#2 巷説 Ⅴ
ボタンを掛け違えたことに気づくのは、いつだって終盤だ。「自分は失敗しない」と信じてやまない愚かさが、取り返しのつかない結末を招くのだろう。
私が家に帰ると、フィーリクスは庭で
「ただいまフィーリクス。今日は早いのね」
「キエロ。ああ、何と言えばいいか……今日は無理を言って切り上げてきたんだ」
それみたことか。彼は難しい顔をしてボンネットを閉める。陽気のいい秋空が台無しだ。私の嘆息に目を泳がせたって、逃がしてやる道理はない。仕事を途中で放り出してくるような相談事なら、聞いた方がまだ私のためになる。
浮気だろうか、それとも仕事の失敗だろうか――フィーリクスはどちらもしそうにない。
「アルマスのことを、改めて考えたんだ」
アルマスのこと。
中へ入ろう、そう促されて我に返る。軋む床板が私の心境を代弁しているみたいだ。
「俺は、アルマスの居場所を残してやりたい」
私がずっと我慢してきた結論を、彼はぽつり、と呟く。騒いで突っぱねるわけにもいかない。気は進まないけれど向き合って座った。フィーリクスは腕組みをして口を塞いでいる。
二分ほどが過ぎたころ、彼は静かに語りだした。
「俺の実家に、アルマスを連れて移り住まないか?
アルマスを連れてルミサタマを出る。この故郷の街を守る手段としては最善だ。けれどアルマスと一緒に移り住むのでは、フィーリクスのこともリリャのことも守れない。私の父と母を奪い去ったドラゴンのように、平気な顔で唐突に暴れ出すかもしれない。弟のアルマスとてドラゴン。例外はないのだ。
フィーリクスは低く抑えた声で続ける。
「考えていたんだ。キエロがアルマスを拒絶する理由を。アルマスが出ていくのを待ちたくないんだろう? 過去を考えれば仕方のないことだ。けれどそれは、俺や軍の力を――何よりアルマスを信じていないのと同義だ」
「信じているから、出ていくまで何も言わないことにしたわよ。私だって弟のことは心配だもの」
本音を言うと、フィーリクスの実力も軍の力もあまり評価していない。フィーリクスが自分の実力に誇りを持っていて、私に信じてもらいたいのは分かる。けれど私が一番だと確信しているのは、いつだって弟のアルマスだ。
弟は強い。二人の実力、どちらが上かと問われれば――私は間違いなくアルマスと答える。
弟は人間だった時から卓越した魔法の才を持っていた。本で沢山勉強していたし、魔法で何度も困りごとを解決してくれた。私は呪術を教えてもらったし、フィーリクスが空間を操る魔法を習得できたのも、アルマスが手助けをしたからだ。そんな弟がドラゴンになった。いくらフィーリクスが強くても敵うはずがない。二人と長く一緒に過ごしてきたからこそ、二人の間にある差を強く感じる。
「アルマスのことを一番に信じているからこそ、フィーリクスがすべてを解決できるなんて思えない。だからアルマスには早いうちに遠くへ行ってほしいの。何度も言っているでしょう?」
「俺はその考えが浅いと言いたいんだ」
浅いだなんて酷い台詞だ。フィーリクスは俯いて溜息をもらす。
「誘導的に尋ねたのはすまなかった。俺もキエロの見解と一緒だ。死力を尽くして戦っても、全力のアルマスには敵わない。分かっている。だが、その『危険かもしれない弟』を追い出してしまったら、どこかの誰かが苦しむことになるかもしれない」
「じゃあどうすればいいのよ!」
ルミサタマを追い出せば、別の地域でアルマスが暴れるかもしれない。私たち姉弟の経験した悲劇が、誰かのもとで再生産される。家族を失って路頭に迷うなんて、そんなのは駄目だ。それは私も理解している。けれどフィーリクスの考えを支持する気にもなれない。
