サボタージュ

 先輩が笛を吹き、休憩を言い渡す。俺たちは深く息を吐き、乳酸で満たされた身体を引き摺ってグラウンドの隅へと引き上げる。女子マネが渡してくれたドリンクを受け取り、生い茂る桜の木が作った小さな陰に座り込む。


「今日の練習、鬼だろ……」

「大会近いからな。仕方ねえよ」


 俺は言って、ドリンクを口に含む。本当はキンキンに冷えたコーラでも飲みたいところだったけれど、身体を気遣ったスポーツドリンクは常温でぬるい。


「いいよなぁ、大毅だいき一樹かずきは。スタメン確定だろ? 俺なんかベンチ温めてたら試合終わっちまうよ」

「試合に出るための、厳しい練習じゃん」

「実際、一番頑張んないといけないの、ゆうだしな」

「はい、出た~正論。もっと優しい言葉かけろよなぁ? 大事な仲間だろぉ?」


 俺は練習の再開に向けてストレッチを始める。グラウンドの外には練習を見にやって来た女子生徒たちが俺たちに手を振っていた。


「振り返してやったら? 大毅目当てだろ」

「やだよ」


 俺は即答。ふくらはぎを入念に伸ばす。


「どう思うよ。ファンサービスくらいしてやれって」

「だめだめ。興味ねえんだからさ、こいつ。こないだも告ってきた後輩の子、三秒で振ってたし」

「はぁ? 一樹、なんでお前がそんなこと知ってんだよ」

「お前、あんな公園で堂々振っといて、目撃者いないと思ってたの? 普通に皆知ってんぞ」

「いや、俺知らねえけど?」

「まあ勇は勇だから」

「もう怒ったぜ。俺が代わりに手ぇ振り返してやろ」

「お前じゃねえって顔してみてんぞ。やめろ、心が痛くなる」


 漫才じみたやり取りを続ける二人をよそに、俺はストレッチを続ける。わざわざ女子生徒の人だかりから目を反らすように視線をずらした先、校門に続く緑道を歩く一組のカップルが目に入る。

 男子の方は、黒いぼさぼさの髪に、華奢というより不健康そうな痩身の、丸まった背中。成長期を期待して大き目であつらえた制服は、身体のほうが追いついていなくてひどく不恰好だ。

 一方、女子のほうは凛とした歩き姿。肩のあたりで整えられた栗色の髪に色気のない銀フレームの眼鏡。制服の着こなし一つを取ってみても、校則からはみ出ることなど考えたこともないとでも言いたげな、品行方正な雰囲気。

 そんな二人が仲良く歩く姿は、ジャンクフードと精緻な和菓子が並ぶようであったけれど、まだ照れくささの抜けない幸せそうな笑顔は、そんな外野の感想など意に介することもないのだろう。

 動揺はしていなかった、はずだ。だがこういうときだけ妙に勘のいい勇は、俺の視線の動きにも目ざとく反応してくる。いや、単に女子たちの視線が辛くなっただけかもしれないけど。


「あいつら、最近よく一緒にいるよな」

「お前知らないの? 先々週くらいから付き合ってんじゃん」

「え、マジ?」

「マジマジ」

「そうなのかよ~。けっこう山田さんって人気あったじゃん。なんであんな冴えない奴と!」

「さぁ、山田さんに聞けよ」

「聞けねえだろ。あんなちんちくりんのどこがいいのって聞いたら、さすがの山田さんもキレんだろうよ」

「いや、それは勇の聞き方な? ……そういや大毅って同中おなちゅうじゃなかったっけ? あの、えーっと……名前なんだっけ」

「井淵。井淵悟いぶちさとる

「そうそう、井淵くんだ。大毅、知ってる?」


 一樹が何気なく聞いてくる。悪気はないのだろう。それは俺もよく分かっていた。

 おまけにここで変に躊躇うのは不自然だ。だから俺は記憶を手繰る素振りをして、一樹の質問に答えた。


「小さいころはよく遊んだよ。家近かったし。中学、いや小学五年くらいからかな。あんま遊ばなくなったのは。ゲーム博士って感じだったかな。すげえいっぱいゲーム持ってた」

「へぇ……って聞きたいのそこじゃねえって。なんかもっとこう、ないのかよ」


 勇が興味津々に聞いてくる。俺はまた少し、考えるふりをする。


「まあ、……いい奴だよ。ほら、ゲームとか貸してくれんだよ」

「結局そこかいっ!」


 勇がツッコミを入れたところで、ちょうど笛が鳴った。練習の再開だ。


「ほんじゃ練習戻るか~」


 一樹が立ち上がり、伸びをする。俺は駆け足でグランドへと戻りながら、もう一度歩く二人の姿に視線を投げる。悟は顔を赤くしながら楽しげに何かを話し、山田さんはそれによく頷きながらやっぱり楽しそうに笑っている。

