序章「千代の過客」③

 門前町からずっと鼻にまとわりついた硫黄の臭いも、境内にたどりつく頃にはすっかり意識から消えていた。

 温泉ゆぜん神社の建立は7世紀ごろと非常に古い。手負いの鹿が湯に浸かり傷を癒していた故事に始まる。

 鳥居をくぐると、立ち並ぶ神木が芭蕉たちを出迎えた。

 高く伸びた神木の枝葉は空を切り取り、境内に落ち着いた影を落とす。

 参道の日差しに慣れた眼には、突然に黒い霧が降ってきたようにも思える。

 耳は音を意識した途端に耳鳴りがするほどの静寂である。

 どんな神社であれ、境内には神域を思わせる工夫があるものだ。今は木々の先の闇すら恐ろしく思えてくる。

 ふと何かに、肌を撫でられたような気がして、芭蕉は一服のりょうを得た。

 石段を登った先で宮司に呼び止められる。芭蕉の参詣を伝え聞いていたそうで、奥の殿へと案内された。なんでも神社に伝わる秘蔵の品を見せてくれるのだという。

 扇の的、は平家物語を代表する名場面のひとつだ。那須の若武者は温泉神社に命中を祈り、見事に扇を射落として武名を残した。

 その与一が神社に納めた500年前の鏑矢かぶらやを曾良と丁重に拝見する。芭蕉にとっては憧れのしなだ。

 芭蕉は生涯を通じて、源平の時代に並々ならぬ思い入れを見せている。現代でいえば歴史オタクと呼ばれる類であろう。

 おそらくきっかけは歌人西行である。西行の残した歌を読み解こうと時代背景を学んでいくうちに、この時代そのものに入れ込んでいったものと思われる。

 朝廷が乱れ、摂関家は失墜し、武家が二分した相克そうこくの平安末期。盛者必衰じょうしゃひっすいの四文字に集約される滅びの美学は、芭蕉の俳句の中にも時折ときおり顔をのぞかせている。

 今より娯楽は遥かに少なく、平家物語や義経記は暗記するほどに読み返せた。果たして芭蕉は何度、この時代を脳裏に思い描いたのだろうか。

 ちなみに、芭蕉の生きる元禄2年西暦1689年は、のちに芭蕉自身も名を連ねる元禄文化が花開いた時期にあたる。

 木版印刷で本が刷られ、講談に歌舞伎に浄瑠璃にと大衆演劇が体系づけられていく一方で、その演目の花形と言える軍記物語は、いまだ室町時代までに書かれたものが主流であった。

 戦国時代の戦乱が物語として語られるようになるのは江戸時代も後期に差し掛かってからのことである。

 直近の戦乱は戦禍の傷跡も生々しく、口に出すのもはばかられる。血の記憶が胸を打つ叙情詩に生まれ変わるには数百年という忘却のフィルターを通す必要がある。

 これは今も昔も変わらない。

 忘却の500年に想いを馳せて、芭蕉は拝殿はいでんへと向かった。

 なんでも、那須の温泉神社は京の石清水八幡宮と相殿あいどのとのことである。

「相殿、とはなんだろうか」

 手水舎で身を清めながら曾良に聞いてみる。

「ここで拝むは石清水八幡宮で拝むに等しい、ということでござるな」

「ふむ…… 八幡さまなら先日拝んだばかりぞ」

 八幡さまはどこにでもおられますからな、と曾良は笑った。

 なにかと記録の少ない曾良だが、寺社に精通した人物であったことは知られている。親族の住職に育てられ、江戸では吉川神道を修めた。

 この時代の寺社は神仏習合と言って、神道が仏教と融合した形態を取っている。道徳は人が持つ自明の理として教義を持たなかった神道と、教義を人が生涯かけて学ぶ学問として昇華した仏教。神道の至らなかった部分を仏教が補う形で、日本には独自の宗教文化が生まれた。

