第三十二話 魏遼の忠義

 夜闇の中、梟の鳴き声が寂しげに響く。

「あと二舎で尉城いじょうに着くだろう。皆は存分に休養を取れ」

 仮面の騎兵、魏遼と彼の率いる騎馬隊は、とある村落で宿営していた。

 魏遼は司馬偃軍から離れて騎馬三千を引き連れ、武陽の南西にある尉城という都市を目指している。この都市は、まだ張石軍の手に落ちていない。その上、ここには普の地方軍が、僅かな数でありながら駐屯している拠点でもある。しゃとは軍隊が一日に行軍する距離のことで、一舎は三十里(一里はメートル法換算で四〇〇メートルとする)である。だが、この数はあくまで歩兵や輜重しちょうを含んで行軍する際の速度である。魏遼隊は騎兵のみで構成されており、輜重隊なども引き連れていないため、実際には三倍程の速度で移動することが可能だ。たから、尉城までにはもう一日もかからない距離である。

 魏遼のことを逃がしてくれたのは司馬偃であった。孟錯から総大将の役を奪ったこの武官は、夷門関に立て籠もる前に魏遼を呼び出し、

「この国を頼む」

と言い残して魏遼と騎馬隊を西へ走らせたのである。籠城戦とあれば、魏遼の騎射は役に立たない。故に、少数では関を守り切れぬ、と悟った司馬偃は、関を抜かれた後に魏遼隊が張石軍に抵抗することに期待して逃がしたのだ。

 途中、様々な村で宿営し、物資の供出を強要した。だが、彼らの多くは、普軍である魏遼隊への協力を拒んだ。村落の民から聞こえるのは、普の帝室に対する悪口雑言ばかりである。本来であれば帝室への批判は不敬罪として斬刑の対象となるが、最早多くの村落ではそういったものを通報するような相互監視すら成り立っていなかった。どうやら民の、帝室に対する憤懣は、想像以上に強いようである。

 彼らが協力してくれなければ、輜重隊が随伴していない魏遼隊は、人も馬も食べてゆくことができない。故に、魏遼は行き着く村という村で弓を用いて村民を脅迫し、無理矢理物資を差し出させたのである。補給と言いつつ、その実態は略奪と変わらない。

「あの時と同じだ」

 ひ弱な民に矢を向けながら、魏遼はそう思った。


 魏遼の脳裏には、見渡す限り青々と低草が茂るばかりの草原が広がっていた。かつて自分は、あの広大な大地を疾走していた。

 思い出すのは、王敖将軍と出会う前の自分である。魏遼は西方の商人の子で、物心のついた頃には騎馬民の村落に住みついていた。幼き頃より馬に親しみ、弓を引くことを覚えた。その才覚は他者を凌駕するものであり、尚武しょうぶの気風のある騎馬民の世界において、彼は次第に周囲の少年たちから尊崇の念を集めるようになったのである。魏遼は黒塗りの仮面でその顔を隠し、荒くれものの少年たちを引き連れては、屡々しばしば普の北辺で馬を乗り回し、普人ふひとの村落を襲って家畜を奪い、人を殺した。

 そういった魏遼の人生が大きく変わったのは、彼が十三の頃であった。前々から普の将軍、王敖が騎馬民の領域に侵攻し、次々と部族を打ち破っていることは、魏遼の属する部族も把握していた。そして、魏遼の部族も、滅ぼされるよりはと、とうとう王敖への投降を取り決めたのである。

 魏遼自身は、尫弱おうじゃくであると見下していた普に対して頭を下げることを、潔しとはしなかった。彼は胡馬に跨った悪少年たちを引き連れては、幾度となく王敖軍に戦いを挑んだ。しかし、この百戦錬磨の将軍が率いる軍はいわおのように頑強で、全く歯が立たない。それもそのはず、彼らは夷狄の騎馬戦術を徹底的に分析していたのである。魏遼結局、魏遼たちは包囲され、敢えなく降伏する運びとなったのであった。

 王敖は、魏遼の戦いぶりに興味を抱き、彼を召し出した。自らの軍に迎え入れようというのである。この時、魏遼は仮面を着用したまま、王敖の元に参じたのである。

「将軍の御前おんまえであるぞ。その仮面を外せ」

 王敖の側近は、仮面を外さない魏遼の非礼をなじった。だが、この将軍は、

「敵を恐れさせるために敢えて仮面を着けるか。戦士として良い心がけである」

と言って、仮面を外させずに彼と面会した。

 それまで、怖いものなど何もなかった。なかったはずであるのに、魏遼は王敖の威容を一目見るなり、すっかり気圧けおされてしまった。顔に走る古傷と深い皺は、この老将軍の戦歴がそのまま刻み込まれているように見える。

「弓を取れ。供をせよ」

 王敖はそう命じて、魏遼を伴って狩猟場へ赴いた。王敖と従者数人、そして魏遼、その全員が馬に跨り、弓を携えている。

 王敖は疾駆し、自ら先を行く。魏遼もまた馬を走らせ、それに追従する。その目の前で、王敖は弓を番えて引き絞った。

 老将の矢は至極正確であった。ただ命中させる、というだけでなく、遠くから射かけたのにも関わらず、その矢は獲物の急所を的確に射抜いていた。王敖に射倒された鹿は瀕死の状態で、最早立つこともままならない。そのまま王敖はこれに接近すると、短剣を抜き、鹿の首を裂いて息の根を止めたのであった。とても、老人の為せる業とは思えない。

 普人を侮っていた魏遼は、王敖という全く想定外な人物を、大いにおそれたのであった。

 王敖は、統率者としてはこれ以上ない程に優れていた。賞罰の基準を明確にし、功のある者に対する恩賞は惜しまない。王敖軍の将から卒に至るまで、皆がこの老将に信頼を寄せ、心を一つにして戦っていた。魏遼も、ただ王敖の武威を畏敬し平伏したというだけでなく、全幅の信頼を寄せ、その手脚となって戦ってきた。普の帝室に対する忠誠というよりは、この老将に対して忠誠を誓い、弓を取って戦ったのである。

 その王敖も、今はもうこの世にない。その軍権の大きさと功績から主君に妬まれ、総大将を解任されて武陽に身柄を送還されてしまった。その後は剣を賜り自害した、ということは、司馬偃軍と別れた後に知った。

 その時、魏遼の心を支配したのは、憤怒の感情であった。国のために戦い、賊軍を追い詰めた老将軍に対する仕打ちがこれでは、あまりにも報われぬ。

「将軍……小臣わたくしは何と戦えばよいのですか」

 王敖将軍に非業の死を遂げさせた帝室に対する忠義立てする義理など最早ない。寧ろ仇ですらある。だが、王敖が必死に守ろうとしたこの国を害することもまた、魏遼にとっては憚られることであった。

 若き騎馬隊長は、答えのない問いに懊悩呻吟おうのうしんぎんしていた。

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