第X章 伝承

正典:岐路編

#1 障壁 Ⅰ

 諧調ハルモニア暦378年 4月22日 カレヴァ ルミサタマ市


 私は守られているのだ、と常々思う。

 真実を知りたいと訴えても、それが許されないことだって往々にしてあるはずだ。なのにアルマス・ヴァルコイネンは拒絶しないで見守ってくれているし、ローレント・D・ハーグナウアーは過去を詳細に教えてくれる。母も貴重な写本を私に読ませてくれる。何もかも整えられていることに感謝は尽きない。けれど、守られなければならないほどに自分が未熟なのだと痛感する。

 四月も半ばを過ぎて、街は徐々に祝祭の準備をはじめていた。鮮やかな花が飾られ、どの店も積まれた酒類の箱が増えている。あと一週間。この前終わったお祭りほどの作業量ではないけれど、私も教会関係の雑務が割り当てられている。毎年この時期は忙しない。

 どういうわけか、それは彼も同じだ。

「アルマスさん、おはようございます」

 入江沿いの図書館の前を、ミントグリーンの自転車が走ってくる。ぶれのない綺麗なフォームでペダルを漕いでいるのは、この街で邪悪なドラゴンと畏れられる男性、アルマス・ヴァルコイネンだ。彼もここ最近やたらと動き回っていて、大学構内で見つけるのが案外難しい。

「イーリスか、おはよう。休みの日にも勉強か」

 減速して私に会釈をした彼は、風で乱れた銀髪を軽く直して微笑む。

「公立図書館に用があって。今終わったところです。そういうアルマスさんは自転車でお出かけですか?」

「まあな。ちょっと空港まで迎えに」

 家から自転車で一時間くらいだ、と彼は道の先を示す。しかし、彼に空港まで迎えに行くような相手はいるのだろうか。いるとしたら、アルマスさんほどではないが相当な曲者だ。

「迎えに行くくらい仲の良い方がいらっしゃるんですね」

「おい、その言い方はちょっと悪意を感じるぞ。でも、まあ……」

 彼は額に拳を当てて言い淀む。なぜだろう、先程より更に不安になってきた。

「ああ、なんだ、その話は置いておこう。を放っておくと、勝手に観光して、俺のとこまで顔を出しに来ないからな。迎えに、というよりは捕まえにといったところだ」

 自由にさせておけばいいような気もするが、何か事情があるのだろうか。アルマスさんがとやらと合流する必要があるというのなら、そのことに興味がある。

「その方を放っておけない理由でも?」

「理由はないと言いたいところだが、残念ながらある」

 アルマスさんは自転車を押しながら歩き出した。暇なので私もしばらく一緒に散歩することにする。

「あまり一般人に語る内容ではないんだがな」

 一般人と呼ばれると不穏で仕方がない。あの赤髪の爺さんが仄めかしていた暗闘の件も相まって、かなりきな臭い。

「無理して教えてくださらなくてもいいですが、私にも関係のあることなら知っておきたいです」

 難しい顔でしばらく唸っていた彼は、周りを見渡した。人が居ないことを確認して、私の耳にささやきかける。

「近頃学生たちの間でカルト集団の勧誘が多くてな。どうも、命の流れやら不死化やらと説いて信者を集めているらしい」

 いかにも怪しげな謳い文句だ。

「でも、どうせ小さな集まりですよね? その手の勧誘は常にありますよ」

「だが怪しいことも確かだ。イーリスも気をつけろよ」

 脅すように呟くと彼は顔を離す。そして誤魔化すようにひらひらと手を振った。

「ま、今のところ、は『五月祭』を見に来るだけだ。そうなるのが一番いい」

「そうならなかった時というのはつまり、アルマスさんのいうの力を借りなければならなかった時のことですね」

 アルマスさんは片手で髪をかきむしる。この人は、邪悪なドラゴンと呼ばれるわりには分かりやすくて子どもっぽい。

「不吉なこと言うなよ」

「アルマスさんが先に言ったんでしょう」

「でも言わないでほしかったんだよ」

「そんな勝手な」

 情けなく眉を下げた彼は、しばらくしかめ面をしていた。それほどまでに面倒なことが起こるのだろうか。アルマス・ヴァルコイネンを見直してもらうための材料になるかもしれないと思うと、どうにも調べたくなる。疲れた様子の彼は、「危ないから首を突っ込むなよ」と念を押す。けれど私の性分を理解してくれているようで、それ以上の追及はなかった。

