第3節 仕掛けられた罠と忘却の魔法
どうして、エルディスの動向について考えるのをやめてしまったのか。
今さら悔やんだところで仕方のないことだと思いつつも、リトは考えずにはいられなかった。
唯一の肉親、たったひとりの息子に執着して、リトにとって身近な者に呪いをかけようとした男が、簡単に大人しく引き下がるはずがないのに。
空がオレンジ色に染まり、日が暮れようとする時。
リトは抜き身の
やわらかい芝生と剪定された木が植えられた、広い中庭。
そしてアイボリーのレンガで造られた建物とその両側にそびえ立つ塔。
自宅にしている洋館とは比べものにならないほどの、大きい屋敷だ。
幼い子どもだった頃、両親と暮らしていた思い出の場所。そのはずだ。
あの日の記憶を頭の中で巡らそうとしても、どうしてか頭痛しかしなくて思い出せないけれど。
——油断していなかったと言えば、嘘になる。
一度はラァラの一声で大人しくなり、エルディスは本宅であるこの屋敷にこもりがちになった。
訪ねてくることはあれど、もうラディアスには手を出そうとはしなかったのだ。
だから、誰かを拉致するなどという、もう危険な手段には出ないだろうと思い込んでいた。
けれど、学園にはラァラの姿はなく、自宅にはラディアスも見当たらなかった。
書き置きもなかったし、連れ去られた証拠なんてなかったが、リトには確信があった。
間違いなく、二人は本宅の屋敷の中にいる。
エルディスは高位の
本当は、一人で来るつもりはなかった。
もう二度と、こんな広いだけの屋敷に足を踏み入れないつもりだったのに。
もう誰も巻き込みたくはなかった。
ただでさえ、自分は間が悪いことが多い不運体質なのだ。
以前のようにライズやティオ達を厄介事に巻き込んで、今度こそ取り返しのつかないことになったら——。
(そうだ。これは周囲の警戒を怠った自己責任で、俺自身の手で解決しなくてはならないんだ)
取手のついた両扉を開けて、中に入る。
予感は的中した。
玄関ロビーには、緋色の魔法使いが柔和な笑みを浮かべていた。まるでリトが来る瞬間が分かっていたかのように。
「……父、さん」
彼を、父を見た瞬間。
リトは背筋が一気に凍った。
震える指で取り落とさないように、剣の柄を握り直す。
状況を把握しようと周りを見渡すと、ラディアスがいた。
中央の装飾柱に、首をワイヤーかなにかで動かないようにくくりつけられている。
後ろ手にさせられているところを見ると、手も拘束されているに違いない。
その、あまりに理不尽で身勝手な扱いに、自然と怒りが込み上げる。
「父さん、どういうつもりだ!」
感情に任せて怒鳴ると、何がおかしいのかエルディスは楽しそうに笑う。
その態度にますます腹が立ってきて、どうしようもないくらいに嫌悪感が膨れ上がった。
「いらっしゃい」
「ラトを放せ」
今さら挨拶なんかいらなかった。
本当なら、顔も見たくない。
「彼を放してしまったら、おまえとまともに話ができないじゃないか」
困ったような顔で笑い、エルディスはゆるりと首を傾ける。
言われている意味がわからず、不可解だった。
ラディアスを捕らえているからこそ、話をするどころではなくなっているのに。
言葉は通じているのに理解はしてもらえてない、と思えてくる。
おかしいのはリトなのか、それとも父親なのか。どちらにせよ常識なんてない。
論理的におかしすぎるだろ。
思い返してみれば、再会した時点でも同じことが言えたのかもしれない。
リトの見知った一般の親子関係は、こんなふうに嫌悪感を抱くほど歪んではいないし、恐怖を感じることもないはずだ。
ましてや、子どもの目を向けさせるために、その友人を人質に取るだなんて——。
いや、そうじゃない。
初めから分かっていたじゃないか。
こんな強引な手段に訴えてまで、自分を一人だけで本宅の屋敷に来させようとした、父の目的を。
「……お前は話じゃなくて、俺に呪いを掛けたいんだろう」
以前、エルディスは相手を熱病にかからせる【
相手にかける呪い魔法はいくつか思いつくが、彼が自分にかけようとしている魔法は見当がつかない。
「だって、おまえは私のことをすっかり忘れてしまっていたからね。これでも、怒っているんだよ?」
「お前が俺を捨てたんだろ」
まだなにも分からないでいた、五歳の頃に見捨てたのはエルディスではないのか。
爵位という重い荷物まで押し付けて。
父の軽率な行為で、その後のリトが歩んだ辛くて苦しい道も、死ぬような思いをした経験も、彼はきっと知らないだろう。
