第28話 底なし沼に落ちた気分

「別れて下さい」

 公香は、便器に顔を突っ込んで、嘔吐を繰り返している。昨夜は、どうやって自宅へと帰ってきたのか、まるで覚えていない。何故かは分からないが、断片的に覚えている出来事は、全て公香にとって都合の悪い事ばかりだ。伊月に婚約者がいた事や、別れて欲しいと伝えた事。そして、伊月は無言のまま立ち上がり、部屋を出て行った。トイレが、非常にワイン臭い。それほどまでに、ワインを飲んだのだろうか。

 もう全てが終わってしまったのだろうか?

 水を流し、トイレから出た公香は、ソファに転がるカバンを漁った。スマホを取り出し確認するが、伊月からの連絡は一切なかった。そして、時刻を確認し、目を見開いた。豪華な個室で伊月と会ってから、二十四時間が経過していた。吐いては寝て、吐いては寝てを繰り返し、公香はトイレの中で過ごしていた。

 酒の効力もあったのだろう。伊月を責めて、脅迫まがいの事をし、非常に迷惑をかけてしまった。しかし、それで全てを失っても仕方がないとは、どうしても公香は思えなかった。丁寧に謝罪をすれば、きっと伊月は受け入れてくれるはずだ。公香はスマホを手に取り、伊月へ電話をしようとしたが、人差し指を突き出した状態で静止した

―――俺には、婚約者がいます。

 スルリとスマホが手から滑り落ち、床へ衝突した。公香は茫然と立ち尽くし、力なくベッドへ腰かけた。

 伊月は、どうして教えてくれなかったのだ? 裏切られた気分になるのは、自己中心的な考えだろうか。伊月にとって公香は、ビジネスパートナーであり、罪の罰であった。そんな存在に、わざわざプライベートを晒したりはしないだろう。

 伊月にとって公香は、所詮その程度の存在なのだ。その事実を突きつけられ、公香は力なく項垂れた。

 私は、どうしたいんだろうか?

 このような事実を突きつけられても、作家伊月康介に縋りつきたいのだろうか? ビジネスパートナーとして、きっぱりと割り切って、仕事に没頭する事ができるだろうか? もう百パーセント、可能性はないのだろうか?

 伊月は、公香の能力を高く評価していた。もしかしたら、婚約者がいるのは、嘘なのかもしれない。公香に独り立ちさせ、作家業に専念させる為なのかもしれない。やはり、真意のほどを伊月に確認しなければならない。なによりも、このままサヨナラじゃあまりにも悲し過ぎる。

 真っ暗な狭いワンルームで、公香はベッドに仰向けになり、天井を見ている。伊月と過ごした一年の思い出よりも、どうしても昨日の出来事が脳裏に巡る。起き上がって伊月に電話をして、確認しよう。あまり間隔を空けない方がいいような気がした。公香は、起き上がろうとしたが、体に力が入らない。全身が麻痺しているように、指先が動かない。

 疑問が浮かびかけた時、霞がかかったように、意識が離れていった。


 次の日、異臭で目を覚ました公香は、不快感を露わに起き上がった。鼻を押さえ辺りを見渡す。そして、匂いは公香自身から発せられている事に気が付いた。二日近く風呂に入っておらず、ましてや全身にワインを浴びている。きっと、嘔吐した元ワインも付着しているだろう。公香は慌てて服を脱ぎ、浴室へと入った。シャワーを浴びて、スッキリした体であるが、頭は重りを詰められたように酷く冴えない。二日酔いを越して、三日酔いの状態かもしれない。濡れた髪の毛にドライヤーの温風を当てる。

 外側はサッパリスッキリしたけれど、内側は相変わらずドロドロしている。臓器関係の不調ではなく、心の中だ。悪い夢であって欲しいけれど、現実は妄想通りには事を運ばないようだ。

 足の踏み場の少ないリビングに戻り、スマホを探す。目に見える場所には見当たらない。ああ、そうかと膝を曲げて、無理やり床に顔を近づける。床を這わせるように、視線を動かしていくと、ベッドの下でスマホを発見した。画面を眺めると、スマホに起こったアクションが並んでいるが、伊月康介という文字はなかった。肩を落としていると、妹の優からの連絡は多かった。ベッドに横になった公香は、目を擦りながらスマホを操作する。文字がぼやけ横に流れた。

『伊月康介の記者会見見た? ビックリだよね!?』

 ここに来て初めて見た四文字に、全身の毛穴から冷たい汗が滲み出た。

「記者会見?」


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