ひとえ、ふたえとタンポポの妖精

入川 夏聞

本編

 その夜、ふたえはよく眠れなかったのでベランダに出たところ、ツルツルとした硬いコンクリートの床は、足の芯までささるような冷たさなのでした。

 近くには大人用の古ぼけたピンク色のつっかけも揃えて置いてありましたがそれにはふれず、ふたえはため息をひとつつくと、また部屋に戻り、クリスマスの時に使った分厚い靴下を履いてきて、両手をすりすりとこすり合わせながら、再びしんと静まる夜のベランダに出て、星空を眺めました。時々、眼下の道路から大きな排気音がしましたが、ふたえの身長ではまだ、手すりを越えてそこを覗くことは出来ませんでした。

「ふたえは二番煎じだからね、まだ届かないね」

 いじわるそうな笑みを口の端に浮かべた田舎のおばあの言葉を思い出し、ふたえは手すりにかけた両手を離して、ふうっと息を吐いてから、握ったり開いたりしてみました。それから空を見上げると、ベランダの天井と向かいのビルのすき間から、せまい曇りがちな星空が透けて見えました。


 ふたえは、しばらくキョロキョロとしていましたが、ようやく欠けたお月さまをその夜空に見つけると、それを見逃すまいとずっと見つめながら、おぼつかない足取りで、錆びついた手すりより離れ、自分が出てきたガラス引戸のふちへ腰かけました。そうしてしばらくお月さまを眺めていますと、唐突に女の子の声がします。

「お月さまが、好きなのね?」

 古くからの親しみが込められたような声でしたが、聞いたことのない、不思議な声が耳の中で響きます。ふたえは小さく悲鳴を上げましたが口を両手でふさぎ、視線を声のした方に落とすと、果たしてそこには黄色いお帽子を小さな頭にちょこんとのせた、自分と同じくらいの背の女の子が立っているのでした。

「私も好きよ、お月さま。でも、こんな夜に、よくのんきにお空なんて眺めていられるわね」

「どういうこと?」

「誰かが泣いているじゃない」

「ああ」と言ったきり、ふたえは女の子から視線を外して、またお月さまを眺めました。

 今夜のお月さまは半分より少し欠けた三日月型で、空には煙のような灰色の雲が多く、月明かりは時々、かげりを見せていました。

「お姉ちゃんなら、大丈夫」

 つぶやくような、ふたえの声でした。

 黄色い帽子の女の子は、鼻を一度ならすと、ぶるっと体を震わせて、ふたえの隣におしりから飛び込むように座りました。オシドリのようにいきなり隣にひっついて来られたので、ふたえは少しおどろきましたが、特に何も言いませんでした。

「何で、あなたのお姉さんは泣いているの?」

 黄色い帽子の女の子は、興味しんしんといった表情です。

「さあ、よくはわからない。お父さんと昼間、ケンカしていたからじゃないの」

「なんでケンカしたの?」すかさず黄色の派手なかぶりものを鼻先によせてくる女の子が、文字通り、ふたえの鼻につきました。

「知らない」

 ふたえは鋭くそう言って少し俯いて、そうしてあまり関わりたくないと言うような控えめな横目で女の子の方を見ました。女の子は小さく膝を抱えて、黄色い帽子をかしげてふたえの顔を不思議そうに覗いています。そこでようやく、こういうときに聞くべき言葉を思い出した心地がして、ふたえはそれをそのまま声音に乗せて、「あなたは、だあれ?」と言ったのでした。

 女の子は少し目をしばたたかせて、あきれたような表情を見せました。

「知ってるくせに。そこのタンポポよ」

 はい、そうですね。ふたえは知っていたのでした。

 なんとなく昔、その妖精の話をおばあから聞いたことがあったこともそうでしたが、何よりも、ベランダに一つだけある、チューリップをようやく三鉢植えられるかどうかの、今はただ枯れた土だけが入った小さなプランターに、ちょこんといつの頃からか、タンポポが一輪だけ生えていて、ふたえはよくそのタンポポに水をやっていました。それだけではなくて、一人の時はよく話しかけてさえいました。そうしていると、いつか本当に、自分が何か特別に、妖精に会わせてもらえるような気がしましたし、もの言わぬタンポポが小さな体の割に大きな印象の花をいっぱいに咲かせて揺れる様を見ていると、花にとなえた小さな不満やら文句やらの一切が、本当はどうでも良いことのように感じられるからでした。