そもそも知るつもりがないのかもしれない。
どちらにせよ、エルディスには一生かかったって分からないに違いない。
考えれば考えるほど腹が立ってきて睨みつけていると、悪びれた様子もなく父はぽつりと言った。
「ちがうよ。興味がなかっただけだよ」
刹那。
鋭利な刃物で胸を貫かれたような衝撃が走った。
頭の中が真っ白になる。
まるで石になったみたいだった。
指ひとつさえ動かせない。
興味がない、だなんて。
どうしてそんな悲しいことを言うのか。
血が繋がっている親だからこそ分かり合えると、思っていた。
間違っていたのは自分なのか。
「そんな物騒な物捨てなさい。ラト君がどうなるか解らないよ?」
口調や微笑みは穏やかでも、エルディスの言葉が明らかに脅迫だった。
まっすぐ見つめてくる瞳は笑ってはいない。剣呑な光を宿している。
本気なのだと思った。
もう、選択の余地などないのか。
どちらにせよラディアスが拘束されているのだ事実だし、エルディスは彼を容赦するつもりはないのだ。
言いなりになるのは癪だが、彼の命には換えられない。
リトは無言で
カシャン、という金属音が耳に触る。
「どうせ忘れているのなら、いっそ全部忘れてしまえばいいと思わないかい?」
その言葉を聞いた時、リトはハッとする。
——【
それは光の高位魔法で、かけた相手の自分に関する記憶を封じてしまう呪いだ。
簡単には解くことが難しく、エルディスほどの熟練した
冗談じゃない。
愉しそうに笑いながら、彼はゆったりと近づいてくる。
一歩、また一歩とにじり寄ってくる姿に、リトは鳥肌が立った。
「誰が思うか」
恐怖を全身で感じているのか、心臓が波打っている。
身体が震えてしまいそうなのを押さえ込んで、虚勢の入った強い口調で言い返した。
近づいてくるたびに後ずさっていたが、やがて壁が背中に当たった。
まずい。もう後がない。
他の逃げ道を探して周囲を巡らせていると、手が伸びてきて喉元をつかまれる。
そのまま壁に押しつけられた。
細い身体のどこにそんな力があるのか、強く力をかけられて呼吸がせき止められる。
声が、出せない。
気にした様子もなく、エルディスはそのまま
愉悦の笑みを浮かべる父を遮断するように、リトは目を閉じる。
その行動に、きっと彼は自分が諦めたと思い込むことだろう。
——落ち着け、大丈夫だ。
たった一度限りだけど、呪いは無効化されるはずだ。
ライヴァンに行った時に、ルウィーニからもらった聖獣の羽。そのアイテムは今も上着のポケットにちゃんとしまってある。
相手を油断させるためには抵抗しないのが一番だ。
実際、魔法使いは決まって
エルディスは無事に発動したと思い込んだのか、不意に喉にかかっていた圧力が消えた。
チャンスを逃すつもりはない。
すかさず目を開き、リトは躊躇わずに父の鳩尾に蹴りを入れる。
手ごたえはあった。
一瞬だけ呼吸をせき止められたであろうエルディスを確認せずに、すぐにリトは走り出す。
呪いが無効化されるのは、一度だけだ。
本来なら一人で逃げるべきなのかもしれない。それが一番の最適解だと、リトは解っていた。
けれど、ラディアスを置いて逃げるだなんてどうしてもできなかった。
彼はラァラの養父で、自分の命の恩人で、友人で、そして大切な家族で。
拉致されて理不尽な目に遭っているのは、間違いなく自分のせいだ。
見捨てることなんてできるわけがない。
囚われているラディアスがリトを見て、激しく首を横に振っている。
なにかを報せようとしているのか。
けれどリトは冷静にはなれず、足を止めなかった。
彼に駆け寄るまであと数歩。
足がピタリと止まった。どれだけ動かそうとしても、びくともしない。
なぜ、突然。
せき止めていた恐怖が全身を満たしていく。
このような効果をもたらす魔法には覚えがある。
リト自身も使うことのできる、初歩の闇魔法。相手の影を地面に縫い付けて動けなくする【
もう、逃げられない。
「……まったく、甘やかされて育ったものだな」
背後から足音がカツカツと聞こえてきて、リトは血の気が下がっていくのを感じた。
頭を乱暴につかまれ、そのまま勢いよく壁に押し付けられる。
衝撃で目眩を覚えたが、今は気にしている余裕なんかない。
「やめろ!」
「やめると思うかい?」
やさしく、耳元でささやかれる。きっと答えは期待してない。
なんとか逃れようと壁を叩いてみたり押してみるものの、エルディスは手を緩めなかった。
絶望感が体の中で大きく膨れ上がる。
嫌だ。全部なくなるのは、嫌だ!
