【徐広・謝晦・劉裕】君や、極みに登りたらんか

空には紫色の煙が立ち上り、黒の錦旗と、りゅうの字を、そうの字をあしらった旗が至るところではためいていた。


銅鑼ドラの、笛の音が人々の歓声を彩る。紙吹雪が舞い、色とりどりの細工は、みな水の流れを模した文様を基調としている。


「金徳衰え、水徳を産む、か」


徐広じょこうは呟いた。


冠からこぼれおつ頭髪は、全て白。その顔には深くしわが刻まれるも、眼光はなお鋭い。背筋はピンと伸び、その歩みも確たるものである。

宮中に満ちる華やぎの色は、彼のもとに至り、とたんに彩りを失う。その一歩のごと、ぎし、と床板を大いに軋ませる。


向かう先は建康城けんこうじょう未央殿びおうでん

百年来、天子が天下を治めるためにいましあった宮である。


著作郎ちょさくろう、何をそう激されておるのです」


徐広の歩みに従いきれず、時折その名士は慌ただしく駆け寄ってくる。徐広は立ち止まり、かれにふり返る。その険しき面持ちは揺るがない。


謝郎しゃろうけいの揺るがざるに、むしろ驚きを覚えておるよ。もっとも、卿は陛下のお抱えであったな。ならば帝姓の移りたるに、喪失も有り得ぬことか」

「抜きん出た功をお上げになられた主上しゅじょうが、人臣じんしんの垣根を飛び越えられたのです。これを喜ばぬものがありましょうか」

「……そう、よな」


話を打ち切ると、再び歩を進める。


宋氏千載せんざい、宋氏萬載ばんざい

すれ違う人々の顔は、一様に晴れやかである。彼らを見るでなく見、豪奢に飾り立てられた廊を進む。後ろから時折、とたた、と貴人が小走りになった音がする。


未央殿の入り口に辿り着くと、入り口を固める兵士らが一礼し、扉を開けた。


中では式典の準備に追われる文官らが駆け回っている。かれらを一瞥した後、徐広は控室に向かう。ここでも徐広の姿を見出したものが、その慌ただしさも忘れて廊下の脇に退き、会釈を向ける。


「著作郎、少しでも労われてはいかがです」

「知らぬよ。退くよう、頼んだ覚えはない」


貴人が苦笑した。


未央殿は、謁見の間そのものも巨大だが、その周辺も大きい。また万が一に備え、おいそれと敵が攻め入れぬよう、曲がりくねり、迷路のようになっている。


徐広の歩みに迷いはない。

やがて、殊更に警備が厳重な一室に辿り着く。


貴人が前に出る。


從事中郎じゅうじちゅうろう謝晦しゃかい、及び著作郎徐広。ご招じにより、参上いたしました」

「大儀」


室内よりの声。

兵が戸を開ける。

紫と黒、そして金に彩られた室内で、ひとりの偉丈夫が髪を解き下ろしていた。幾人もの女官がそこに櫛を通し、油を塗りつけている。


身に纏うのは、紫衣。

この世にただ一人、玉座に腰掛ける者のみが着衣を許される色である。


「陛下、間もなくでございますな」


謝晦が男に声を掛けた。

ふ、と男が口を吊り上げる。


劉裕りゅうゆう、あざなは徳與とくよ。一介の武人より身を起こし、数々の武勲を立て、遂には皇帝の地位にまで上り詰めた男である。


「良く、似合うておられまする」

「よく言う。窮屈でかなわんわ」


言うと、劉裕が手招きした。


「身を整えるに、いましばらく掛かるとのことでな。なので卿らを呼んだ。暫し、与太話に付き合え」

「さして、面白き話もできぬかと思いますが」


徐広が答えると、くっ、と笑う。


「爺よ、そのお小言が聞きたかったのだ。まったく、間もなく極に登らんかという者を前に、よくもまあそのしかめっ面で立てたものよ」


「致し方ございますまい。間もなく、我が国が滅ばんとしておるのです」


その言葉に、謝晦が息をのんだ。


だけではない。居あった文官、兵らが鋭き目を徐広に飛ばす。

ひとりの女官が、恐惶に身をすくませ、櫛を取り落とした。


「ち、著作郎! 不敬に――」

「大事ない。聞きたかった、と言っているだろう」


徐広に取りすがろうとした謝晦に、激したところひとつなく、しかし有無を言わせぬ重さで、劉裕が言いつけた。謝晦は両者を見比べると、不承不承ではあったが一礼し、一歩下がる。


「――陳羣ちんぐん、だな」

「御意にございます」


劉裕が指摘をしたのは、漢が滅び、魏が立ち上がらんとしていた頃のことである。


ちょうど、二百年ほど昔のこととなる。かん帝が帝に禅譲ぜんじょうをなした時、人々が魏帝の登極を喜ぶ中、臣下の陳羣ひとりは沈痛な面持ちでいた。その様子を訝しんだ帝が問うと、陳羣はこう答えている――臣は先朝に仕えたる者なれば、今、陛下の聖化を喜ばしくは思いつつも、なお先朝への義を隠しおおせませぬ、と。


劉裕は愁息を漏らす。


「なにが義で、なにが忠か。俺には、もうわからん。爺よ。お前のように直言を言ってくれるのは、もう少なくなってしまったな。それが帝になる、という事なのだろうが」


武にてのし上がった男である。

儀礼とは、真逆のところにあった。


それがいま、儀礼の極致、とも言えるような場所にある。

その立場となるのかを望んだのか、望まなかったのか。


徐広は、そこで初めて、会釈をした。


「――宋王。このたびの践祚せんそ



 ○



漢を滅ぼした魏は、いちど漢を滅ぼした、かの王莽おうもうが確立した儀礼に則り禅譲の儀式を行った。間もなく魏に成り代わったしんも、同じ手順を踏んでいる。また同じ式辞に則り、宋もが建立された。


魏は受禅より滅亡までで、四十五年。

晋は受禅より永嘉えいかの乱までで、四十六年。

晋の東遷より滅亡までが、百三年。


その宋も、滅亡まではわずか五十九年であった。




解説

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/1177354054893915947

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