 そんな訳で、ふたえはなんとなく、この女の子をはじめに視界にとらえたときに、どこかでもう、この子はタンポポの妖精なのかも知れないと、淡い期待をよせていたのでした。

「本当に、妖精さん?」

「あなたは本当に、つまらないことを聞くのね」

 妖精はそう言うと、自分の本体であろうタンポポの花が一輪、さみしく植わったプランターに目をやりました。

「まあ、人間はそういうものだわ。私には何故だか分からないのだけれど、人間のおおよそは、あなたのように目の前の現実がよく見えてはいないらしくって、とてもとても不安に思っている。だから、目の前にこうして私がいるというのに、こうして隣で私と肩を並べて体温を交換し合っているというのに、本当に妖精なんですか、なんて、とてもとてもつまらないことを平気で聞くことが、出来るんだわ」

 ふたえは目を何度かぱちくりとして、タンポポの妖精の表情を横からもう一度よく覗き込みました。

 妖精のまっすぐな視線は変わらずにプランターの方を向いていましたが、その横顔から受ける印象のどこかに、ふたえにはまだ、とても計り知れないような何かを彼女はすでに知っている、そんな妖精の力強い意志のようなものを感じて、ふたえは、何だかやっぱり、自分はまた、おいてけぼりを喰ったような心地がして、目頭がきゅう、としぼられるような、胸の奥からじわりとくる何かを感じずには居られませんでした。

 そして、妖精の帽子がひらり、揺れました。なるほどそれは、風に揺れるタンポポそのものでした。

「あなたのお姉さんが、目を覚ましたようね」

 ふたえは、はっとして思わず背筋を伸ばしました。すぐにガラガラと音がして、ベランダに面した別の部屋の引戸から姉のひとえがのそりと出てきました。そして、つっかけに足をさりげなく引っ掛けて、すらりとした足をしならせるようにしてベランダの手すりに向かいざま、ふたえに気づいたらしく「あ、ふたえ」とだけ、つぶやきました。

 ほのかな月明かりに照らし出されたひとえの顔はほほえんだようにふたえからは見えましたが、どこかまだ泣いているようにも感じられました。

 姉のひとえはそのままベランダの手すりにつかまって、腰ちかくまで伸びた黒髪をゆるやかな風に任せて無造作に揺らしながら、天上にいる月を、ただぼんやりとながめているようでした。

 ふたえは、少し居心地が悪い気がして立ち上がろうとしました。すると、ふたえの袖をタンポポの妖精が引きました。

「あら、どこに行くの?」

 もちろん自分の布団に戻ろうと思ったのですが、今声に出すとひとえに聞かれてしまいそうです。ふたえは、それがイヤだったので黙っていました。間の悪い男子のような妖精に悲しげな視線を送りながら、ふたえは姉の様子を伺いました。

 ひとえはその間も、ずっと夜空を眺めているようでした。

 どうやら、この十二歳も歳が上の姉にはタンポポの妖精は見えていないらしく、先ほど外に出てきてこちらをちらりと見た時の彼女の表情からは、見慣れぬ少女が当たり前の顔をして妹の隣に座っているという、この特別な状況をわかっているという様子は感じられませんでした。なので、恐らくタンポポの妖精の声も聞こえていないのだと思われました。

 ふたえは衣擦れの音がしないようにそっと座りなおして、またヒザを抱えました。


「ふたえ……さ」

 姉の不意の発言に、「はい」と反射的にふたえは答えました。

「学校は、どう? 楽しい?」

 出ました、これです。ふたえは、うんざりしました。

 いつもの事なので、表情には出しませんでしたが、最近はよくこの手の質問をしてくる姉に、ある種のわずらわしさを感じていたのです。

 この手の質問は、卑怯なのです。私はあなたのことをとても気にかけている、という分かりやすい『家族への思いやり』という絶対反論不能な十字架を人質にして、こちらがあまり考えたくもない、何もない、面白くもない日々の記憶の核心を、実に過大に尊大に、相手は要求してきているのです。しかも、それらいずれもくだらない、ただただ通り過ぎて行っただけの、もはや古ぼけてビリビリになったフィルムネガの映像を、貼り合わせて参照可能なところまで修復し、それをわざわざ言葉に翻訳して、気の利いた感想までつけて、相手に伝え返さなくてはいけません。

