泡沫に終焉

夏祈

泡沫に終焉

 ボウルに卵と牛乳を入れて混ぜ合わせ、ホットケーキミックスを加えてさらに混ぜた。空気が入るように、ふんわりと混ぜる。あまい、甘い匂いが、鼻腔を微かにくすぐって空気に溶ける。夏の朝の日差しが差し込むリビングでは、彼がソファに座り、じっとテレビを見つめていた。淡い茶色の髪が真っ白な光に透けて、きらきら光る。まるで夢みたいに綺麗な光景。彼はニュースをひたすらに見続けているが、私には何が面白いのかさっぱりだった。

 熱したフライパンにバターを溶かせば、じゅわぁ、と大きな音がたつ。彼はそこで、やっとテレビ以外の音に気付いたように、こちらを向いた。

「コーヒー淹れてくれる?」

 私の言葉に彼は二度その首を縦に振って、ソファから立ち上がる。食器棚を開けて、淡い水色のマグカップを一つ。シンクの上の扉を開けて、引き出しを開けて、部屋をうろうろしながらもう一つのマグカップを探した。そしてやっと、テレビの横に置いてあった赤い二本の線が入ったマグカップを見つけていた。彼はそれを丁寧に洗い、次にケトルでお湯を沸かす。その間に私は、ホットケーキの生地をフライパンに流し込み、片面が焼けるのを待っていた。ふつふつと表面に穴が開いてきて、私は慌ててフライ返しを探す。調理器具が沢山入っている引き出しを開けてもそこには無い。はて、どこにやったのか。

「由里」

 彼の声に振り向けば、その手にはフライ返しが握られていて。

「ぁ──ありがとう」

 私の礼に彼はそっと微笑んで、コーヒーを注ぎに離れて行った。ホットケーキが良い頃合いだったことをそこでやっと思い出し、失敗しないよう、そっと膨らんだ生地を裏返す。

「……ちょっと焦げちゃった」



 二枚のプレートにそれぞれホットケーキと軽く焼いたベーコン、スクランブルエッグ、レタスのサラダを盛り付けて、テーブルへ運ぶ。湯気を立てるコーヒーの香ばしい匂い。支度を終えて、ほっと息を吐きながら席につく。互いに何を言うでも無く、手を合わせて小さくいただきます、と呟いて、フォークへ手を伸ばした。いつの間にか消されていたテレビが静寂を運ぶ。

「ホットケーキ美味しい」

「そう? ありがとう。──市販の粉だけどね」

「……でもおれが作ったらいつも薄っぺらくて、もっと不味いから、由里は上手なんじゃない?」

「……そうかな。そうだと嬉しいかも」

 ナイフで切り分けて、私も一切れ口に運んでみる。それは毎度自分が作るホットケーキに大差ないのだけれど、もしかしたら上手なのかもしれない、なんて思ってしまう。

「ふわふわして、甘くて、由里の書く世界みたい」

 なんてことも無いように、彼は零した。頬張って、幸せそうに顔を綻ばせる彼は、きっと今自分が言ったことなど忘れてしまっているのだろう。どきりと心臓を跳ねさせたその言葉など。私は微かに震える手を隠すように、コーヒーを啜った。

 私は小説家である。そう名乗るのもなんだか申し訳ないような気もするが、実際物語を書いて日々生計を立てているのだから、きっとそれは間違いでは無いのだろう。大学時代に公募に出した作品が引っかかって、いつの間にか本を出版させてもらえるようになった。毎日授業中に物語の構想を練っていた高校時代の私に言ったところで、きっと彼女は信じないだろう。あの頃の私は皆が進学するからそれに乗っかって進学し、名前も知らなかったような企業に就職して、知らぬ間に死んでいくのだと思っていたから。小説は一時の娯楽で、それで生きてはいけなくとも、ずっと書き続けていられればいいなとぼんやり思う程度でしかなかったのだから。

「……私の小説はホットケーキなんだ」

「……たぶん?」

「曖昧な答えね」

「じゃあ、おれのは何だと思う?」

 そしてまた、彼も小説家である。私の書く、ふわふわと優しいファンタジックな世界観とは真逆の、暗いミステリーを得意とする。こんな儚い雰囲気を纏う彼が、あんなに凄惨で陰鬱な物語を書くのかと、驚いたものだった。しかし数年に一度彼が唐突に発表する、明るく希望に満ちた物語もまた彼の魅力の一つであった。

「────……カレー?」

 予想外の答えだったのか、目を丸くした彼が首を傾げて、一言なんで、と呟いた。

「見た目だけじゃ甘いのか辛いのかわかんなくて、いろんな要素が複雑に絡んでるところとか」

 彼は納得したような、そうじゃないような表情を浮かべて、数回頷いた後、「でも万人受けするところは当てはまらないね」と言った。作風には自覚があるらしい。

「カレー食べたくなっちゃった」

「まだ朝ご飯も食べきってないのに?」

 止まっていた手を動かして、少し冷めた朝食を口に運んで行く。穏やかな朝だった。ずっと続けばいいのにと思うほどに。



 彼の提案で出かけることになり、簡単に身支度をする。一つ瞬きをすればそこは賑やかな街の中心で。溶けてしまいそうな暑さと、蝉の声が夏だと訴えていた。先を歩く彼について行けば、大きな書店に辿り着いた。高い天井と、身長を悠に越す本棚。そこに張り巡らされた階段を歩けば、目当ての本棚に近付く。彼は迷うことなく私の本が並ぶ棚へ行き、一冊手に取った。最新作の、夢の世界の少女の話。嬉しそうに微笑んで、私の方を向いた。

