#3 祝え、呪え Ⅴ

 誰かを想うことは、時に祝福に、時に呪いになる。

 今こうして窓辺の雪を眺めている間にも、祝福のろいは形になりつつあった。

「――フィーリクス、あと二週間はしっかり休んで。魔法も使わないで。ほら、そんなところに居たら冷えてしまうわ」

 妻のキエロは俺の目を手で覆う。目敏い。思わず唸ると、彼女は眉をひそめた。

「左目、ばれないつもりだったのかしら? フィーリクスが思っているよりも金色になっているのよ」

「これ以上出力を絞ったら、いよいよ何も見えないぞ」

「不便でしょうけど我慢してちょうだい。せっかちなんだから」

 キエロはリビングのカーテンを全部閉めて、最後に俺の鼻を指で弾く。

「分かった分かった、病人はベッドに戻るよ。風邪っ引きはリリャだけで充分だ」

「そうしてちょうだい」

 言われた通り魔法を使うのをやめると、景色は暗く曖昧な色になった。かろうじて見えるとはいえ、右目も頼りにならない。足で床を探りだした俺を見て、キエロはぐいと腕を掴んできた。そのままベッドへ連行される。気は進まないが、キエロ相手に文句は言えない。

「ホットミルク。体を温めると魔素のめぐりが良くなると聞いたわ」

「ありがとう。手間をかける」

 彼女は「ちゃんと寝るのよ」と凄んで、娘の部屋へ向かった。


 寝室は、窓からの眺めが悪くてかなわない。

 目が――魔法が使えなければ仕事はできないし、もちろん読書も出来ない。娯楽のほとんどは、キエロに取り上げられてしまった。ここ二週間は、延々とラジオを聞き続けるだけの生活を強いられている。

 フォークソングの寂しく陽気な音色に耳を傾け、手渡されたミルクを舐める。砂糖が入っていて、咽そうなほど甘い。

 ――アルマスと戦ってから二週間。

 あの日、アルマスは俺を散々に打ち負かした。おかげで俺の魔力回路はぼろぼろになり、医者からは「魔法を使わずに家で寝ていろ」と言われた。無理もない。素手で魔法を乱発するなんて、人間がやることではないのだ。むしろ生きているのが奇跡といえる。

 だが、今回に限っては単なる必然。俺が無事なのは、アルマスが手加減したからだ。

「フィーリクスが降参して一ヶ月大人しくしていてくれるなら、僕はそれでも構わないけれど」

 彼はそう言っていた。無論、俺が邪魔をしないはずがない。だからアルマスは、一ヶ月ほど魔法を使えないよう俺を消耗させた。魔法犯罪を調査して新聞記事にするくらいだ、上手いやり方を知っていてもおかしくはない。

「まったく、お前ってやつは周到な男だな」

 ラジオは時報を鳴らした後、ニュースを読み上げていく。アルマス・ヴァルコイネンは事件のあと失踪。大量に証拠が残っているにも関わらず、足取りが掴めないという。障壁は今も構築され続けているので、街の中に潜伏していることは確かだ。しかし、術式の記述者を辿る魔法はまともに使えず、障壁を無効化することも不可能。警察はいいように踊らされているようだ。おおかた、呪術で攪乱かくらんされたとか、事件の調査を手伝わせたときに小細工をされたとかだろう。

「間違えたのはアルマスだけじゃなくて、俺たち全員だったのかもしれないな」

 アルマスはこのルミサタマを守るため行動したに過ぎない。彼が最優先したのは、確実に障壁を完成させる――その一点のみだ。自分の社会的地位も他人の命も顧みず、姉と、姉が大切に思っている人々を守ろうとしている。

 俺たちが思い違いをしなければ、アルマスは人殺しをしなかったかもしれない。キエロがドラゴンになった弟を受け容れていれば、俺がアルマスの話を真正面から受け止めていれば、アルマスはあんなに苦しまずに済んだのかもしれない。

 いや、違う。

 どんなに追い詰められていたとしても、やっていいことと悪いことはある。取り返しがつかなくなる前に、相談するなり諦めるなりすればよかったのだ。

 ラジオも、冷たい声でアルマスを非難している。

「――街を救った英雄は、もはや英雄ではありません」

 最大限の警戒を、とニュースキャスターは締めくくった。

 アルマスは、英雄などと呼べるような、綺麗な人間ではなくなってしまった。密かに憧れていた親友はもうどこにもいないのだ。

 淡い銀色の三角形に焦点を合わせる。左目が熱を帯び、艶のある窓枠と隣の家の屋根が見えるようになっていった。隙間から覗く空には、輝く描線が躍る。

「圧巻だな」

 障壁は、空に雪の結晶のような模様を描いていく。光の導線は着々と編み上げられていた。

 指でなぞりながら解読する。無駄なく緻密に組み上げられた陣は、その願いこうぞうさえも美しかった。

「気象現象から魔素を抽出して……蓄え――っ」

 途端に痛みが走る。魔素を使いすぎたらしい。左目の視界がぼやけ、胃をねじ切るような痛みが襲う。後遺症はかなり回復したと思っていたが、まだ普段通りとはいかないようだ。