 その見返りは、勝手に相手が磔にした『家族への思いやり』が解放されて、無事に天まで昇華される、ような気がするだけ。もし万が一、これを無視したり、反発して答えなかったりしようものなら、『家族への思いやり』は、全身から血を真っ赤に噴き出して、すぐに死んでしまうのです。

 選択肢は、はじめから決められている。それは実に卑怯な質問、まさに苦行なのでした。そもそも、学校にはもう何年も通っていますし、同い年なだけでかき集められた近所の他人が集まるだけのその凡庸無機質な建屋の中では、結局のところ毎年同じことしかやっていません。

 今年大学を卒業する姉も、それは同じだったのではないか、とふたえは心の中でいつも思うのでした。

(そんな分かりきったことを、大人はなんでわざわざ、聞くのだろう)

 思い返してみますと、何年か前の高校生の頃までこの姉は、ふたえのことなんて一切気にする風もなく、自分の好きなことだけ話をするような、どこか別世界の人のような雰囲気の人間だったはずなのです。それが、大学に行くと言って家を出てからは時々帰ってくる度に、今までの妹に対する無関心な態度が嘘だったかのように、学校はどうだとか、いじめられてやしないかとか、修学旅行はまだかとか、やたらと聞いてくるのです。そんなことは、いまや両親ですらもう聞いてこないような、カビくさい話なのです。

 姉のひとえは数日前に、大学のある京都の下宿先から帰ってきたばかりでした。ふたえがベランダに出てタンポポの妖精と出会ったこの日の昼間、ひとえは盛大にお父さんとお互いの悪口を叫び合う、とてもみにくい争いをして、とうとう右ほほをお父さんに思いきりはたかれて、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃに濡らし、バカだの死ぬだの幼稚な言葉を叫びながら、奥の部屋へとカギをかけて、ついに引きこもったのでした。

 きっかけは、ひとえが結婚する、と言い出したことでした。もちろん、それだけではなくて、新しく一緒に暮らす人と、遠い外国に行って、恵まれない人たちを手助けするのだ、と言うことでした。

 ふたえは初め、それは良いことだと思っていました。それを聞いたお父さんが湯のみを机に割れんばかりに叩きつけて、口の端によだれを泡だてながら、なぜ、そんなにも怒なりちらすのか、わけが分かりませんでした。

 ひとえとお父さんがリビングで言い争いを始めると、お母さんは涼しげないつもの顔のまま、そっと立ち上がり、リビングに隣接する二部屋しかない居間の一つへふたえを連れて行きました。

 ふたえはお母さんに、なぜ二人がケンカするのかをたずねたところ、お姉ちゃんが行こうとする国ではずっと戦争が起きていて、そこは人がたくさん死ぬような、とても危ない国なのだと言うことでした。

 お父さんもお母さんも、お姉ちゃんには死んで欲しくないの、ふたえもそう思うでしょう、とお母さんに言われて、ふたえはすぐに首を縦にふりました。それは、歳が離れた姉への情を含む正直なふたえの気持ちでしたが、何よりもまず、家族が危ないことをやろうとしていることを注意することは、人として当然の行いだと思いました。

 不思議なことですが、自分でそうやって首をふってみますとたちまちに、ひとえがかたくなに外国に行くと言いはって聞かない態度が、まるでお店で寝転び、もろでを振ってだだをこねる小さな子供のように感じられました。そして、お母さんと居間から、激しさを増すケンカの様子を遠くにながめ、ついにお父さんがひとえのほほを張り倒すに及んだとき、当たり前だ、と思いました。

 ふたえはその最後にふと、相撲しか取り柄のないクラスの男子が昔、教室のベランダを乗り越えて、足を踏み外して庭に落っこちたことを思い出しました。それは、次のような次第でした。

 とある日の帰りの会で、彼は隣に座った女子から、彼女の消しゴムを取り上げてそれをボリボリ食べたようであることを告発されたのですが、そのことをみんなの前で言い立てられたことに、彼はとても腹を立てていたようでした。そして、彼はその場で、勢いよく立ち上がったのです。