 無言のまま、私たちはしばらく歩いた。石畳の上を木の影が揺れる。定期的にくぐる木陰は少し肌寒いが、珍しく良い陽気だ。といっても海風は強くて、朝整えてきたはずの髪も崩れてしまう。つい最近までひたすらに穏やかだった海岸線を思うと違和感さえ覚えるほどの強風だ。天候を調節する魔術を管理しているのは隣で歩いているアルマスさんだが、彼の言い分だと術式が壊れているわけではないらしい。この間の豪雨の時は、雨の降る量がおかしいと言っていた。

 普段は何気なく暮らしていたけれど、ここは存外危ういバランスの上にある街なのかもしれない。

 視界の端で、彼が看板に目を向けて――すぐにそっぽを向いた。道に沿って並んだ赤い倉庫群のうちの一つだ。意味ありげに見ていたくせに、彼はそのまま前を通り過ぎようとした。その姿が必死に我慢しているように見えて、ついちょっかいをかけたくなってしまった。

「カレヴァパンケーキじゃないですか。アルマスさん好きそうですよね」

 幾度となくカフェやパティスリーで目撃されている彼のことだし、このパンケーキ店も何なら調査済みかもしれない。

「好きだぞ。俺のおすすめは、苺マシュマロとバナナキャラメルだ」

 案の定彼はこのパンケーキ店にも来ているようで、律義におすすめのメニューを教えてくれる。ベーコンやバジルのパンケーキもあるはずなのに甘いものばかり選ぶのは、やはり相当に甘いものが好きだからだろう。彼は携帯端末の画面に写真を表示してこちらに向ける。写真のパンケーキは、パステルカラーのマシュマロと苺がたっぷり散りばめられ、その上には粉砂糖が雪のように積もっていた。見た目がおそろしく甘くて、写真だけで満腹になれる。

「バナナキャラメルは百歩譲って、アルマスさんの口から苺マシュマロとかという語が出てくるのが、かなり笑えてきます」

「なあさっきからひどくないか? 俺を何だと思っているんだ」

「特に何とも」

 ほんのりと瞳を潤ませて、彼は文句ありげな視線を送ってくる。

「どうしました、アルマスさん」

「なんでもない」

「何でもないはずないですよね?」

 うう、と小さく声を漏らすと、彼は気力を振り絞るようにして私の方を向いた。

「イーリスの意地悪」

 いかにも揶揄いたくなる反応だ。威厳もへったくれもない。可愛らしい爺さんだ。

「これくらい意地悪じゃないと、学校でやっていけませんので」

「それ、俺のせいだったら申し訳な――」

 そのとき、彼の言葉が途切れる。

「ごめん、自転車押さえて」

 私に自転車のハンドルを渡すと、彼はその場にしゃがみ込んだ。お腹を抱えて苦しそうに息をする。明らかに普通じゃない。

「アルマスさん、大丈夫ですか!?」

「問題ない、放っておけばすぐマシになる」

 彼のことだから、救急車を呼んだら騒ぎになってしまうだろう。かといって何もしないでいいはずがない。ひとまず彼の背中を撫でておくけれど、私の焦りは消えない。

 三分ほど経ったところで彼は大きく息を吐いた。ふらふらと危なっかしく立ち上がると、入江沿いの階段に腰を下ろした。壁にもたれかかって息を整える彼は、かなり憔悴した様子だ。