「この程度の不調で音を上げるなんて、俺も衰えたな」

 もう一度、左目に魔力を注ぐ。俺にのみ許された景色が、深い霧を割いて広がる。障壁の描く幾何学模様は、一層明るく輝いた。

 やはり、怪しいところは何一つない。

 術式は強力な障壁を構築し、街が壊されたときには復元を行う。余分な機能はない。アルマスはただこの街を守りたい一心で、今も魔術を紡いでいるのだ。

 思わずため息が漏れる。心のどこかで、アルマスには真正な悪役でいてほしいと願っていたのだ。それがすっかり打ち砕かれてしまった。彼が残酷な行為に及んでいたとしても、障壁はこの街を守るためのもの。アルマス以外の誰にも成し得ない偉業だ。

 果たして止めるべきか。それとも、このまま見逃してしまおうか。アルマスに太刀打ちできるのは、今この街では俺しかいない。いや、先の戦争でのことを考えると、この国でアルマスに敵うのは、俺くらいかもしれない。俺が協力しなければアルマスは捕まらず、やがて事件は時効を迎えるだろう。

 障壁が完成する。

 俺とアルマスは戦わずに済む。

 そうだ。何もしなければ、全ては穏便に片付く。俺は、警官でもなければ軍人でもない。事態を引っ掻き回す必要などないのだ。

 もう空を眺める理由はなくなった。魔力を断ち、ベッドに寝転がる。何も見えなくなってしまったが、胸痛が和らいで楽になった。

 コンコン、と、ドアを叩く声が響く。

「どうぞ」

「おとうさん」

 リリャだ。彼女は、控えめに「入っていい?」と問いかけた。

「入っておいで。廊下は寒いだろう」

 ドアの蝶番が軋む音と、布を引きずる音が聞こえてくる。リリャは返事がわりに鼻をすすった。

「リリャ、体の調子は良くなったか?」

「うん。ねつ下がったよ。あしたから学校にいく」

 彼女は俺のいるベッドによじ登ると、手に持った布――ブランケットを被って向かい合った。手探りでリリャの頭を撫でる。二日前はひどく熱かったが、今は問題なさそうだ。咳もしていない。

「それは良かった。お父さんも早く会社に行けるようにしないとな」

 リリャのぼやけた影が迫ってきて、小さな手が頬に触れる。

「じゃあ、まほうをつかってたら、おとうさんのことおこるね。おかあさんが言ってたから」

「怖い怖い。リリャに怒られないようにしないと」

 彼女はしばらく静止すると、「いまはまほうつかってないね」と呟いた。確認作業が終わったのか、今度は全身を預けるように抱き着いてくる。

「……ねえ、おとうさん。おかあさんの言うこと、ちゃんときいてあげて」

「どうしたんだ、急に」

 うん、とリリャは相槌を打つ。

「おかあさん、ないてた」

 その言葉で血の気が引く。アルマスに負かされて病院に運ばれてから、キエロは一度も涙を流さなかった。俺からアルマスの様子を聞いても、返事は「分かった」の一言だけだ。キエロが気丈に振舞っていることは百も承知だが、まさか俺に隠れて涙しているとは思わなかった。キエロにとって、俺は頼りがいのない夫なのかもしれない。

「それで、お母さんは何て?」

 恐る恐るリリャに尋ねる。

「アルマスはわるいことをしちゃったんだね、って」

「……そうか」

 当たり前だ。俺の前で明るく振舞えるくらい強いキエロが、リリャの前で本心をさらけ出すはずがない。ましてや、弟が事件を起こしたことへの泣き言など、子どもに言えるわけがない。一瞬でも「リリャから聞き出せるかもしれない」と考えてしまった自分に、ひどく情けなくなる。

 すると、リリャは俺の頬を思いきりつねる。子どもの握力とはいえ充分痛い。

「痛い痛い、どうした、どうしたんだリリャ」

「おしえない」

 リリャは聡い。目の前にいる父親は、よほど沈んだ表情をしていたのだろう。

「頼む、離してくれ! 頬っぺたが取れてしまうよ」

「じゃあやめる」

 ぱっと手を離し、リリャはまた抱き着いてくる。

「リリャはおかあさんと同じようなことをするんだな」

 彼女は、首元に顔をうずめたまま首肯する。

「わたしね、学校のかえりみちでいじわるされてたとき、アルマスに言われたの。おぼえておいて、って」

 リリャがまた鼻をすする。心なしか声は上ずっていた。

「どんなにこまっても、くるしくても、わるいことはしちゃだめだよ。リリャはわるものになったらダメだ、って。わるいことをしている人がいたら、とめなきゃだめだよ、って」

「その通りだ。……本当に、その通りだよ」

 アルマスの言葉が、揺らいでいた決意を踏み固めていく。

「親友、お前の望みは何だ?」


  

