海馬と雪

小欅 サムエ

海馬と雪

 コン、コン


 木製のドアを、軽い調子でノックする一人の老人がいた。


「……はい、どうぞ」


 部屋の外へ、乾いたような老婆の声が聞こえてくる。予期せぬ来訪にも関わらず、彼女は彼を受け入れているようだった。


「失礼するよ」


 彼は、彼女の部屋へと入っていく。過ごしやすい温度に保たれた部屋で、彼女はテレビ番組を観ている。動物園のゾウに赤ちゃんが誕生した、というおめでたいニュースを、ニュースキャスターは淡々と視聴者に伝えていた。


「……やぁ、今日は一段と冷え込んでいますね」


「そうなのかしら……今日は外に出ていませんから、分からないのだけど」


 そう言うと、彼女は一脚の丸椅子をベッドの脇から引き出した。何の変哲もない、不格好な丸椅子。カラカラ……と、脚が床に擦れ、鈍い小さな音が部屋にこだまする。


「どうぞ、おかけになって」


「あいや、これは丁寧に」


 彼は、差し出された丸椅子に腰かけた。テレビの背後にある窓ガラスの向こうには、今日の寒さを物語るかのような曇天が広がっている。天気予報では、このあと雪になるらしい。

 そんな鈍色の雲を見つめながらも、彼は彼女に語りかけた。


「いやぁ、今日はまた色んなことがありましてね。これは野崎さんに伝えないといけないなって思いまして」


「あら……今日も面白い話が聞けるのかしら。ふふ、私ね、あなたがここに来るのを毎日楽しみにしているの。……それで、今日は何がありましたの?」



 彼は、毎日のように彼女の元を訪ねていた。今日のように面白い話があった時ではなく、何の起伏のない日常を過ごしただけの日でも、彼は彼女の元を訪れていた。そして、いつも彼女を笑わせるのだった。


 彼の来訪は、決まって夕方だった。そこから日が暮れるまで、彼は彼女を大いに楽しませるのだ。それは彼女にとっても、また彼にとっても幸福な時間であり、何事にも代えがたい時間となっていた。



「……それで、あいつはこう言ったんだよ。『ふざけんじゃねぇ、それは俺の大福だよ』ってね……可笑しいだろう?」


「ふふふ……それはそれは、さぞかしその方もお怒りだったのでしょうね」


 今日も、彼は彼女を笑わせることに成功したようだ。彼女の笑顔を見て、また笑顔になった彼。笑い過ぎて少しむせ込んだ彼女は、体を休ませるようにして、窓の外を見つめる。


 そして、急に表情が硬いものへと変わった彼女は、神妙な様子で彼に尋ねた。


「……今日も、主人は来なかったわ。ねぇあなた、どこにいるのか教えてくれませんか……?」


「……」


 彼は、彼女の変化に驚きもせず、ただ黙って俯く。


「……また、黙ってしまうのね。ごめんなさい、困らせてしまったようね」


 そう言うと、彼女は静かにテレビへと視線を移した。彼も、つられてテレビを見つめていた。しかしその内容は、彼の頭には決して入っていかない。彼が見ているのは、テレビの画面に映る彼女なのだから。


 コン、コン


 すると、彼女の部屋に新しい来訪者が現れた。途端に、彼はいそいそと立ち上がる。


「ああ、そろそろ時間ですね……また、同じ時間に来ますから」


「もうそんな時間なのね……また明日、楽しみにしているわ」


 その言葉を聞くと、満足そうに彼は彼女の部屋を去っていった。



 入れ違いになった白衣の女性が、彼女に話しかける。


「野崎さん、お夕飯を持ってきましたよ」


「あら、いつもありがとうね……」


 そう言うと、女性は彼女の前に食事を置く。味気のないお粥に、少しの吸い物、南瓜の煮物と、焼き魚。


「また来てたんですね。今日は何の話をしたんですか?」


 女性は、笑顔で彼女に問いかける。


「ええと……何の話だったかしらね。よく分からないわ」


 そう言って彼女は、焦点の合わない目つきで優しく微笑んだ。


「そうですか……」


 女性は、少し悲しげに彼女の目を見つめ返した。


「でも、あんな人が旦那さんだったら、野崎さんも幸せだったでしょうね。毎日来てくれて、楽しませてくれるんですから」


「……いいえ、楽しくさせてくれるけど……結婚は嫌ね」


 きっぱりと、彼女は女性の言葉を否定した。そんな彼女の様子に、女性は驚きの表情で彼女に質問をした。


「どうして、あの人は好きじゃないんですか? あんなに楽しそうに話しているのに」


「好きよ? あんなに楽しいお話をしてくれる人なんていないもの。でも……」


 テレビから聞こえるニュースの音。外から聞こえる救急車のサイレン。それらをひとしきり聞いた後、彼女はゆっくりと口を開いた。


「あの人には奥さんがいるのに、私のところばっかり来てるのよ。あれじゃ、あの人の奥さんが可哀そうよ。だから、私はあの人が好きじゃないの」


「……そう、ですか。あ……お夕飯、冷めちゃいますよね。食べ終わったらコールしてくださいね」


 そう言って、女性は彼女の部屋を去った。

誰もいなくなった部屋で、彼女はまた一人、テレビを観始める。そして、ふと彼女は呟くのだった。


「……でも、本当に、主人はどこにいるのかしらね」


 彼女は、ゆっくりと窓の外を眺める。白い雪が、ひとつ、ふたつ……ふわりと舞い降りて、窓に当たって消えていく。


 それは、記憶のように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海馬と雪 小欅 サムエ @kokeyaki-samue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