう少しだけシロイとこの星を見て周るのも悪くない。

 海を見下ろしながら、そんなことを思う。


 丘の上から綺麗な夕焼けが見えた。

 それは、今まで見た中で一番美しい夕焼けだった。

 どこかほっとするような、同時に物悲しいような感情が込み上げてくる。


 これが郷愁というやつなのだろうかと思いながら、俺はシロイと並んで空を眺めていた。

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地球人のための鎮魂歌 ハルカ @haruka_s

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