第13話 神様の姿

「本当に楽しみだよねえ! 早く読みたいね、お姉ちゃん!」

 努めて明るく振舞う優は、玄関の鍵をかけた。キッチンを抜けて、リビングに入った公香は、胸に本を抱き振り返る。

「待ちに待った新作だよ! 早く読もうね!」

 公香は梱包されたハードカバーの小説を取り出し、表紙の匂いを嗅いだ。満面の笑みを見せる公香に、優は胸を撫で下ろす。

 先週の失態から、公香は優と口を聞いてくれなくなった。公香にとっては、伊月作品の新作発売日は、何物にも代えられない記念日だ。その記念日を忘れてしまっていた優への対応は、非常に冷たかった。伊月康介の新作発売日に、優は公香と一緒に買いに行くことを提案した。そして、待望の新作を手に入れた公香は、ご機嫌そのものだ。

「どっかの誰かさんは、この重大な日を忘れる大罪を犯してたけどね。本来なら、市中引き回しの後、打ち首獄門だよ」

「重すぎでしょ?」

 優は、紙袋を破りながら、ソファへと腰を沈める。子供のように笑う公香の顔を見て、優も自然と笑みが零れた。

 公香が言うように、新作発売日を忘れるなど、優はこれまで経験した事がなかった。伊月康介だけではなく、好きな作家の新作発売日は、手帳に記している。しかし、今回の伊月康介の新作発売日は、チェックを入れていなかった。アマチュア作家、伊月蜜柑に夢中になっていたのも原因の一つだが、最も重大な理由があった。

 伊月作品の勢いに、陰りが見えていた事だ。

 一年前に発売した『終電間際の小夜曲』から、二作品が出版された。その二作品は、駄作とまでは言わないが、既視感が強く正直あまり面白くなかった。そう思ったのは、優だけではないのだろう。前作の売り上げが、壊滅的であった。そのことから、伊月離れが囁かれ、優もその一人であった。優の中では、『康介より、蜜柑だ』という想いが強くなっていた。日に日に衰えていく作家よりも、日に日に力をつけていく作家の方が、見ていて面白い。まさに、反比例といった状況に、優の心は人気作家から離れていた。しかし、公香はその事に気が付いていない。盲目的に信じ切っている。伊月作品=面白い。いや、最早作品内容は関係ないのかもしれない。伊月康介が、執筆していれば、それだけで幸福なのだ。何重にも覆われたフィルターが、公香の瞳には張られている。

 優は、ハードカバーの表紙を眺め、小さく溜息を吐く。以前のような胸のトキメキがまるでない。しかし、露骨にその姿を公香に見せてしまうと、また口を聞いてもらえなくなってしまう。だが、それよりも、優には懸念があった。

 公香が、伊月康介に、落胆してしまわないだろうか?

 憧れの人の落ちぶれた姿に、傷ついてしまわないだろうか?

 突如、道を見失い、執筆する気力を失ってしまわないだろうか?

 優は、横目で公香を見る。公香の周囲には、『ワクワク、ドキドキ』という文字が浮かんでいるように見えた。正直、あまり期待しないで欲しいと、優は眉を下げる。

 優は、膝の上に小説を置き、小さく手を合わせた。

「おお! いい心掛けだね! 私もやろっと!」

 所作を公香に見つかってしまい、優は咄嗟に顔を上げた。公香は、優と同じように、小説に手を合わせていた。

「頂きます」

 公香は、優を見て、屈託のない笑顔を見せた。優は、引きつった笑みを見せる。同じ動作をしたけれど、きっと想いは正反対だ。公香は、ご飯を食べるように、神様にお祈りをするように、手を合わせていた。しかし、優は違う。

 どうか、面白い作品でありますように。

 願うような気持で、優は表紙を捲った。これほどまでに、緊張する読書は初めての経験だ。

 ページを捲る紙が擦れる音だけが、狭いワンルームに響いている。最後のページを読み終えた優は、本を閉じた。目を閉じ、深く息を吐く。スマホの画面を確認すると、三時間が経過していた。伊月作品で一気読みしたのは、久し振りの事だ。

 面白かった。

 安心して胸を撫で下ろす優は、ベッドでうつ伏せになる公香を見た。公香は、まだ数ページ残している。序盤こそ、公香の事が気になっていた優であったが、徐々に物語に引き込まれていった。最近の作品では、こうはいかなかった。紙の一ページ一ページが、鉛のように重く感じていた。

 面白かった。本当に、面白かった―――でも、なんだろう?

 優は、もう一度、最初から読み始めた。今度は、じっくり読むのではなく、要所要所の飛ばし読みで進めた。物語の情景や、台詞の端々に目を通す。確かに面白いのだが、やはり既視感が拭えない。しかし、それだけではない、確かな違和感。

 優は、視線を公香に移した。公香は、左右の足を前後に動かし、非常に楽しそうにしている。その姿に、目を細め、口角を持ち上げる。そして、ストンと暗幕が下りたように、無表情になった。もう一度、頭からペラペラと紙を捲る。優は、まるで間違い探しをするように、粗探しをするように、違和感の正体を探し出した。

「はあああああああ! 面白かったああ! やっぱり、伊月様最高! 素敵過ぎる! 素敵が過ぎる!」

 突然起き上がった公香は、正座をして小説を胸に抱く。

「ね? 面白かったよね?」

「そうだね」

 公香の満面の笑みに応えるべく、優は全力で笑顔を作り上げた。

 公香は、違和感を覚えていない様子だ。しかし、これは想定内だ。公香は、盲目が過ぎる。優は、暫く茫然と公香の笑顔を見つめていた。

「あっ!」

 優は、突然大声を上げ、スマホを手に取り、画面に触れる。

「どうしたの?」

 目を丸くする公香に、視線を向けた優は、顔を左右に振り、スマホに戻る。暫く、スマホの画面を凝視していた優は、スマホを脇に置いて公香を見つめた。

「何でもないよ。面白かったね」

 優は、にこやかに微笑んだ。それから、公香の怒涛の惚気話が始まり、優は上の空で相槌を打った。

 きっと、気のせいだろう。そして、偶然に違いない。

 伊月康介の新作は、とても面白かった。

 そして、既視感があった。

 面白いに決まっているし、既視感があるに決まっている。

 伊月康介の新作は、伊月蜜柑の作品に非常に良く似ていた。しかも、類似ではなく、酷似していた。

 複雑な心境で、優は胸の奥に、重くて黒い鉛が積まれていく感覚に襲われていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る