第53話 鎮痛剤

「……っ」


 こいつは白い病室で冷汗をたらし、痛みに耐えていた。僅かな薬品や、鎮痛剤を拒む理由を知るものは誰もいない。


 中田雅彦は十四歳の頃、バイク事故を起こした。そのときの医者は、中毒性はないと言って鎮痛剤を増やした。


 だからと言って依存症の原因がそれだけとは言えない。彼を取り巻く家族や友人は、離れていった。俺は兄貴から受け渡された調査書類を見て言った。


「西野晴香だけは、お前に普通に接してくれた。だから、あいつを付け狙ってるチーム、スティグマと繋がったのか」


 麻薬に手を出したのはスティグマの売人に取り入るためでもあった。河本は静かに落ち着いた口調で言った。


「何があったか話してくれないかな」


 病室には誰もいなかった。親も親類も誰も見舞いには来ないようだった。中田は弟を舎弟のように扱っていたが、麻薬を強要するようなことはしていない。


「……」


 夕暮れのシーツにくるまって背を向ける。河本には心を開いたようにも感じたが、何も話すことはないようだ。河本は中田の肩をゆすって言った。


「かわりに僕が言おうか。君がスティグマに入ったのは西野晴香さんを守るため、違うといえるかい?」


「……」


「俺たちが京都に出発するとき、邪魔しにきたのもうなずける。わざと目立つような行動をして崇士を守ろうとしたんだろ。お前なりに考えてのことだったわけだ」


 中田は起き上がり、赤く燃えるような目を向けた。今にも立ち上がり、掴みかかりそうな顔で俺たちを見た。


「帰ってくれ! あんたらは何にも分かってないんだ。俺なんか信じるんじゃねえよ。お前らと俺は関係ない。関わらないでくれっ、頼むから帰ってくれ!」


「……」


 音もなく個室のドアにいたのはルシエルだった。着替えを済まして一回り大きいベージュのニットを着ていた。

 

『ここではっきりと供述しなければ、貴方は少年院に送られます。それでいいんですか?』


「ルシエル、黙っていてくれ。関わるなってのは、お前……。関われば俺たちが不幸になるとか、そう思ってるんだろ。お前の言ってることは全部が全部、ウソなんだよ。俺にガキのウソが見抜けないと思ってるのか」


「ど、どうして……」


 二時間前。


 巻く引きはあっけなかった。冨岡は仮想現実の牢獄で寝ていたようだが、現実の世界でもヘッドギアを付けたまま牢獄に入った。


 押収された貴重なゲーム機器とともに冨岡は県警へと直行するらしい。菅田警部も俺と河本を忘れているのか、病院やら県警やらに行ってしまった。


 周りに数十人いた自衛隊員は瓦礫を撤去しながら、現場をうろついていた。ポテトチップスを食いながら河本は金の心配をしていた。


「ルシエルはまだ、どこかおかしいみたいだよ。さっき、コンビニに行って電子決済しようとしたら、残金が六十億あった」


「ぷっ。ああ、そんじゃ俺にも菓子パンくれよ。自分の分だけ買ってきやがって」


「ほら、やるけどさ。使わなかったよ。だってルシエルが壊れてたら怖いだろ。帰りの電車賃も足りないや、貸してよ」


「うそ。俺の財布もないんだけど……ルシエル、お前は貴族になったのか、それとも故障したのか?」


『わたしは貴族ではありません。故障は部品を取り寄せています。自分で治せますので、ご心配にはおよびません』


「うーむ……」


 崇士を助け、西野さんと清田の息子を救った英雄に対して誰も賛美を送らない。それはいいとして、せめて家まで送ってくれませんか。


 結局パトカーに乗せてもらって、来たくもない兄弟の入っている病院に来ているわけだ。冨岡が牢獄で目を覚まして、本物の牢獄に入っている場面が見たかった。きっと爆笑できたに違いない。


「そういうわけで、もうウソをつく必要はない。スティグマも麻薬の密売組織もなくなった。お前を利用してる連中はもういない」


「ほ、本当なのか。駄目だ、やっぱり帰ってくれよ。奴らには借金があるんだ」


「そんなもんは初めから無いんだよ」


 中田は重い口を開いた。麻薬をやったのは一度だけ。その借金をかたに密売に加担する。だが身近な人間が麻薬を手にしたとき、中田はあらわれて、麻薬を奪いとった。補導されたとき、麻薬を所持していたのはそのためだ。


「だから信用するなと言ったろ」


「使う前に麻薬を奪ったお前が、悪者か? だったらそんな法律は間違ってる。お前は何も悪くない」


「……」


 涙が溢れていた。なにもかも冤罪だと証明して、涙腺が壊れたようだ。中田を犯罪者と決めつけた連中は黒人を差別して十字架に火をくべる連中と同じ、狂信者なのだ。


 そもそもこいつは麻薬の常習者ではなかった。すべては生きるためにやったことだ。涙をポロポロと流し、うなだれる中田の肩に河本の手があった。俺はそれを見てしばらく黙った。


「もう泣かなくていいんだ。何もかも君のせいじゃない」


「どうして、信じてくれたんだ。大人は誰も信じてくれなかったのに、ありがとうございます。ぐすっ……俺なんかを信じてくれて。本当にありがとうございます、ぐすっ……河本さん」


「……!」


 礼を言うなら俺へのはずだと思った。頼まれてもいないのに勝手に調査をした兄貴は、ただの変人だが、こうやって解決に結びつけたのは、河本でもルシエルでもない。


 だが、中田を責める気にはならなかった。俺が寛大なのは俺が一番知っている。それに、中田は見返りを求めず、嘘をつく男だ。


 自分がひとり、悪人になればよかった。家族が見舞いに来ないのも、自分と関われば不幸になると思ったからだろう。こいつは自ら愛すべき家族を突き放したのだ。


「それと、桐畑さん。ありがとうございます」


「えっ? あ、ああ、礼はいらないぞ」


 あの日の夜、坂本の運転する車。流れていく景色の中で俺たちは不思議な一体感を得た。まったく接点はないと思っていた俺たちが。

 

 俺たちは互いに欠けていた何かを探していた。それは「あるべき絆」であり、生きるためだけではない「人生」だった。


 病院のむこうから、中田の両親と坂本が顔をだした。今頃のこのこと現れやがって、と言ってやるか迷ったが、中田のように一人だけ悪者になるような勇気は持ち合わせていなかった。


「坂本さん、それに……父ちゃん、母ちゃん。俺……俺……無罪かもしれないんだ。俺……俺は」


 中田は両親に抱かれ泣いていた。狂犬はみる影もなく、泣きわめいていた。こいつの長すぎた反抗期はこの瞬間に終わったようだ。


 俺たち三人は兄弟の無事を確認して病院をあとにした。菅田警部はまた手柄をたてて昇進するだろうと言っていた。河本は俺の袖を掴んでわめいていた。


「どうやって帰るの? 一銭も持ってないんだぞ。なんで桐畑兄か中田の家族にお金を借りないんだよ!」


「……うるさい。たかだか四十キロだ。歩いて帰るぞ」


「やだよ、なんで歩くんだよ」


「お前だって、あんな空気のところでお金を貸してなんて言えないだろ?」


 掴み合いになった俺たちをルシエルが制した。やれやれと言った表情で、優しく河本の手を掴んでいる。


『歩きましょう、河本さん。わたし、一緒に歩きたいんです。前みたいに』


 夕焼けが俺たちの影を延ばし、俺たちは黙々と歩いた。目的地ははるか遠い我が家だ。



 

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