第10話 固い決意に、口を紡ぐ。

「お姉ちゃん? ちゃんとご飯食べてる? ちゃんと寝てる?」

 キラキラしていた公香が、今はドロドロしている。優の目には、そう映っていた。

 次の土曜日の昼。休日である優は、公香のマンションを訪れた。公香は、髪の毛がボサボサで、目の下のクマが色濃く浮き上がっていた。心なしか、頬がこけている。ベッドの脇に置いてあった小さなテーブルには、ノートパソコンが鎮座している。

「あれ? パソコン買ったの? 本格的だねえ? プリンターまで」

「まずは形から入りたいの! 本当は、お洒落な机と椅子も欲しかったんだけど、置けるスペースがないのよ。引っ越そうかなあ?」

「いや、お金は慎重に使お! それよりも・・・」

 優は、顔を顰めて、カーテンと窓を開く。外からは、心地良い風が入り、室内に溜まった淀んだ空気を流す。

「お風呂入ってないでしょ? この部屋臭いよ。酷い顔してるし、どんな生活してたのよ?」

「不眠不休で、キーボードを叩いています!」

 公香は、フラフラと立ち上がり、力なく敬礼をする。

「もう! 極端すぎるのよ! とにかく、お風呂入ってきて! その間に、何か買ってくるから!」

「ねえねえ、優! そんな事より、これ見てよ!」

「ダメ! お風呂入ってから!」

 いつもは穏やかな優だが、眉を吊り上げ声を張り、風呂場を指さす。気圧された公香は、唇を尖らせながら、渋々風呂場へと向かう。そして、些細な抵抗からか、歩きながら衣服を脱ぎ、床に落としていく。

「もう! ちゃんと、脱衣所で脱いでよ! カーテン開けっ放しなんだよ!」

 文句を言いながら、優は公香の後を追い、姉の衣服を拾い上げる。脱衣所から聞こえる公香の笑い声に青筋を立てながら、優は姉の衣服を脱衣所に投げ入れる。

 コンビニ袋を下げた優が、公香の部屋へと戻ってくると、ドライヤーの音が響いている。

「髪の毛乾かし終わったら、ご飯食べるよ」

 ドライヤーに負けないように、優は声を張り上げる。すると、騒音がピタリと止まった。

「何買ってきてくれたの?」

「お姉ちゃんは、カルボナーラ。好きでしょ?」

「う・・・重い」

 髪の毛を手櫛で整えながら出てきた公香は、顔を歪めて腹部を摩っている。

「じゃあ、こっちにする? 焼きそば」

「吐くかもしれないけど、それでも良かったら」

「吐かないでよ。どれだけ、ご飯食べてないのよ」

 公香は、親指人差し指と折り曲げ、首を傾げた。

「ああ、もう分った。とにかく、何でもいいからお腹に入れなきゃダメだよ」

 ソファに座った優は、呆れた様子で焼きそばを押し出す。ベッドに腰かけた公香が、溜息をついて『焼きそばか』と小さく零した。

 興味を持った事には、一直線の公香だが、今回ののめり込みは異常だ。優はカルボナーラをフォークで絡め取りながら、チラリと公香を見た。

 スノーボードにサーフィン、登山にキャンプ、アウトドアを生活の軸に据えていた公香であった。優が知っているだけでも、これだけある。他にも色々、手を出していたに違いない。一度だけ、二人でキャンプに行った事を優は思い出した。優は、あまり乗り気ではなかったのだが、強引な客引きのように、連行された。確かあの時も、スーパーで買った肉を焼く公香を横目に、優は伊月作品を読んでいた。あの時は、見向きもしなかったのにと、公香の変貌ぶりに嘆息が漏れる。

 あまり食欲が湧かない公香は、焼きそばを一本啜り、箸を置く。

「ゆっくりでいいから、ちゃんと食べてよ。何をするにしても体が資本でしょ? 体力があるのは知ってるけど、無尽蔵じゃないのよ」

 唇を突き出した公香は、箸を持ち直し、具材の人参を摘まんだ。

「夢中になるのはいいけど、あまり生活リズムを変えない方がいいよ。次の仕事が決まった時に、辛くなるよ」

「だから、暫く仕事はしないってば」

「小説は、仕事しながらでも書けるよ。どうして、そこまで頑ななの?」

 無意識に聞いてしまい、ハッとした優は、口内にカルボナーラを詰めた状態で固まった。不用意に聞いてしまったと、噛む事も忘れた優は、公香の顔色を窺っている。

 公香の前の恋人は、同じ会社の先輩だったはずだ。会社勤めを拒む程のトラウマを、抱えているのかもしれない。優は、誤魔化すように、慌てて咀嚼をし、『ああ、このカルボナーラ美味しい。コンビニのクオリティは凄いね』と、作り笑いを公香に向けた。公香は特段気にする様子も見せず、相変わらずチビチビと麺を啜る。

「お金があるからね」

 公香は、視線を皿に向けたまま、平然と答えた。

「でも、お金もいつかなくなるよ」

「そんな事は分かってるよ。なくなったら、働くよ。それまでは、今やりたい事にフルコミットするって決めたの」

 小説を書く事を提案したのは、優自身だ。しかし、それは気分転換にでもなったらと、趣味の一環という意味であった。まさか、職に就かず、睡眠や食事を疎かにしてまで、やるとは夢にも思わなかった。何にしても、度を超すと考え物だ。優は、返す言葉が見つからず、ただただ不安を前面に押し出し、公香を見つめる。優の視線と表情に気が付いた公香は、箸を置いて優しく微笑んだ。

「そんな悲しい顔しないで。私は、冷静だし、もう大丈夫だよ」

 公香は立ち上がり、キッチンへと向かう。二つのグラスにお茶を注ぎ、戻ってきた。一つのグラスを優の前に置いた。

「お金があるんだよ」

 公香は、グラスに口をつける。

「あいつとの結婚資金で貯めたお金が。私にしては、結構必死で貯めたんだよ」

 公香は、お茶を咽頭へと流し、グラスをテーブルに置いた。優は、下唇を噛み、眉間に力を込めた。油断すると、涙が零れそうになった。

「なんか惨めじゃない? お金だけが残ってるのって。だからと言って、散財するには惜しいんだよね。それなら、今私が夢中になれる事に使おうと思ったの。優が教えてくれた物書きは、お金がかからないからね。それなら、執筆する時間をお金で買おうと思ったんだよ。だから、私にとっては、とっても前向きな決断なの。だから、安心して応援してくれると嬉しいな。別にプロの作家になりたいとかじゃなくて、今やりたい事に全力で向き合いたいだけなの。贅沢なお金の使い方だと思わない?」

 瞳を三日月状にする公香は、白い歯を見せる。優は、顔を大きく上下に動かした。

「だからね、優。泣かないで」

 公香は、腕を伸ばして、テーブル越しに、優の頬に触れた。

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