 あぶらっぽい丸顔を真っ赤に燃やした彼が、あーあー叫びながらついにベランダに続く教室の出口まで走って行ったときまでは、それまで教室中で気持ち悪い、謝りなさいの大合唱が響いていましたが、それはピタリと止みました。しかし、それだけでした。みんな、彼がベランダに走り出したとき、それを止める者は誰一人としていませんでした。普段から跳び箱の中に忍び込んだり、筆箱の鉛筆を全部半分に折ってみたり、よく分からない行動をする子でしたが、この時は彼が何をしようとしていたのか、そして恐らくはどうなるのか、みんなどこかで分かっていた、とふたえは思うのです。それは担任の先生も同じです。彼女は謝りなさいと彼に最初に一度、言ったきりでした。

 走り出した彼が、教室うしろ隅の小さな出口のドアノブをガチャガチャとひねくり回して勢いよく外に飛び出して、高い柵をよじよじ登り向こう側に回って、手すりに両手をかけたまま全身をのけぞらせて天をにらみ、ぴょんぴょん飛び跳ねながら雄叫びをあげたかと思うと、三度目かのぴょんの間に、片足ずつがくりと足を滑らせて、手すりにかけた両手も外れてしまって、すぐに丸い体が全部見えなくなって、どこか遠くでボトリ、と妙に納得のゆく不快な音を階下から響かせるまで、教室内の全ての人間は、ずうっと彼の様子を見ていることしか、していませんでした。もちろん、すぐに教室内は彼の身を心配する悲鳴や叫びで満たされました。担任の先生はすぐに教室を飛び出して、みんなは彼が通ったベランダ側の出口から、押せや押せやとベランダに出ていって、そこに備えつけられた高い手すりの隙間には、下を見ようと必死な子供たちのゆがんだ顔が並びました。ふたえもベランダには出ましたが、彼らと同じように手すりに顔をはさむ気にはなれずに、幾人かのお友達と、おしりを突き出して下を覗くクラスメートたちの後ろに立って、みんなと同じ方向をながめていました。

 はじめはみんな黙って下を見ていました。やがて、落ちた彼がもぞもぞ動く様子と、それを助け起こそうとする男性教師と、近くにかけてきたものの手をバタバタさせてキャアキャア叫んでいるだけの担任教師の姿とが見てとれました。そして、自分の生徒の視線がずらりと頭上に並ぶのを見つけて、その担任の先生がやめなさい教室に入りなさいとわめきだしたのを聞いてようやくのこと、クラスのみんなは止めていた息を吐き出したのでした。

「あーあー、落ちると思ったんだよな、オレはさ」

「そー、そー」

「俺も、俺も。あいつ、バカだからさ」

 ふたえはこうした、落ちた彼とよく遊んでいた男子たちの言葉を聞いて、不思議に思ったものです。

 はじめから分かっていたのなら、彼がベランダの手すりに向かって走り出したときに、誰か止めれば良かったではないか。

 でも、ふたえはその考えを誰にも話したことはありません。それは、彼女自身にも同じことが言えたからです。ふたえも、彼が音を立てて階下の植木へ落下するのを、どこかで分かっていたのに止めなかった一人なのです。だから、彼の落下について口を開くことは、むしろ、とてもいけないことなのではないかと感じるくらいです。結局のところ、ふたえは今のいままで、そのことを後悔して生きてきたのでした。

 何か悪いことが起きることが分かっているのに、それを止めないことは、罪なのです。


「おねえは、なんで外国なんて行くの?」

 そう聞かれて、ひとえは驚いた表情をして、ふたえに向き直りました。そして、その豊かな髪を大げさに、根元から片手でかきあげました。その間に、ふっと悲しそうな色を一瞬だけ、瞳のまわりに浮かべましたが、すぐにいつもの子猫でも愛でるような暑苦しいまなざしをふたえに向けました。

「あのね。世界にはね、とってもかわいそうな子供たちが、たくさんいるのよ」

 ふたえはプランターで揺れるタンポポに視線を移しました。隣では、タンポポの妖精の帽子が、相変わらず能天気に揺れていましたが、ふたえはそちらを気にするそぶりは見せませんでした。