「……っ。頼むからやめてくれ!」
指先がふるえる。
これから襲うであろう最悪の結末をかんがえると怖くてしかたない。
視界が歪む。
きっと、自分は泣いているのだろうと、心のどこかで自覚する。
今まで生きてきた記憶がなくなるのは嫌だ。
すべて忘れるくらいなら、死んだ方がましだ!
「それがものを頼む時の態度かな?」
ひく、と反射的に指が痙攣した。
ちゃんと頼んだら、呪いをかけないでくれるのだろうか。
記憶を封じ込めないでくれるのか。
哀願するように、リトは目をぎゅっと瞑った。
その拍子に涙がこぼれたのか、頬を伝っていくのを感じた。
「お願いだ。父さん、やめてくれっ。俺は忘れたくない!」
過ちを犯して平気な顔で人を傷つけた記憶も、親切にすると喜んで笑顔にあふれたのを見た記憶も。
悲しかったことや、楽しかったことも。
苦痛で涙した記憶も、ちょっとしたことだけでしあわせだと思えた記憶も。
どれもなくしたくない、リトにとってかけがえのない宝物だ。
土下座しても構わない。どれほどその姿が滑稽なものに見えたって。
何度でもちゃんと頼むから。
満足するまで、何回だって願おう。だから——。
「可哀想に。すぐ楽にしてあげるよ」
まるで死刑宣告のような言葉だった。
狂いそうな恐怖心で我を失い絶叫したが、エルディスが詠唱を中断する様子はない。
(嫌だ、やめてくれ! 消さないでくれ——!』
頭の中で叫んだ言葉が形となり、瞬間、霧散した。
目を開けると、世界はぼんやりとしていた。
どうやら自分は床に寝転がっていたらしい。身体を起こして立ってみる。
目の前には大きな階段。後ろには扉があるから、きっとここは玄関のロビーなのだろう。
走り回れるほどに広いから大きな館なのかもしれない。
一体、ここはどこの館なのだろうか。
そして、自分はどうしてここにいるんだろう。
「さて、夕食にしようか。リトアーユ」
突然声をかけられる。
振り返って見ると、すぐ近くに背の高い男がいた。
肩より長い緋色の波打つ髪の
にこにこと笑って自分を見ている様子からして、やはり彼は自分に話しかけているのだろうか。
リトアーユ。
それが自分の名前なのか、と首を傾げる。
けれど、いくら考えても答えは見つからない。
頭がふわふわしていて、なんだか考えるのも面倒だった。
相手が誰なのかは知らないが、ひとまず頷いておくことにする。
「うん」
紅いローブをまとった男は、ゆったりとした足取りでリトの横を通り過ぎる。
なんとなく彼の動きを目で追うと、階段の装飾柱の前で誰か倒れているのが見えた。
しゃがみ込む男の背中に隠れて、姿はよく見えない。
(急病人かなにかだろうか。大丈夫なのかな)
今のリトにはその程度の言葉しか浮かばなかった。
だからと言って、見ず知らずの他人に駆け寄ってやる必要性も感じない。
ただ、見ていることしかできなかった。
ああ、頭がクラクラする。
(そもそも、俺は誰なんだっけ……?)
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