第26話 感情が暴走して。

 一年ぶりに訪れた豪華でお洒落な個室に、公香は一人で座っている。薄暗い室内を見回し、最後にテーブルに置かれたワインで視線を止める。一口飲んで、大きく息を吐く。初めて訪れた頃とは、明らかに状況は変化しているのだが、居心地の悪さは変わらない。もう一口、ワインを口に含んだ。

 意を決して伊月にメールを送った次の日の夜に、伊月から返信があった。明日の二十一時頃なら、都合がつきそうです。そして、現在、公香は一人で伊月の到着を待ち望んでいる。到着する直前に、仕事が押していて少し遅れるとメールが入った。スマホを見ると、三十分経過していた。

 昨夜は、案の定寝付けなかった。今朝早くから洋服や靴やアクセサリー、そして下着を購入しに街に出た。美容院で髪を整え、綺麗なネイルを施し、エステにも行った。一年前とは、懐事情が大幅に変わったので、惜しげもなくレベルアップに注ぎ込んだ。

 首を伸ばし、扉に顔を向けた瞬間に、音を立てず静かに隙間ができた。

「遅くなってしまい、すいません」

 眉と頭を下げながら、伊月が室内へと入ってきた。公香は蹴り上げられたように立ち上がり、体の前で手を合わせお辞儀をする。

「いえ、こちらこそ、お忙しいのに無理を言ってすいません」

 二人は互いに頭を下げ合い、着席した。

「すいません。先に頂いてます」

「ああ、かまいませんよ。その方が助かります」

 笑みを浮かべた伊月に、公香はグラスを用意し、ワインを注いだ。グラスを重ね、ワインを飲む。

「今日は、どんなお仕事をされてきたのですか?」

「ラジオの収録です」

 伊月が出演したラジオは、人気お笑いコンビがパーソナリティを務める番組だ。伊月は、ラジオ収録の内容と裏話を語った。公香にとって伊月の口から、華やかな世界の話を聞くのは、とても新鮮で楽しかった。しかし、不思議なほど、表舞台への憧れは抱かなかった。自ら望んで手に入れた裏方稼業に満足していたし、なにより伊月を陰で支える役回りを気に入っている。

 二年前、婚約者に捨てられ、絶望感と意地によって、周囲から『お化け』と揶揄され陰口を叩かれていた。今では、現代を生きるゴーストライターとして、生き生きと暮らしている。同じお化けでも、天と地ほどの差がある。生きたお化け、まさに生霊だ。それはなんだか、違う気がする。伊月の背中を守る背後霊か、それとも守護霊か。背中を預けられる存在だと思うと、鳥肌が立った。公香は、伊月を見つめながら、そんな事を考え、笑みが零れた。

「そんなに面白いですか?」

「ええ、伊月さんのお話は、とっても面白いです」

 少しだけ嘘を付いて、公香は目を細めた。いつも作品を通して繋がっている二人であるが、やはり同じ空間で時間を共有できるのは、なにものにも代えがたい幸福感を味わえる。

 こんな時間が、ずっと続けばいいのに。

 二人で紡いだ作品が、多くの人に愛されている。きっと、伊月となら、これからも最高の作品を作り続ける事ができるはずだ。

 作業効率を考えて、二人で一緒に住みませんか?

 冗談っぽく言って、伊月の反応を伺ってみようか。そんな事を考えながら、一気にワインを飲み込む。

「私の知らない世界は、非常に興味深いです」

 公香が、新たに注がれたワインを飲むと、伊月は持ち上げたグラスをそっとテーブルに戻した。

「俗に言う、表舞台という場所に憧れたりしませんか?」

「憧れですか? 確かに、テレビでよく見る芸人さんやタレントさんに会えるのは、凄いと思いますけど、私は伊月さんから話が聞けるだけで、十分です」

「本当にそうですか? 煌びやかな世界に行ってみたいと思いませんか?」

 伊月に真っ直ぐ見つめられ、公香は小さく首を傾げる。

「どうでしょう? 色々と面倒なような気がします」

 公香が申し訳なさそうに、首を突き出すようにして頭を下げる。すると、伊月は突然表情を崩し、吹き出した。

「おっしゃる通りですね。色々面倒臭いです。それに、自分で言っておいてなんですが、特別煌びやかな世界でもありません」

 伊月は、笑いながら、ワインを流し込んだ。公香は、グラスを口元に近づけ、ハッとして勢いよく立ち上がった。

「私、満足してますよ! 表舞台とかにも立ちたいと思いませんし! なにより、今のお仕事を辞めたいとか、ちっとも考えていません!」

 大声を上げる公香に、伊月は目を丸くしている。伊月は、公香がゴーストライターを辞め、自分も光を浴びたいと思っていると勘違いしているのでは? 公香は、焦りを隠さず、必死で訴えかけた。暫く、茫然と公香を眺めていた伊月は、目を伏せグラスを手に取った。そして、体の前で、グラスをクルクルと回す。伊月の動きと連動し、グラスの中のワインが、遠心力で綺麗に回転する。

「本田さん」

「・・・はい」

「本田さんは、いつでも光を浴びる事ができます。いつまでも、影に潜んでいる事はありません。本田さんが、その気なら、俺は全力で応援します」

「な! なにを言っているんですか!? 私は、そんな気まったくありません!」

 公香は、両手でテーブルを叩きつける。伊月は、眉一つ動かすことなく、グラスを回し続けている。

「本当にそうでしょうか? 本田さんには、力があります。今回の作品で、それが証明されました。俺はほぼ干渉せず、百万部を達成したではありませんか? 大金も手に入り、承認欲求も満たされます。沢山の人から尊敬され、先生と呼ばれます」

「そんな事には、興味がありません! それに、私は世界中の人達よりも、伊月さんたった一人に認められたいだけです!」

「俺なんか・・・それじゃあ、あまりにも志が低すぎますね」

「低くなんかありません! 私には、それが全てです! 大好きな人と一緒にいたいだけです!」

 あ・・・公香は、咄嗟に口を押え、萎れるように椅子に腰かけた。豪華な個室には、沈黙が下り、公香は俯いた。恐る恐る顔を上げる公香であったが、伊月は何食わぬ顔でワインを一口で口内に入れた。そして、溜息を吐くように、伊月は息を漏らす。

「・・・私が邪魔ですか?」

「そんな事は、ありませんよ。とても、感謝しています」

「じゃあ、これからも二人で、作品を作っていきましょ! 私、もっともっと頑張りますから!」

 前のめりになって目を見開く公香。今にも涙が零れそうになって、必死で奥歯を噛み締めた。伊月は、椅子の背もたれに体重を預けて、真っ直ぐに公香を見つめている。あまりにも真っ直ぐ見つめられ、公香は居た堪れなくなり、顔を背けた。まるで、ここに自分がいないように、公香は感じた。伊月には公香が見えておらず、背後の壁を見つめているような感覚に陥った。虚ろな伊月の瞳が、体温が抜け落ちたようで、背筋に悪寒が走った。公香は、唇を噛んで、背もたれにもたれる。伊月は、口を開かず、重苦しい空気が充満していく。

「も、もし・・・私がいらないっていうなら・・・」

 どうしても、声が震えてしまう。声だけではなく、体も震えだした。

 これは、恐怖なのか、悲しみなのか、怒りなのか、分からない。

「私と伊月さんの事を、公表します」

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