 それはきっと、いや決して、俺の前では見せることのない表情なのだろう。


「おい、大毅! ボールいったぞ!」


 ノートラップで合わせ、力任せに蹴りつけたボールは明後日のほうへと飛んでいった。


   †


 次の休日、家でごろついていた俺は母ちゃんの使いを頼まれて、渋々ながら家を出た。紙袋に詰め込まれたクッキーやらチョコレートやらのお菓子を抱え、井淵悟いぶちさとるの家へと向かう。

 インターホンを鳴らしてしばらく待てば、家の扉がゆっくりと開いた。


「……だ、大ちゃんっ? どうしたの……」

「これ。親父の仕事の関係で貰ったんだと。うちじゃ食い切れねえからおすそ分けに持ってけって、母ちゃんが」

「これ? うわぁ、めっちゃチョコだ。あ、俺、このクッキーけっこう好き」


 サンダルを突っかけて表へ出てきた悟は、背の高い俺が抱える紙袋を背伸びしながら覗きこんだ。


「あ、そ、そうだ。お礼、ってわけじゃないけど、上がってってよ。ちょうど暇してたし、久しぶりにゲームやろうよ。それに今、うち誰もいないんだ」

「お、おまっ…………ったく、そういうのは彼女に言えよ」

「え、なんで山田さん? ほら、上がって」


 首を傾げる悟に、俺はちゃんと笑顔を向けていられただろうか。否定しないんだな、と俺の心の中に黒く淀んだ感情が広がった。

 けっきょく俺は帰ろうとするタイミングを逸して、悟に誘われるがまま家に上がることになった。二階の奥にある悟の部屋は相変わらず汚くて、ゲームばかりが置いてあって、俺は心の中で変わってないなと独り言ちる。


「あ、うちお茶しかないけど……」

「気使うなよ。そんな長居もしねえからさ」

「せ、せっかくの休み、だもんね。今日、練習ないの?」

「ああ、今日はオフ。今年の大会はいいとこまでいけそうなんだよ」

「へぇ、やっぱりすごいな、大ちゃん。昔から、運動神経バツグンだもんね。あ、僕、お茶取ってくるね」


 悟は言って、慌ただしく一階へと下りていった。俺はどうしていればいいかと迷い、結局ベッド脇の床にこじんまりと腰掛けた。

 本当に久しぶりだ。そして本当に、あのころから何も変わっていない。ゲームばかりが置いてあり、勉強道具なんて一つも見当たらない。なのに成績だけは何故かよくて、テストの点数で俺は一度も悟に買ったことがなかった。俺は悟に負けたくなくて、母ちゃんに塾に行きたいとせがんだりした。

 無邪気だったあのころに懐かしさを抱くと同時、俺はどうしようもなく変わってしまったことに寂しさと後ろめたさを抱いた。

 少ししてお茶を用意した悟が戻ってくる。両手に抱えたトレイにはさっきけっこう好きだといっていたクッキーが早くも広げられていた。


「なんか、大ちゃんがうちにいるの、久々の感じだね」

「そうだな。中学上がってから、俺のほうが部活忙しくなったしな」

「今や、学校じゃちょっとしたスターだもんね」

「ちょっとした、は余計だろ」

「あはは……」

「それに、悟だってサッカーうまかったじゃん。いや、ていうか、何やっても大体うまかったろ。バスケもドッジボールも。足早かったしな」

「そんな時代もありましたなぁ……」

「じじいかよ」


 丸めた背中でお茶の注がれたコップを持っている悟に俺は突っ込む。特に笑えるわけでもなく、部屋にはどんよりと沈黙が降りた。クッキーを齧る音が、妙に鮮明に、大きく聞こえた。


「……そう言えば、さっき山田さんのこと言ってたけど……」


 クッキーを齧りながら悟が思い出したように言う。沈黙に耐えられなくて、慌てて話題を捻り出したような調子だった。俺はマンガ雑誌を流し読みしながら、お茶を口に含む。


「ああ、けっこう有名だぞ。付き合ってんだろ」

「え、そんなにっ? うわー、めっちゃ恥ずかしいやつ……」


 どうやら隠していたつもりらしい。まあ吹聴するようなことでもないし、そういうことを周りに見せつけたがる二人でもないのだろう。


「あんな感じで一緒に帰ってたら、誰だって気づくだろ」

「そ、そうだよね……あはは」

「それに山田さんはけっこう人気あったみたいだからな。勇が悔しがってた」

「勇さんって、髪の毛尖ってる人? そっかぁ……山田さん、きれいだもんね」


 悟が苦笑いしながらいつにもましてボサボサの髪を掻く。本当に山田さんのことが好きなんだろう。表情が物語る想いの大きさに、俺は息が詰まるような気分になる。


「あ、も、もしかして、大ちゃんも、その、山田さんのこと、気になって……」

「んなわけあるか。まずもって接点もねえよ」


 俺は悟を一蹴し、クッキーを口に放る。どうやら本気で焦っていたらしい悟が深く安堵の溜息を吐く。


「大ちゃんはさ、そういう人いないの? ほら、スターだし、モテそうじゃん」


 当然の流れであろう、何気ない悟の言葉に、俺の全身は引き攣った。


「……いねえな。今はサッカーに集中したいし、そうしねえといけねえんだ」


 声は震えていたと思う。怒っているのか、泣きそうなのかも分からなかった。もしそうだとして、何に怒っているのか、何を哀しんでいるのだろうか。何も分からなかった。目の前が真っ暗になっていく。抑え込んでいたはずの淀んだ感情が、溢れていた。