「かわいそうって、どんな?」

「そうね、例えば、食べるものが十分になかったり、病気になってもきちんとした治療が受けられなかったり、そうして死んでしまうかわいそうな子供たちが、世界にはたくさんいるのよ」

「それは、学校でも、道徳とかでやってたから、知ってる。委員会とかでも、募金、集めてた。おねえは、ボランティアしたい、てことだよね。それで?」

「うん? それで、と言うのは、どういうこと?」

「ホントよね、どういうことなのかしら?」

 隣から雑音が混じりましたので、ふたえは少し、イラっとしました。

「だから。それで、何でおねえが、外国なんて、行かなきゃ行けないの?」

「うん、そんなかわいそうな子供たちを、助けたい、と思ったからよ」

「あら、ステキ」

「……なんで、それをおねえがやらないと、いけないの?」

「うーん。私が助けたい、と思ったから? で、言い出したのは私だから……なので、外国に行く……ん? ごめん、ふたえ、質問の意味がよく、分からなくなっちゃった」

「あなた、さっきから一体、何を聞きたいの? 明確になさいよ」

 ふたえは、察しの悪い姉と、部外者のタンポポの妖精の余計な合いの手に、怒りで肩が震えましたが、まさか見えていない姉の前で妖精を叱り飛ばすわけにもいかず、かと言って、姉にこれ以上質問しても上手く伝わる気がせず、何とも口惜しい気持ちが胸の真ん中から頭のてっぺんまで一気に突き抜けました。

「あんたぁ、二番煎じなんだから、黙っとればええ」

 田舎のおばあのぶよぶよとしたシワだれ顔が、浮かびます。そうして、すぐにいつものように諦めという冷水が、ふたえの頭からザアと浴びせられた感覚として、素早くつま先まで通り抜けました。ただ、あまりに久しぶりに頭に来たからでしょうか、その冷水の直後、ふたえは何年かぶりに、涙をぽろり、とこぼしました。

「あ、ふたえ。ごめんね、泣かないで」

 ひとえは、すぐにふたえのすぐ正面に来てしゃがみ、そのまま細長い両腕をのばして、ふたえを抱えるように、優しく身を寄せました。

 その時、なぜかひとえまで泣き出しそうな表情でした。

「私、おねえが何で外国なんて行くのか、全然、わからない。何で、おねえが危ないとこに行かなきゃいけないのか、全然、わからない」

「ああ……うん。そっか、そっかあ。ごめん、ごめんね。お姉ちゃん、ふたえに心配かけちゃってたんだね、ごめんね。本当に、ごめんね」

 ひとえは、ふたえを強く抱きしめて、背中を何度もさすりました。

 力強く長身な姉がさする度に、無表情で小柄な妹の目からは、ぽろぽろと涙つぶが落ちて、冷たいコンクリートを溶かすようにしめらすのでした。

 その様子を、タンポポの妖精は相変わらずの知りたがりな顔で見ています。そして、ふたえと目が合うと、妖精はいたずらっぽい笑顔を見せました。

 見ると、妖精の右手がゆっくりと、真上に高く、伸ばされます。

 ふたえがそれを不審に思うと同時に、つぶらにすぼまっていた妖精のその右手の指がパチリと弾かれて、もうふたえに映る視界では、そこはもうどこか遠い国だと思われる、どこまでも続くような白く波うつ雲海と、突き抜けるような透明な青空の中心に、ふたえはタンポポの妖精と二人、まるでただよう綿毛のように、ふわふわと浮かんでいたのでした。


「あ……あ、う」

「うふふ、そんなに青ざめた顔しないでも、落っこちやしないわよ」

「あ、おね……」

「ここはね、私の一族が引き継いできた記憶の一部。あなたのお姉さんは、もちろんいないわよ、私が見えないんじゃ、魔法にはかけられないわ」

「まほう?」

「人間は好きなんでしょ? その言葉。さ、行きましょ」

 いじわるそうな笑みを残して、妖精はふたえの手を強引に掴むと、驚くような力で引きました。

 ふたえの体は大砲にでも吹き飛ばされたような勢いで妖精と二人、異国のスカイブルーに透き通った空の中を魚雷さながら突進し、少しずつ高度を落とながら、いくつかの峰をかわし麓を越え、やがて峻厳な崖に周囲を囲まれた、小高い岩肌の台地の上に、それはもう唐突に着陸したのでした。

