第9話 逃げよ女房

 人にぶつからないように避けながら、それでも急いで探したら、幸いにもすぐに見つかった。物ぐさ太郎だけじゃない。女房と下女もだ。

 他の参詣者は、彼らから距離を置いて通り過ぎていく。関わり合いになりたくないのだろう。

 見失わなくてよかった、とほっとしたのは一瞬だった。物ぐさ太郎は女房の笠の内まで顔を近寄せ、腰に手を回している。

 これはまずい、と飛び出そうとしたが、その前に女房が声を上げた。

「ここでは人目もございます。また後ほど、私の所へ訪ねていらしてください」

 声音こわねや姿勢は毅然きぜんとしているものの、その表情は恐怖を必死に押し隠しているように見える。

 これは、本気で物ぐさ太郎を誘っているわけではない、と察せられた。きっと、適当な話で丸め込んで、逃げてしまうつもりだ。

 僕は出て行くのをやめ、三人に見つからないように身をひそめた。

 僕が「やめろ」と言って、素直にやめるとは思えなかった。抵抗されるどころか、後々までうらみを買いかねない。このまま女房が上手くかわしてくれたほうが、あいつも大人しくあきらめ、丸く収まるに違いない――とっさにそんな計算が働いたのだ。

 物ぐさ太郎は女房の言葉を疑う気配もなく、首を傾げながら問うた。

「訪ねて来いというが、どこを訪ねればいいんだ?」

「松のもと、という所です」

「それならわかる。明石の浦のことだな」

 何の迷いもなく答えられて、女房がぎょっとした。

 きっと、あいつがわからないように異名や謎かけみたいなもので教えて、ごまかそうとしたんだろう。それなのに、的確な答えが返ってきたわけか。

 それにしても、なぜ「松のもと」が「明石の浦」なんだ?

 明石、松、何か関係が……と頭をひねって、ようやくピンときた。

「松」は「松明たいまつ」だ! 松明のもとは明るい。だから「あかし」か。もしかすると、明石の浦は松の景勝の地だから、それも踏まえてるのかもしれない。

 僕が考えている間にも、女房はけむに巻こうと、物ぐさ太郎は居場所を突き止めようと、応酬を繰り広げていた。

「あ、明石の浦は私の故郷です。そうではなく、日暮れの里です」

「日暮れの里もわかるぞ。鞍馬くらまだろう。鞍馬のどの辺りなんだ?」

「それも私の故郷です。灯火ともしび小路こうじを訪ねてください」

「油の小路だな。そのどの辺りなんだ?」

 ええと……日暮れは辺りが暗くなる……「暗い」、から「鞍馬」か。

 僕がさんざん考えてようやくわかる答えを、物ぐさ太郎は即座に返していく。

 しばらくこんなやり取りが続き、さすがに女房の表情にも焦りがにじみ始めた。下女も不安げに見守っている。

 このままではらちが明かないと思ったのか、女房は謎かけをやめ、代わりに歌をんだ。

「放せかし 網の糸目の しげければ この手を離れ 物語せん」

 なるほど。ここまではっきり「放してくれ」と訴えれば、さすがに嫌がっていることぐらい理解できるだろう。

 物ぐさ太郎は動じたふうもなく、すぐさま歌を返した。

「何かこの 網の糸目は 繁くとも 口を吸わせよ 手をばゆるさん」

 ……「口を」って。つい今しがた会ったばかりの相手に、いったい何を望んでるんだ。 

 これはもう僕が出て行って彼女たちを助けないと、と身構えた、その時。

 女房がまた歌を詠んだ。

「思うなら いても来ませ 我が宿は 唐橘からたちばなの 紫のかど

 これまでと違い、物ぐさ太郎は戸惑った顔をしている。歌の意味を考えているのだろう。手がゆるみ、目の前の女房からも注意がそれていた。

 女房はこれぞ好機と見定めて、手を振りほどき、脱兎だっとのごとく駆け出した。下女もあわててそれに続く。

 物ぐさ太郎ははっとして、

「おーい! どこへ行くんだ、我が妻よ」

 などと叫んだが、女房は髪も着物も振り乱し、すでにはるか彼方かなたへ走り去っている。物ぐさ太郎もそれを追って走り出した。

 ……というわけで、僕も走って追いかける破目はめになった。

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