 異国の宗教行事を節操なく楽しむ現代日本人にも、その片鱗は垣間見かいまみえるだろう。

 ともあれ、この時代の寺と神社の境目は曖昧であり、その道を志す者には双方の知識が求められた。

 ちなみに、芭蕉は那須での滞在中、那須の八幡神社にも参詣へ赴いている。

 源氏が武家の神として祀った八幡は、農業の神である稲荷と並んで、神社の中でも群を抜いて数が多い。

 古来の伝承によく顔を出すのも八幡と稲荷である。地名としても日本各地にその名を残す。

「何処にでもおられる。それ故に歪みも生じるわけですが」

 曾良が思わせぶりに口を開く。

「……なにごとかね」

「いえ、まずは参拝をば」

 二礼二拍手一礼、湯で繋がる岩清水に道中の無事を祈り境内を後にする。

 境内の右手から殺生石へと小道が続く。那須岳の裾野を見渡せる緩やかな下り坂だ。

 眼下に広がる景色に思わず二人で息を飲む。

「なにやら浮世絵に見た地獄のようで」

「ふむ…… これが九尾狐の怨嗟えんさの毒か」

 山をおおう緑に、その谷間だけが荒凉とした穴を空ける。間欠泉から噴き出した湯気が霧のように漂い、露出した岩肌を黒く湿らせる。

 忘れていた硫黄の臭いが、再び鼻を突く。

 那須に伝わる殺生石の伝説とはこうだ。

 これもまた平安末期。時の為政者、鳥羽上皇はある姫に寵愛を施す。絶世の美女と呼ばれたその姫の名は、玉藻前たまものまえと言った。

 しかし姫を側に置いて以降、鳥羽上皇は日に日に衰弱し、ついには食事も喉を通らなくなってしまう。怪しんだ家臣団は、姫の正体が人にあだなす妖怪、九尾の狐であることをついに突き止めた。

 京を追われた玉藻前は東へ東へと落ち延びていったが、ついにこの那須の地で追手に掴まり、死闘の末に討ち取られた。

 ところが、玉藻前は死しても石となり、怨嗟の毒をまき散らす。近寄る者が命を落とすその石は殺生石と名付けられた。

 一方、朝廷では衰弱した鳥羽上皇がそのまま崩御。権力争いは混迷を極めた。すでに権勢を失った摂関藤原家に乱を沈める力はなく、源氏と平家の武力介入をもって、時代は血で血を洗う骨肉の争いへと突入していく。

「500年経っても毒は枯れぬようだ」

「今日は東風こちも吹き、風下に立たねば近寄ってもよいと宮司はおっしゃっておりましたが」

「せっかくだ。拝んで高久の宿に戻ろうぞ」

「温泉に寄るのもお忘れなく」

「そうであったな」

 芭蕉と曾良は殺生石に続く小道をゆっくりと歩いた。やや日も傾いて登りの頃の辛さはない。

「で、……八幡さまがどうかしたかね」

「……宗匠は定府殿の寺社改めはご存知で」

 なんだまた光圀さまか、と芭蕉はため息まじりに漏らした。

「耳に挟む程度にはな。寺社潰しとも揶揄やゆされておるようだが」

 水戸藩は光圀が藩主になって以降、段階的に領内の寺社を審議し、その半数近くを破却に処している。

 これには光圀の様々な思惑が絡んでいたようだが、少なくとも権威を悪用して私腹を肥やしていた寺社は、残らず処罰の対象となった。

 光圀が寺社勢力を腐敗の温床とみなしていたことは間違いないだろう。

 水戸藩の方針には会津藩現在の福島県など他の徳川親藩も同調し、幕府は寺社を監視する動きを強めていた。

「どれほど徳を積んでも人は人、であれば権力の元に必ず歪みは生じます」

「まあ…… 中には不埒ふらちをはたらく寺社もある、よな当然」

「残念ながら」

「ふむ……」

 江戸幕府はキリシタンの取り締まりを強化するため、寺社勢力に寺請てらうけ制の権限を与えた。これは庶民を檀家として強制的に寺社へ帰属させるものであったが、制度を悪用し、檀家に多額の布施を強いらせる寺社もあったという。

「大名は土地の分しか肥えませぬが、信仰に国境くにざかいはござらぬ」

「檀家を諸国に抱えればあるいは大名をも凌ぐ、か」

 いかにも、と曾良はうなずく。

「拙者は定府殿から8年前より、内密に諸国の寺社を巡検する役目を仰せつかりました」

「公儀の隠密、河合曾良の話か」

 曾良が今まで黙っていた身の上を語り始める。芭蕉は黙って耳を傾けた。

 曾良は信濃国現在の長野県に生まれた。しかし両親は幼少のころに、続く養父母も12歳のころに流行り病でことごとく亡くしたという。

 親戚をたらい回しになって伊勢国現在の三重県の住職に引き取られた曾良は、そこで両親たちの魂を弔いながら少年時代を過ごした。

 曾良が寺社への造詣ぞうけいを深めたのも、その生い立ちを考えれば至極当然だったと言えるだろう。

「せめて立派な武士となり、亡き両親たちに報いようと、ひたすら修行に明け暮れておりました」

「それは殊勝しゅしょうなこと」

「その甲斐かいあって、19歳の頃に伊勢の長島藩にお仕えすることとなったのですが」

「伊勢長島、か……」

 伊勢長島とは、伊勢国と尾張国現在の愛知県西の国境一帯。かの覇王織田おだ信長のぶながが本願寺信徒の一揆衆と元亀元年西暦1570年より4年に渡って3度の合戦を繰り広げた、世に言う長島一向一揆があった場所である。

