序章「千代の過客」②
「
「奥州もかね」
「無論」
芭蕉と曾良は徒歩で温泉神社に続く参道に入った。宿にしている高久の
「ならば、わざわざ江戸から隠密を送っても得る物など無いであろう」
「たしかに、草が得られぬ物を
「ふーむ……」
草とは忍者の隠語で、主に敵国に潜伏して情報収集や調略を行う者を指す。草はその土地に馴染むために場合によっては数十年、親子数代に渡って潜伏し続けることもあるという。
先ほどの手鏡の母娘もそういった手合いなのだろう。
「また、はぐらかすつもりではなかろうな」
「いえ、全てお話
山の中腹に神社の鳥居が顔を出す。山の傾斜はゆるやかに見えたが、中天の日光が容赦なく二人に降り注ぐ。
「飲んだ茶がもう汗に変わるようだわ」
「神社につけば
澄ました顔で答える曾良は、いつもの見慣れた姿である。観念して吹っ切れたようにも見える。
「ふむ…… ではワシから聞こう。お主は先ほど
「……やはり気になりますか」
「当然よ。事と次第では命に関わる」
黒脛巾組、とは戦国大名
芭蕉が旅の目的地とする奥州平泉は
「ワシを公儀の隠密に見せかける、それが定府殿の
「ご
曾良は眉ひとつ動かさずに即座に答えた。
芭蕉は足を止めると杖でコンコンと地面を2度叩く。
曾良は片膝を地に着けて芭蕉に
「ワシを
「おおよそは、ご明察通りに」
まるで
曾良は声も出さず微動だにもしない。
「金子の代償が命とは悪ふざけが過ぎるではないか」
「いえ、恐れながら…… 宗匠の身に危険はないものと存じます」
曾良はしっかりと芭蕉を見据えて口を開く。その場しのぎの言い逃れのような感はない。
「なぜそうと言い切れる」
「定府殿と伊達とは共謀の関係にござる」
「……は?」
「ことはすべて宗匠の知らぬところで始まり、終わる手筈になっておりました」
呆気にとられてポカンとした芭蕉であったが、咳払いをひとつ、平静を装う。
「……まぎらわしい言い方をしおって」
曾良に立つように促すと、膝の土を払ってやった。
「伊達まで抱き込んで定府殿はいったい誰を
「伊達であって伊達でなき者たちにござる」
「ふむ…… 奥州
戦国末期、子宝に恵まれなかった田村家は伊達政宗に一人娘の
その後、
「
「政宗公の庶子が
「一関はその首謀者、伊達
「追放された兵部の代わりに田村が一関を治めたというわけか」
「いかにも」
芭蕉と曾良は再び湯泉神社を目指して歩を進める。重苦しい空気は晴れて足取りも軽い。
「その
「ほう…… なんだね」
「伊達兵部を野心に駆り立てた、
芭蕉は考える間も置かず、一笑に付した。
「
光圀は
「やはり笑われますか」
「まあ、定府殿が好みそうな話。だが…… 田村は伊達の支藩であろう。わざわざ手の込んだことをする必要もあるまい」
「田村家当主の
この当時、田村宗永は将軍徳川
ちなみに綱吉の宗永への寵愛を今に伝える物のひとつに時太鼓がある。当時、徳川御三家のみに許された城下町に時刻を知らせる太鼓の使用を、一関藩は特例で許されていた。参勤交代で一関を通過した
「また、かつて政宗公が愛姫の護衛にあたらせていた黒脛巾の一派が、今や騒速衆を名乗って田村の忍となり、黒脛巾と
伊達政宗の正室であった愛姫は、その生涯の大半を人質として、奥州から遠く離れた京都や江戸で過ごした。その側に仕えた忍達も長い年月を経て、伊達家ではなく愛姫の、ひいては田村家の忍へと変貌していったのだろう。
「かくして一関の名の
我ながら上手いことを言ったわと
「おい、やはりそのような物騒な地に、濡れ衣を着せたワシを放り込もうとしているのではないか!」
曾良は苦笑いを浮かべながら首を振って否定した。
「黒脛巾が動いたということは、事はもうすでに成った、ということでござる」
「ふむ?」
「伊達が欲しかったのは奥州に迫る公儀隠密の報。田村につけ入る口実」
曾良が言うには、黒脛巾は「将軍と
騒速衆が大人しく従えばよし。逆らえば
「しかし宗匠はただの俳諧師。あとは誤報を信じた黒脛巾のひとり相撲として内密に処理され、事は終息いたします」
面倒な騒速衆さえ
「……血が流れるのではないかね」
「関与せずとも元より伊達の内紛。遅かれ早かれ起こっていたことで、宗匠が気に病むことではないかと」
悪びれずに淡々と答える曾良が、芭蕉には少々
「そこまでして…… 藤原の黄金と言ったか、あれば良いがな」
「ええ…… ことの起こりは7年前、水戸屋敷に忍び込んだ──」
芭蕉はよいよい、とパタパタ手を振って曾良の話を
「どうせ与太話の
「いや、真偽はともかく与太話などでは──」
「詰まるところ、だ」
食い下がる曾良にピシャリと言い放つ。
「昨日のワシも明日のワシもなにも変わらん、そういうことだな」
「そうなりますな」
二人は最後に高笑いで締めた。
「……だが定府殿には文句のひとつも言わねば気が済まん。江戸に戻ったらお目通り叶うものだろうか」
「
光圀の
「ワシはそんなに怪しく見えるものかね」
「江戸で高名な伊賀生まれの俳諧師。誰もが怪しむ隠密の
「ふむ…… そうかもしれんな」
今では那須での長期滞在を強要されたことも、土地の名士がこぞって宿に押しかけたことも、すべて合点がいく。奥州に伝聞を飛ばすために曾良が仕組んでいたのだろう。
見れば温泉神社の鳥居は目前に迫っていた。
話に気を取られて景色を楽しむことをすっかり忘れていた自分に気がつく。いかんいかんと呟いて芭蕉は後背の景色を振り返った。
日に照らされた那須の緑が酔いしれるほど鮮やかに見えた。俯瞰に見る門前町にも風情がある。
ああ、と曾良も感嘆の声をもらす。
「この景色もここでしか味わえぬもの。
はいと答えた曾良だったが、そんな余韻に
「失礼ながら、宗匠はなぜ俳諧師に?」
弟子としての素朴な疑問が口に出る。
「ワシは生来、何をやってもうだつの上がらない人間であったが、良き友と良き師に巡り合って心だけは磨くことができた」
「四季を愛でる
曾良がしおらしく芭蕉の普段の口癖を引用してみせる。
「うん…… その心だけは
過去を想うと早逝した友の姿が虚空に浮かぶ。
「伊賀を捨てたワシには偽の隠密が関の山よ、なあ
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