「アルマスも連れて、俺の実家に帰るしかない」
フィーリクスは静かに告げる。この話題を切り出された時から分かっていた。彼は悩み抜き、決断したのだ。
「お願いフィーリクス、そんな顔で言わないで」
彼は、激戦地へ征くときに見せたのと同じ表情をしている。最悪の事態に陥ったとき何が起きるのか、彼は理解しているに違いない。
「私はフィーリクスを失いたくない。だって……だってその案は、フィーリクスにも危険が及ぶ。もう二度と、貴方に置いて行かれるなんて嫌」
「キエロを置いていなくなるつもりなど毛頭ない。アルマスを連れて帰国するとなれば、軍に――連邦に話を通す必要がある。ドラゴンは貴重な戦力として迎え入れられるだろう。仮にアルマスが堕ちたとしても、この国にいるより大人数で抑え込める」
「ほら、結局フィーリクスも戦おうとするんでしょう?」
彼は眉間にしわを寄せて唸る。私の気持ちを理解しているからこそ、言葉選びに苦心しているのだ。
「もちろん……俺も戦うさ。いくら軍といえど、アルマスに匹敵するドラゴンが都合よく所属しているとは限らない。援護をする必要がある」
「賛成できないわ」
フィーリクスの考えの方が賢い案なのだろう。けれど、いま天秤の片側に乗っているのは、紛れもなくフィーリクス自身の命なのだ。暗に『割り切れ』と言うのはあまりにも残酷だ。
私の頑固さに彼は語気を強める。ずっと押し込めてきた感情を曝け出すみたいに、拳を握りしめた。
「俺はアルマスのことを見捨てられない。あいつは大切な親友なんだ。友情も責任も放り投げて、『お前がどこかに行けば自分たちは安全だから』なんて……そんな雑な扱いはしたくない」
「でも、アルマスは普通の人よりずっと頑丈よ。もしかしたら離れたあとも会えるかもしれない。けれどフィーリクスは違う。貴方は強いけれど、ただの人間なの。貴方が無事でいるのが最優先」
「なら、何かにつけて後悔したまま過ごせっていうのか? 俺は嫌だ」
ドラゴンとの戦闘経験が豊富だ、軍に助けてもらえるといっても――皆アルマスに敵いっこない。私がフィーリクスの意見を認めてしまったら、フィーリクスの死の危険は格段に高まる。それだけは私が阻止しなくてはならない。フィーリクスを失うことになったら、今度こそ立ち直れないから。
「全員が救われるかもしれない。周囲の人々も、俺たちも、アルマスも。みな平和に暮らしていける可能性がある。それじゃあいけないのか?」
「私は博打みたいなやり方で、フィーリクスを危険に晒したくない。リリャに悲しい思いをさせたくない。アルマスに我慢してもらうのが一番穏当なの。分かって――」
――その時だ。
「おとうさん、おかあさん……!」
娘のリリャはもう帰ってきたらしく、壁の向こうから飛び出してきた。心なしか落ち込んだ様子だ。時間も、いつもより随分と早い。
これにはフィーリクスも私も慌てた。お互い話し合う姿を彼女に見せまいとしてきたのだ。現にフィーリクスは仕事を休んでまでリリャのいない時間を選んでいる。
歩いてくるリリャの目から、じわり、じわりと涙が溢れた。彼女はフィーリクスに縋り付き、顔をうずめて嗚咽を漏らした。
「みんながね、おとうさんのこと『片目の外人』ってよぶの。それでわたしをつきとばすの。おきにいりのかばんもとられちゃった」
リリャは「すごくいやだった」と鼻をすする。少しずつ友達が増えているとはいえ、彼女の出自は複雑すぎるのだ。
フィーリクスはリリャ抱き上げた。彼も彼で、眉間に深く皺を刻んでいる。彼が自分の左目を押さえているのは戸惑いの証だ。
指の隙間から、瞳孔の開ききった青い瞳が覗く。彼の左目はまるっきり光を失っていた――魔力を注がない限りは。