「イーリス、ありがとう。自転車は近くに立てておいてくれると助かる」

 彼の指示通りにして隣に座る。すると彼は意外そうにこちらを見た。それから自嘲気味に呟く。

「ごめんな、付き合わせて。動けるくらいにはなったし、俺のことなんか気にしなくていいから」

「何を言っているんですか。今のアルマスさんの状態を見て、気にしないなんてできません」

「……本当にすまない」

 所在なさげに縮こまる彼は、どこか寂しそうで放っておけない。

「アルマスさん、不調の理由を聞いても?」

「もちろん構わない。この痛みは、いつもどおり結石のせいだな」

 結石? ドラゴンもそんな病気にかかるんだろうか。

「腎臓結石か何かですか」

 アルマスさんは心底不思議そうに首をかしげると、小さく苦笑して訂正する。

「そっちじゃない。魔力が結石するんだよ」

「ということは、魔力排出障害」

「先天性のな。ドラゴンになる前はだいぶ苦労したよ。まあ、今は別の意味で苦労するけどな」

 発見も摘出も難しい、と彼は首を竦める。

「だから、最近は甘いものも控えるようにしているんだ。魔力の生成量から減らさないとな。常に魔力の消費はしているはずなんだが、それでも追いつかないから面倒だ」

 彼は空を指さして、一つ溜め息をつく。指の先にあるのは街を覆う巨大なドーム状の術式――通称スノードームだ。彼が管理していると聞いていたが、どうやら魔素の供給源は彼自身だったらしい。とんでもない魔力量だ。

「それは本当に大変そうですね。私に出来ることがないのが心苦しいです。もし回復したら、また一緒にカフェにでも行きましょう」

 彼は穏やかに微笑むと、妙にしんみりした声色で私の名前を呼ぶ。

「イーリスは優しいな」

「アルマスさんほどじゃありません」

「俺は、優しくなんてないよ」

「少なくとも私にとっては優しい人です」

 どんなに蔑まれても街を守り続けてくれる彼が、優しくないはずがない。

 私のこの言葉は、いつか彼の心に届くのだろうか。

  

 ***

 教会に入って、白い空間で私を出迎えてくれたのは母だ。

「こんにちは。イーリスにしては早いですね」

「それはもう、いつも以上に気合が入っていますから」

「それが良いことなのか悪いことなのかは、追々わかるのでしょう」

 母は笑顔で私を試してくる。私も人のことは言えないけれど、かなり意地が悪い。

「イーリス、写本はどこまで読み進められましたか」

 アルマスさんの姉・キエロさんが書いた日記の、第一の写し。『スズランの手記』の写本は相当に手強い。

 古語の辞書と照らし合わせながら読み進めているけれど、方言なのか、辞書より更に古い言い回しなのか、所々文意が通らない単語や細かな綴りの違いがある。それでも終盤の要所は読み終えられそうなくらいには、解読ははかどっている。

「アルマス・ヴァルコイネンがドラゴンになる顛末はおおよそ。そこを読み終えたら最初から読み解いていこうと思います」

「素晴らしい努力です。もし疑問があるのならすぐに聞きに来なさい」

 母は踵を返すと資料庫へと向かう。私も後についた。母は私だけを部屋に残し、私は真ん中に設けられた椅子に座る。目の前にあるのは、革に金の模様をあしらった立派な本だ。何年が経とうと朽ちることなく、新品のような光沢を保っている。

 今朝、図書館で改めて読んだ『スズランの手記』の訳本。そして教会の所有する写本。どちらも記述に大きな差異は見られない。このままだと、アルマス・ヴァルコイネンがやはりとんでもない悪人だったか、そもそも手記が出鱈目なのかの二択になってしまう。

 けれど、何かがおかしい。

 漠然とした違和感だ。確実な証拠も何もない。でも私の知るアルマスさんと、手記に出てくる邪悪なドラゴンが同じ人だとはどうしても思えない。探すんだ。この消えない疑念の正体を。

 本を開くと、最近なじみになった魔力の甘い匂いが香った。

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