 ***


 その日の晩はひどく静かだった。リリャを寝かしつけたあと、キエロに手を引かれて寝室へ戻る。

 静寂を打ち破るのは、勇気が要った。だが、告げるなら今しかない。

「――キエロ。話したいことがある」

「私もよ」

 キエロは、ベッドの上で寝返りを打ってこちらを向く。彼女は何も言わず、わずかに反射する蒼い瞳で俺を見つめていた。これまでも、こうしてずっと待ってくれていたのだろう。

「フィーリクス。一つだけ聞かせて。アルマスの作っている障壁は、危ないものなの?」

 キエロは尋ねる。押し殺したような声だ。弟のやったことに対して、彼女は俺よりも遥かに重い責任を感じている。

「いいや、危ないものではない。どころか、一つの欠点もない素晴らしい術式だ」

「そう……」

 キエロも迷っているのだろう。アルマスを放っておいても、恐らくこれ以上の被害が出ることはない。たとえどんな事件を起こしても、彼女は弟のことを心から信頼しているのだ。それに、俺もキエロも、アルマスを追い詰めてしまったことへの負い目がある。

 だからこそ――

「俺は、アルマスを止めようと思う」

「やっぱり、戦うのね」

 キエロはため息を吐いて、首を横に振る。

「……こんなときにまで我が儘を言いたくなるなんて、私は駄目ね」

「キエロはどうしたい。我が儘でも何でも言えばいい」

 彼女の吐息が震える。今にも泣きだしそうな声で、しかし毅然と、キエロは願った。

「アルマスとフィーリクス、二人には無事でいてほしい」

「相変わらずの無理難題だな。流石は俺の妻だ」

「だから尋ねてほしくなかったのよ。フィーリクスに無理を強いることしかできないから」

 俺が茶化すと、キエロはむくれて目を逸らす。

「惚れた女の頼みも聞けないような夫じゃないさ。……それに俺も同意見だ」

 ずっと考えていた。アルマスを仕留めれば全てが終わる。けれどあまりにも短絡的だ。社会への責任は果たせるのかもしれないが、アルマスへの償いにはならない。別のやり方で、アルマスを止めなくてはならない。

「俺に考えがある。アルマスは人を殺めたが、同時に多くの人を救おうともしている。あいつを丸っきり否定するようなことはしたくない。だからせめて、あいつが安心して居られる場所を作ってやりたいんだ」

「でも、どうやって? 警察に逮捕されれば、極刑は免れないわ」

「結界を張る」

 人がいない場所を選んで、アルマスを幽閉する結界を張る。試したことはない。成功するかも怪しい。途中で俺の魔力が尽きるかも分からない。アルマスが受け入れてくれる保証もない。だが、他に道はない。

「結界の中には誰も立ち入ることが出来ない。結界から出ることもできない。アルマスを守るための『聖域』だ」

「できるの?」

「さあ、どうだろうな。でも俺はやる。君の弟を、俺の親友を守るための、最後のチャンスだ」

 キエロは俺の手を握り、ゆっくり頷いた。

「俺を信じてくれ。アルマスは必ず助ける」


  

 ***


 極夜に沈む昼の街。本格的に冬が始まり、雪が厚く降り積もる。ルミサタマのこの時期は、去年までは寂しい季節だった。今年は随分と様相が違う。

 庭から空を眺める。レース編みされた光が、薄明かりの中で街を覆っている。六角形の幾何学模様が連なってできた、美しい術式だ。

「障壁もいよいよ完成間近か」

 ガレージの前で、退役するときに拝借したライフルKar98kを組み立てる。

 終戦後――半ば逃げるように祖国を出たとき、護身用に取っておいたものだ。まさか今になって、銃を使うことになるとは思ってもみなかった。無造作に亜空間へ投げ入れて数年。平和な日々の中で戦争の遺物を確認する必要はなく、つい最近まで存在を忘れていたほどだ。幸い、錆や破損はない。

 空間の切れ目には銃剣もスコープもあったが、俺の魔法とは相性が良くない。代わりに、コンバットナイフを六本取り出す。銃弾のカートリッジは三つ。十五発分だ。

 身支度の最中も、街の中心から轟音が響き、白煙が上がる。次いで、不自然な雷光が教会の塔に刺さった。遅れて爆音が届く。

「フィーリクス。あれはアルマスの魔法よね」

 キエロが、心配した様子で隣にしゃがむ。

「ああ、間違いない」

 両腕に銀色のブレスレットを付け、手袋の中に仕舞う。魔法の効率を上げる道具だ。アルマスに貰ったものが、アルマスへの最大の対抗手段になるとは――とんでもない皮肉だ。

 キエロは辛そうな表情で俺の手首を眺め、すぐに微笑んでみせた。再会の約束を込めて、数秒、口づけをする。

「信じているわ」

 キエロは俺を引き留めない。俺も振り返るつもりはない。呪いじみた願いを抱え続けるのは、今日でおしまいだ。


「行ってくるよ。街を守り、アルマスを守る。最初で最後の聖戦だ」

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拝啓スノードロップ 梨乃実 @Nashinomi

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