 ふたえは胸の鼓動と足の震えを制するのに苦労しながらも、その周囲をしばらく見渡しますと、そこは校庭よりも少しせまいくらいの平らな台地で、辺り一面は全てタンポポの畑でした。

 天上や周囲の岩から反射せられた光を無数の黄色い花びらが拡散させるからでしょうか、周囲は不思議なまばゆい光に満ち満ちているように感じられます。

「あ、あの……」

「ここはね」と、もったいつけるような視線をふたえに投げかけてから、タンポポの妖精は、後ろ手に空や周りを見つめながらウロウロ歩き、やがてぽつり、

 お墓なのよ、と呟きました。

 遠い昔から、この付近は大国同士の国境で戦争に幾度となく巻き込まれ、数えきれないほどの死者たちがこの台地に葬られている、と言うことでした。

「見てご覧なさい、この台地に咲く、限りないタンポポの海を。私の祖先たちを。彼らは、あなたたち人間の肉を喰らい、血をすすり、骨を砕いて、ここで立派に根付き、色づいたのよ」

 タンポポの妖精は、両手を天に広げながら、くるくるとあざやかなステップを踏みました。ふたえは、ただ胸に手を当てて、黄色い花びらが舞い散るその光景を見つめていました。

「あなたたちの悲しみも、苦しみも、結局は全てどろりと溶けあって、そして、あざやかな黄色の花びらとなって、いつかは真っ白な綿毛になって、数千数万の仲間たちと共に、この広い大空へと……」

 風が、吹きました。ふたえの心の中を、真っ白な無数の綿毛に姿を変えた妖精たちが、通り過ぎていきます。そして、強い風に乗った綿毛の妖精たちがふうっと、天上へ舞昇って行きますと、ふたえの意識もすうっと、遠のいて行きました。


――御来場の皆様、ええ……手短に、と家族も言うものですから、一言だけ……。

 手前みそで大変恐縮ですが、長女ひとえは、昔からいつも明るく前向きな性格でして、昔からタンポポのような、元気で優しい娘でした。まあ、看護師になったのは、きっと必然だったのでしょう。

 彼女が新郎のヤマト君と共に海外医療団に志願すると聞いて、しかし、私は猛烈に反対しました。

 やり過ぎだ、と。家族も放って、お前は、と。

 死ぬぞ、と。死んだら、何も残らないんだぞ、と。

 でもね。みなさん。

 この娘は、行く! と。私には、どうしても見過ごせない。子供たちを死なせたくない、と。

 いやいや、ダメだ、お前の命はどうなるんだ、俺たち家族の気持ちだって考えろ、と言うとですね、こうですよ。

 お父さんは知らないの……あの戦場の片隅で、弱りゆく我が子の身を案じる悲しみにくれた瞳を思うと、もう居ても立っても居られない、自分が行けば、きっと救えるのに、と。


 思わず、ぶちました! 初めてですわ。反論も出来ん、俺は無能や。


 そしたらね、次の日ですよ、次女のふたえがね。いつも昔から無口で達観してる、田舎のボケたお袋の嫌味にも動じない、うちの家族で一番冷静な奴がね、涙さえ浮かべて、私に言うんですよ。


 おねえが助けた人に、会えたら嬉しい。この世界から居なくなるかも知れなかった人が、また、たくさんの命を産むのを、見てみたい。それなら、おねえがたとえ、倒れても……。

 この世界のどこかには、おねえがつないだ証が、きっと、残るから……。


 すみません。皆様、どうか、どうか娘を、褒めてやってください。自慢の娘です、今、彼女はこのように、純白の白無垢を備え、それをふわりと風に舞う綿毛と見立てて、飛び立たんとしているのです。そして、遠く離れた異国で再び根を張って、周囲を明るく照らさんとしておるのです。

 どうか、娘を褒めてやってください。

 自慢の、娘です……。


 本日は、このような晴れの姿で皆様の前に、お目見え出来まして、家族一同、こんなに喜ばしい日はございません。


 皆様、本日はどうも、ありがとうございました。


(了)


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ひとえ、ふたえとタンポポの妖精 入川 夏聞 @jkl94992000

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