「俺はっ!」


 叫んだ俺はハッとする。伸ばした手の指が悟の両肩にぐいと食い込んでいた。


「……ご、ごめん。なんか、ごめん」


 悟が視線を逸らして俯く。俺の表情をちらと伺う。

 やめろ、見るな。そんな顔で、俺を見るな――――。

 俺は立ち上がる。息苦しくて、居ても立っても居られなくて。


「だ、大ちゃん……っ?」


 悟の困惑を置き去りにして、俺は逃げるように駆け出した。


   †


 サッカー部のエースとしてもてはやされる今からは想像もできないけれど、俺は小学生のころ、どんくさくて身体が弱くて、小さかった。

 鬼ごっこで一度鬼になれば誰にもタッチできないし、ドッジボールでは真っ先に狙われて外野を温め続けた。逆上がりだって、ついぞ補助台なしにできるようにはならなかった。

 別にそれでよかった。皆と遊ぶのは嫌いではなかったし、皆も文句は言いつつも仲間に入れてくれていた。だからこれでいいのだと、思おうとしていた。

 でも本当は気づいていた。皆が仲間に入れてくれるのは同情で、友情とは少し違うこと。


「ねえ、ちょっと、君さ」


 やっぱり今日も誰も捕まえられなくて、散々走り回って座り込んでいる俺の隣りにそいつは突然に現れた。どこからか見ていたのだろうか。

 先月やってきたばかりの転校生。家は近いらしいが、話したことはなかった。


「諦めるのがちょっとだけ早い。ほら、あの赤いTシャツの奴。あいつ、一見すると速いけど、持久力はないよ。最高速度に達するのが皆よりも早いんだ。あとカーブが苦手。直線だと速いけど、それ以外は普通だね」

「え、ちょっと何言って……」

「鬼ごっこってゲームだから。絶対に攻略できないとか、そんなことありえないんだよ」


 転校生はそう断言し、意地悪く笑う。


「な、俺のこと信じてみてよ。そしたら君はきっと、鬼ごっこをもっと楽しめる」


 俺は休むふりをしながらその転校生の作戦を頭に叩きこんだ。校庭のフェンス間際に追い込んでから、的当て用の壁に向かってダッシュを仕掛ける。狙いの赤Tシャツの進路を塞いで加速させないのが狙いだ。今思えば作戦と呼べるのかも怪しい、そんな作戦。

 だが結果、俺は赤Tシャツに見事にタッチした。赤Tシャツは絶対に捕まらないと思っていた相手にタッチされたことが余程ショックだったらしく、しばらく呆然と立ち尽くしていた。

 俺は転校生に小さくガッツポーズをする。転校生は白い歯を剥いて、親指を立てていた。

 それが俺と転校生――井淵悟の、本当の出会い。

 悟はたった数分で、俺の見ていた世界の景色を一八〇度変えてみせた。

 それから悟は俺たちのグループに混ざって遊ぶようになった。今まで通り外で遊んだりもしたし、悟の家にゲームをしに行ったりもした。

 悟はだいたい何でもできた。勉強も運動も、一番というわけではなかったけれど、あらゆる項目でクラスの上位にいる。そんな感じだった。

 悟は遊びながら俺にアドバイスをくれた。俺は自分でも考えながら、本気で遊んだ。もう俺と同情で遊ぶ友達はいなくなっていた。

 悟に負けたくなくてサッカーを始めた。

 悟に負けたくなくて塾に通いたいと親にせがんだ。

 悟に負けたくなくて、背が大きくなるようたくさん食べた。

 悟に、悟に、悟に。

 悟は俺の憧れだった。俺のヒーローだった。

 そして――――。



 鬱陶しいアラームが響いて、俺は目を開ける。まだ焦点の定まらない視界で天井を眺めながら、音のほうへと手を伸ばしてアラームを止める。

 俺は起き上がる気力もなく、ベッドの上で沈み続ける。

 懐かしい、切ない夢を見た気がする。

 きっと昨日のせいだろう。久しぶりに悟と話して、俺は危うく取り返しのつかないことをしてしまうところだった。

 恥ずかしさと気まずさに、とてつもなく死にたい気持ちになる。

 俺はきっとおかしい。いつからなのかは覚えていない。でも中学に上がるころにははっきりと自覚した。俺のこの気持ちは、たぶん、きっと、間違っている。

 悟は俺を、本当の俺を知ったらどう思うだろうか。

 きっと困ったように笑いながら、ありがとうとか言ってくれるんだろう。

 悟は優しい。だから俺はその優しさに甘えてはいけないんだ。

 ぼやけた視界を遮るように、俺は眼を閉じる。瞼の裏には山田さんと寄り添う悟が、俺に向けられることのない表情をした悟が、焼き付いている。


「学校、行きたくねえな……」


 俺はその日、初めて仮病で学校を休んだ。

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