フィーリクスの左目は、力の代償であり、力そのものなのだ。
戦時中、彼はこの街に降り注ぐ爆撃を防いだ。もちろん全てを防ぎ切ったわけではないし、街の被害も大きかった。しかし確かに、彼は英雄の一人だった。
とはいえ、手放しで喜べるほど事態は単純ではない。フィーリクスはサクサの国の元兵士だ。かつて駐屯地があったこの街の住民は、サクサの人にあまり良い印象を抱いていない。
リリャは優しくていい子だから少しずつ認められてきている。それでも、未だ分断があることは否定できない。子どもたちにはフィーリクスの何もかもが奇怪に見えるのだろう。大人たちも、フィーリクスがサクサの人間だと知っているからこそ子どもたちを咎めようとはしない。
「リリャ、ごめんな。俺のせいで怖い思いばかりさせる」
「おとうさんがこわくないなら、わたしはだいじょうぶ。おとうさんもおかあさんも、アルマスもいるから」
「ありがとう……ありがとう、リリャ」
私は直視できなかった。代わってやりたくてもそれは叶わない。私にも責任はあるのに、苦労するのは二人なのだ。
「そうだ、おとうさん! まだアルマスにありがとうってつたえてない!」
少し持ち直したリリャが急に叫んだ。私たちはつい身構える。リリャを助けてくれたことは感謝するが、出来ればこの場に居合わせてほしくない。ドラゴンは耳がいいから、近くにいたら私たちの言い争いが聞かれてしまう。
そんな期待に反して、今だけは聞きたくなかった柔らかな声が響いた。
「――ああリリャ、別に構わないよ。大したことじゃないからね。そうそう、リリャの鞄は僕が直しておいたよ。ほら」
弟が、柱の陰から姿を現す。新品のようにきれいな鞄をリリャに手渡して、子ども部屋へと向かわせる。アルマスを慕っているリリャは、素直に頷いてドアを閉めた。
一気に肝が冷える。フィーリクスの反応も同じだ。彼も慌てて振り返る。何故今の今まで息を潜めていたのだろう。私とフィーリクスの問答はどこから聞かれていた? 考えずにはいられない。
「アルマス……何故ここにいるの?」
アルマスは壁にもたれかかってネクタイを弄っている。強く言ったはずなのに、弟はまたリリャと会っていたのだ。
「ごめんごめん、また姉さんとの約束を破っちゃった」
「何を考えているの? 何度も簡単に約束を破るなんて」
普段よりずっと軽薄な声色に不信感が募る。アルマスはこの張り詰めた雰囲気に気づかないはずがない。仮に気づいていなかったとしても、へらへらと心の籠っていない謝罪をするような人間じゃなかった。
「それに関しては本当にごめんね。でもさ」
アルマスは視線を上げない。表情も変えず、ただ淡々と私たちを追及する。
「姉さんとフィーリクスの二人で
「それは、だってアルマスに話す段階にない――」
アルマスが乾いた笑いで私を遮る。見たこともないほど冷たい瞳で、優しく言葉を残した。
「大丈夫、気にしないで。二人が僕を除け者にするなら、僕も好きなようにやるから」
「アルマス、どこへ行く!」
フィーリクスの静止に手を振って、アルマスはふらりと家を出て行ってしまう。
順調に進んでいたはずだった。けれど実際は、とっくの昔に掛け違えていたのかもしれない。これからするべきことも、フィーリクスと話すべきことも、全て崩れ落ちてしまった気さえする。
守ろうとするあまり、私は弟を傷つけてしまったのだ。
「キエロ、俺はアルマスの家に行ってくる」
「おかあさん、アルマスはどうしたの……?」
そんな二人の言葉に答えられないくらいに、弟の微笑みが目に焼き付いている。
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