 信長はこの地でおよそ2万人の一揆衆を虐殺したと伝わる。しかしその多くは周辺から集まった、ただの農民たちに過ぎなかった。

 それから100年。先祖を無残に殺された恨みはいまだ根深く、長島に暗い影を落としていた。

 一揆とは言わば権力への反抗。織田から徳川に替わろうとも矛先は常に時の統治者に向かう。まして伊勢国とは古来より伊勢神宮を擁する信仰深き地。

 折しも幕府が寺社への圧力を強めた最中さなか、長島を任された徳川親藩、久松松平家は難しい舵取りを迫られていた。

 そんな伊勢長島で若き曾良は精力的に職務に励んだ。知識を買われて役方やくがたは寺社奉行のお付きとなる。

 だが曾良が目にしたのは、取り締まる側の奉行が寺社に金で懐柔されている現実だった。

「寺社からのそでの下は黙ってふところに収めよ。最初に奉行から教わったのはそんな話でした」

「まあ…… わからんでもない話」

 誰しも面倒な相手との揉め事は避けたいもの。まして避けて懐まで潤うなら誰が事を荒立てるものか。世に賄賂わいろの類が無くならぬはずである。

「だが生真面目な曾良はそれを良しとしなかったのであろう」

 さすがによくおわかりで、と曾良は照れくさそうに笑った。

「……寺社にも奉行にも睨まれ、気がつけばろくの増えぬまま30の侍となっておりました」

 一方そのころ、寺社改革を推し進めていた光圀も、寺社とそれを取り締まる寺社奉行の癒着に頭を悩ませていた。

 その監視に諸国の草を動かそうにも、寺社に関して草は決して動こうとはしなかった。

 多くの草は、潜入の際にその身元を隠蔽するべく、菩提寺ぼだいじを司る土地の寺社への協力を仰いでいる。寺社を裏切れば自身も、仲間たちの身も危険に晒すこととなるのだ。

 業を煮やした光圀は、諸国の寺社を監視するための、新たな隠密の組織化を決意する。

 天和元年西暦1681年、光圀は徳川親藩の藩士から寺社取り締まりにあたう人物を江戸に呼ぶよう、各藩主達に秘密裏の通達を出す。その中に選ばれた1人が曾良であった。

「努力が認められたのではないか」

「どうでござろうか…… 厄介者をていよく江戸に追い払ったようにも思えますが」

「ふむ……」

「しかし、そのおかげで拙者は宗匠の弟子となることができました」

 徳川の天下、庶民の旅行が一般化した江戸時代においても、地方に置かれた外様大名の領内は半ば独立国のままである。その往来には厳しい審査と許可証が求められた。いわゆる通行手形と呼ばれるものだ。

 隠密はこの手形の審査が緩いとされる職業、山伏やまぶし虚無僧こむそうといった修行僧に扮することが常である。しかし曾良は江戸を沸かせていた新進気鋭の俳諧師、松尾芭蕉の弟子を仮の姿とした。

 僧をかたるのは己の信心が許さなかった。その程度の理由だったと曾良は語る。

「俳諧など所詮しょせんは言葉遊びの範疇はんちゅう。楽に務まるだろうと、あなどった気持ちもあったことは否めません」

「今はどうかね」

 芭蕉がニヤリとして意地悪く尋ねる。

「今は只々ただただ、恥じ入るばかり」

 曾良はピシャリと自分の顔を叩いた。

「長島にも那須に劣らぬ景色はあったはずなのです。だのに拙者の中にある故郷の景色はなんと味気ないものか」

 曾良は俳諧を学び、初めてこの世の美しさに思いが至ったのだと言う。

 芭蕉が俳句で織りなす風雅に触れるほど、目に見える景色は色を増し、世界は姿を変えていった。

 親を想い、誇り高く生きてきたはずの自分が、なんとちっぽけな世界に甘んじていたのか。

 曾良の心に湧き上がったのは、この世に産んでくれた親への真の感謝だった。上っ面で生きてきたおのが半生を恥じた。

「野に咲く花の美しさも知らず、心を閉ざしておったのです。なんとつまらぬ……」

 手で顔を覆ったまま曾良は声を詰まらせた。

「そうだな曾良…… お主の詠む俳諧は糞つまらん」

 言葉とは裏腹に芭蕉の声色は優しかった。

「これが拙者のすべてにござる。願わくば以後も宗匠の元で風雅ふうがの真髄を学びたく」

 ひざまずこうとする曾良の肩を芭蕉は掴む。

「伊勢には何度も足を運んだが、話を聞いてまた見に行きたくなったわ。その時は案内せい」

「はい!」

 曾良は赤くなった目を袖で拭い笑顔で答えた。

 芭蕉にとって心を育まんとする曾良は紛れもなく弟子であり、過去の自分の姿であった。

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