第18話 お化けとして、生きていきます。

公香の声に、咄嗟に顔を上げた伊月は、目を見開き茫然としている。公香は、ハンカチを鼻の下に当てて、ゆっくりと顔を上げた。

「先ほども言いましたけど、私は伊月先生の大ファンです。私は、ちっとも傷などついていません。むしろ、嬉しくて嬉しくて、たまらないです。こうして先生に会えた事は勿論、先生に作品を褒めてもらえて、しかも出版できるほどだなんて・・・こんな光栄な事はありません。それに、もし本当に私に申し訳ない気持ちがあるなら、尚更引退なんかしないで欲しいです。それにお金もいりません。私が望むのは、ただ一つです。これからも、先生には作品を書き続けて欲しいです。ただ、これは先生を追い込む、私のエゴです。だから、正直、迷ってます。どうする事が最善なのか、分かりません」

「・・・引退しても、本田さんを苦しめるだけなんですね? 確かに、最善策が見当たりませんね。やはり俺には、小説を書き続ける自信がない。でなければ、あんな事しませんし」

 薄暗い個室に沈黙が下りる。お洒落に飾られた部屋が、色味を失っていく。解決策が見当たらないまま、ただ悪戯に時間だけが過ぎていく。

 きっと、このまま別れてしまったら、二度と伊月とは会えないだろう。公香は、押し潰されるような不安に襲われていた。そして、伊月を帰してしまえば、引退してしまう気がした。そうなれば、本格的に伊月との縁が絶たれてしまい、お互い交わる事のない人生を歩んでいく。『引退しても、たまに会ってくれますか?』そんな事を軽々しく言える雰囲気ではない。そして、伊月と離れ、その後小説を書いていける自信は、公香にもない。またしても、生き甲斐がなくなってしまう。

 また、失ってしまう。

 伊月は公香の作品を褒めてくれたが、もう小説を書く理由がなくなってしまう。妹の優は勿論、父親だって、公香の作品を楽しみにしてくれている。二人の悲しそうな顔を想像すると、泣きそうになった。好きな事に夢中になれる喜びを知ってしまった。今更、虚無の世界に放り出されても困ってしまう。

 公香自身の状況と、伊月の状況を考える。なにか、よい方法は、ないだろうか? 伊月の言葉を思い出す。伊月自身もそうとう追い込まれているようであった。だからこそ、公香の作品に手を出してしまった。

 公香の作品に、手を出した―――公香は、深呼吸を繰り返し、顎に力を入れて、ゆっくりと顔を上げた。

「あの、伊月先生? 本当に私の作品って、よく出来てましたか?」

「はい、本当に面白かったです。他の作品も読みましたが、どれもレベルが高いと思いました。このまま、続けていけば、いつか必ずプロの作家になれると思います」

「という事は、現段階では、まだ拙いという事ですよね?」

「え? あ、まあ・・・でも、すぐに成長すると感じました」

 公香は、グラスに手を伸ばし口をつけた。しかし、グラスは空で、テーブルを見渡す。すると、伊月がボトルを持ち上げ、公香のグラスにワインを注いだ。公香は、恥ずかしそうに、首を突き出すように会釈をして、グラスの底を天井に向けた。勢い良く息を吐き出し、口元をハンカチで拭う。

「つまり、伊月先生が、私の作品をブラッシュアップしてくれたから、出版できるほどの作品になったという事ですよね?」

「えーと・・・それは」

 伊月は、気まずそうに視線を泳がせた。伊月の動きを見た公香は、予想が確信に変わった。

「という事は、あの作品は、伊月先生が盗用したのではなく、二人で作り上げた作品だという事じゃないですか?? たまに、『原案誰々』みたいな作品あるじゃないですか? それと同じです」

 熱を帯びながら語る公香に、伊月は目を丸くしている。公香は、真っ直ぐに伊月を見つめている。テーブルの下で握っている左手に、力がこもっていた。

「伊月先生?」

「なんですか?」

「これからは、二人で作品を作っていきませんか?」

「え? それは、どういう事でしょう?」

 不安な表情で、伊月は前のめりになる。公香は、肺一杯に酸素を溜めて、ゆっくりと萎ませていく。

「私の作品なんか、まだまだ道端の石ころです。それを先生が磨きをかけて、ダイヤモンドにして下さい。先生は、『もう小説を書けない』と仰っていましたが、それはゼロからイチが思い浮かばないという事ではないですか? その作業は、私がやります。先生には、長年のキャリアとネームバリューがありますし、沢山のファンを抱えてらっしゃいます。絶対に私よりも先生の作品を心待ちにしている人が沢山います。だから、私は裏方に回り、先生が表に出て下さい。その方が、皆幸せになります」

 一気に言葉を並べた公香は、息切れをしながら、ワインを飲んだ。空調は、適温のはずなのに、額からは汗が滴り落ちる。公香は、ハンカチを額に当てる。流石に脇の下を拭くような真似は、死んでもできない。

「勿論、先生が『プライドが許さない』とか『人を騙すような真似はできない』と仰るなら、それまでなのですが。でも、私には、『プライドを捨てるくらいなら、死んだ方がマシだ』という考え方は、理解できません。そして、騙す事よりも、引退する事の方が裏切り行為のような気がします。先生には、作品で多くの人々を幸福にする義務があると思います。先生は、神様の域に達しているのです。神様が、『願いを叶えるの、もう止めた』と匙を投げてしまったら、多くの民は路頭に迷います」

「神様って・・・そんな大袈裟な。俺は、ただのいち作家です。代わりなんかいくらでもいる」

「いいえ、私にとっては、神様です。先生の代わりなんかいるはずもない。いや、誰も誰の代わりなんかできません。散々、幸福な景色を見せておいて、急に梯子を外されたら、私達ファンは、この先どうやって生きて行けばいいのですか?」

 あまりにも飛躍しすぎていて、伊月は若干狼狽えている。しかし、これまで伊月が作家として生きてこられたのは、多くのファンがいたからこそだ。大袈裟な話ではあるが、公香の言葉は、伊月作品を待ちわびる沢山のファンの言葉の集約のようだ。

 無下に切り捨てる訳には、いかない。

簡単に諦める訳には、いかない。

「勿論、プライドがない訳ではありません。でも、できる事なら、俺だって作家業は、辞めたくないです。小説を書く事が、大好きなのですからね。この際、正直に話しますが、社会経験がなく小説ばかりを書いてきた三十二歳の俺が、これから仕事を探すのは、自信がないし怖いです」

 伊月は、椅子の背もたれに体重を預け、腕組みをして俯いた。公香は、スッと立ち上がって、笑みを浮かべる。

「全部、私が書く訳ではありませんから、この表現が正しいのか分かりませんけれど」

 公香は、握ったハンカチを左手に持ち替え、右手を差し出した。

「私が、伊月康介先生のゴーストライターになります」

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