「由里は? 何か買う?」

「うーん、どうしよう。他のところ見てきても良い?」

 彼から離れて、別の棚を見に行く。現実離れした大きなこの書店には始めて来た。こんな場所がこの街にあるだなんて知らなかったのだ。棚には見たことも無いようなタイトルが並び、心踊らされる。まだこの世界にはこんなにも私の知らない世界たちがあったのかと。気になったタイトルを一つ抜き出し、そっと表紙を開く────なぜだろうか、ぼんやりとしてよく見えない。別の本も、また別の本も。文字は辛うじて読めても、内容が頭に入って来ない。その中で、唯一読めた本。それを抱えて、彼の元へ戻る。どこか懐かしい本だった。逃してはいけないのだと思った。これを見つけるために、今日この場所に来たかのように。


 会計を終えて店を出て、近くのカフェに寄った。コーヒーと、ショートケーキを注文する。まだ昼ご飯には早い時間だった。彼は早速袋から先ほど買った本を取り出し、愛おしそうにその表紙を撫でる。そして、柔らかな笑みを浮かべるのだ。

「おれ、この話好きだよ」

 はて、彼はこの話を読んだことがあったのだろうか。今買うということは、これまで持っていなかったということだろうに。

「なんか、昔の作風に似てる。一番、きみが優しい物語を書いていた頃に」

 昔。作家歴が長いわけでもない私では、昔などそう遠い過去の話ではない。そんな短期間で私は変わってしまったというのだろうか。

 ──いや、変わったのだろう。大事だったあの人を、失ってしまったから。

 急に黙り込んだ私を心配するように、彼が私の顔を覗き込む。タイミングが良いのか悪いのか、注文していたものが届けられ、私と彼の間は再びテーブル一個分に戻った。

「ごめんね。変なこと言っちゃった」

 申し訳なさそうな弱々しい声が、ぽつりと落ちる。彼のせいではない。私が勝手に考え込んでしまっただけだ。私が、勝手にあの人の手を離してしまっただけだ。

「……私の書く世界をね、気に入ってくれた人がいた」

 フォークを持った彼の手が、刹那止まる。それに気付いていたけれど、気にせず私は自分のケーキを口に運んだ。自分で作りだした沈黙が痛かった。

「最初の作品は、その人に見てもらいながら書いたんだけど、それ以降、その人と関わることは無かったから。もしかしたら、そのせいなのかもしれない」

 高校から、大学の最初にかけてただ一人、私の書いた物語を読んでくれた人。小説を書く趣味を共有した人。私の書く物語を好きだと言ってくれた人。富も地位も名誉もいらないから、この人のために書きたいと願っていた人。私の綴る文章は、きっとあの人のためにあった。今の私は、どんな顔をしてあの人に会えばいいのかわからない。

「──……そっか」

 あの人は、筆を折ったから。

「でもおれは、由里の書く世界が好きだよ。最初の頃が特に好きっていうだけで、全て好きなことに変わりはない」

「……まるで、あの人みたいなこと言うんだね」

 彼は曖昧に笑った。夏の光が、彼を淡く照らす。

「それくらい、大好きだったんだよ。だから自信持って」

 ありがとう、そう口が動くより先に、意識の外でけたたましい音が響いた。


**


 はっと目を覚まして、音の根源を乱暴に叩いた。それきり沈黙の訪れた部屋で、冷たい空気に身を震わせながら布団をぎゅっと握る。さっきのは、夢、ゆめ。


 勢いよく布団から起き上がって、部屋を見回す。一人暮らしのワンルーム。他に誰もいない、私だけの家。ソファは無く、大きなテレビも無い。ホットケーキの香りはしないし、誰かの淹れたコーヒーの匂いもしない。そして何より、あの夢でいた彼の顔が思い出せない。確かに暖かい夢だった。ずっとそこに浸っていたくなるような、優しい夢。顔も、名前も思い出せない、誰かと過ごした夢。あぁ私は、いま目を覚ました瞬間に、彼を殺してしまった。二度と思い出すこともできない、会うこともできない誰か。思い出せない。確かにそこにいたはずなのに。彼の綴った物語は、一文も思い出すことはできないし、きっといま世界中の書店を探し回ったとしても出会うことはできない。夢の中だけの、もう言葉を交わすことのできないひと。

 それを理解した時、私の目からはいつの間にか無数の雫が流れていて。拭うことはしなかった。涙の拭い方すら忘れていた。あぁそうだ、彼は、あの人に似ていた。

 進学と同時に筆を折った。そんなくだらないことはやめろと言われたのだと、あの人は困ったように笑いながら言った。本当は、笑いたくなんてなかっただろうに。今まで忘れていた。忘れようとしていた。彼の夢を叶えたのは、私だったから。

 無意識に、本を開くように両手を見た。あの時買った本。どこか懐かしい本。


──そうだ、あれは確か、あの人の物語だった。


 あの人が私に影響されて書いたという、明るく希望に満ちた、優しい物語。らしくない、と笑って原稿を捨てようとしたあの人を、必死に引き留めた過去があった。疎遠になったあの人がどうしているのか私は知らない。私が一方的に離れてしまった。なんの夢も目標も無かった私が、彼の夢を叶えてしまったことが、どうしても後ろめたいことのように思えてしまったから。でもひょっとしたら、あの人は私を恨んでいないのかもしれない。いや、都合のいい夢を見ただけだったのかもしれない。夢で見た彼が、もしかしてあの人だったのかもしれない、なんて。

 スマホを手に取って、一つの名前を探す。ずっと前に、忘れようとした名前。躊躇う選択肢は頭に無かった。あの人とのやり取りは、私のごめん、というメッセージで終わっていると思っていた。でもそうではなかった。


『ずっと永瀬の書く世界が好きだから、自信持って』

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