弾けて、消えた。

 よく晴れた日。まるでペンキを塗りたくったような青空と、遠く遠くに架かる一条の飛行機雲。アスファルトからは茹だるような熱気を濛々と立ち込め、覆い被さるように忙しない蝉の声。路傍に佇む地域の連絡板では外れかけた納涼大会のチラシが風に靡いて頼りなげに揺れる。どこからかふわふわと飛んできたシャボン玉が弾けて、消えた。

 今年もこの季節がやってくる。

 私は額の汗を拭って空を仰ぐ。照り付ける太陽に目を眇めて。

 まだ癒えない心の傷がほんの少し、疼く。


   †


 休み時間。私はふと視線を落とした窓の外に、彼の姿を見つける。次の授業は体育だろうか。どこか気だるそうに、緩く着崩したジャージ姿で友達と歩いている。なんにせよ、今日はラッキーだ。窓から身を乗り出して、手を振った。

 先に私に気づいた彼の友達が彼のことを肘で小突く。彼はなんだか照れくさそうに鼻の下を指で押さえながら、控えめに右手を振り返す。


「あんた、ほんとにラブだねぇ」

「なんか見てるだけでお腹いっぱいだわ」

「へへーん。そりゃぁラブだよ。大好きだもん」


 呆れたように溜息を吐く友達に、私はどこか得意気に胸を張る。友達二人は、はいはい、と顔を見合わせて肩を竦める。


「どこがそんなにいいんだかねぇ」

「まあ、顔はかっこいいけどね。ちょっと不愛想だよね」

「クールって言ってよ。でもね、二人のときはね~、すっごい優しいんだよ。ふふーん。……あ~ジャージ姿もかっこいいぃ……好き」

「はいはい。にやけるな惚気るな」

「あーあ、あたしもあんたみたいな恋したいわぁ」


 高校生になって、私は初めての恋をした。右も左も分からなかった私の初恋は、友達の協力や時の運の甲斐あって、たくさんの涙と笑顔を経て成就した。

 初めての恋をして。初めて両想いになって。初めて手を繋いで。初めてのキスをした。

 幸せな毎日が、さらに艶やかに色づいていった。

 そしてこの日々はきっと、色褪せてしまうことはない。この幸せは揺らぐことなく、永遠に続いていく。私は疑いもなく、そう信じていた。



 授業が終われば、昇降口で彼を待つ。いつも通り、友達と一緒に降りてきた彼に手を振る。彼はやはり友達に小突かれながら、どこか照れくさそうに私の元へやってくる。

 周りのみんなは彼をクールだ不愛想だと言うけれど、それは少しだけ違う。彼は意外と照れ屋なんだ。


「行こっか」

「うん」


 彼は言って、友達に手を振って別れを告げる。昇降口を出て私たちはそっとお互いの掌を重ねる。

 特別なことは何もない。でもありきたりな日常の一つ一つが、恋のひとかけらが、私にとってはかけがえのない時間だった。

 今日一日の出来事を話して、テスト勉強がはかどらないと愚痴を言う。ちょっと寄り道してアイスを食べたり、レコードショップに行って彼が好きなバンドの新曲を一緒に聴いてみる。音楽はよく分からなかったけれど、彼が好きだというそのバンドのライブにいつか一緒に行ってみたいね、なんて話したりする。そしたら次は私が行きたかった雑貨屋に付き合ってもらって、三〇〇円のキーホルダーをお揃いで買ってみる。なんかバカップルみたいだ、と嬉しそうにはにかむ彼が愛おしくて、私は思わず少し骨張った男の子らしい腕をぎゅぅっとする。

 楽しい時間はあっという間に過ぎていき、気がつけば空はオレンジと紫のグラデーションを帯びていた。

 本当は逆方向のはずなのに、彼はもう少し一緒にいたいから、なんて言って、私のことを家まで送ってくれる。

 私の最寄駅に着くころにはもうすっかり日が暮れていて、電灯がちらちらと瞬きを始める。暗くなったのをいいことに、私は彼の身体にぴったりと肩を寄せる。冬の始まりを告げる金木犀の匂いに混ざって、汗とシャンプーの匂いがする。彼は少し照れながら、繋いだ手をぎゅっと握り返してくれる。

 私たちは一日の終わりを名残惜しむように、ゆっくりと歩いた。それでも着実に前へと進んでいく時間は、やがて終わりを連れてきてしまう。


「じゃあ、俺はこのへんで」

「ありがとうね。いっつも送ってくれて」

「言ったでしょ、少しでも長く一緒にいたいだけだから」


 彼の深い優しさに、私の口元はだらしなく緩む。


「ふふーん、大好き」


 彼は恥ずかしそうにマフラーに顔を埋める。耳がほんのりと赤いのはきっと、寒さのせいだけではないはずだ。


「もう、それ何回目」

「だって大好きなんだもん」

「……俺だって、大好きだよ」


 普段、あまりそうは言わない彼の思わぬ不意打ちに私は胸の奥がきゅんとする。どうしていいか分からなくて、でもやっぱり嬉しくて、私は照れ笑いを浮かべる。


「へへへ、ずっと一緒にいようね」

「……うん。ずっと一緒にいよう」


 私たちは最後に互いの手をぎゅっと強く握って別れる。いつまでも彼の手の感触が残るように。強く、ぎゅっと。


   †


 冬が過ぎて、春がやって来た。クラス替えの盛り上がりも束の間、桜は一瞬で散っていき、体育祭に向けて慌ただしい毎日を過ごす。気が付いたら、私立のくせに地味でダサいと不人気の制服も少しはましな夏服へと変わる。

 忙しなく響く蝉の声。アスファルトが吐き出す、茹だるような熱気。空は遠く澄んでいて、まるでペンキを塗ったように現実味のない青さで。


「……それでね、麻実ったらさ、彼氏に本気で怒って、思いっきり持ってたイチゴオレを机にどん、って。そしたらもう大惨事。噴水みたいに飛び出したイチゴオレで机の上びしょびしょでさ、私ののり弁なんかイチゴオレの味したもん」

「それは悲惨だ」

「でしょ~。でもそのあと、コロッケパン奢ってくれたから許した」


 季節が巡っても、私たちは変わらない。いつものように他愛のない話。いつものように二人きりの帰り道。


「それで、麻実さんは彼氏と仲直りできたの?」

「どうだろうなぁ。麻実もけっこう強情だから、長期戦かも」


 ちゃっちゃと謝って仲直りしちゃえばいいのにねー、と小石を蹴る。勢いよく転がって跳ねた小石は路傍の排水溝へと落ちた。


「でも、聞いた感じじゃ、彼氏のほうがよくないと思うな。幼馴染とは言え、麻実さんに何も言わないで他の女の子と遊んでたわけだし」


 私はいつも通りに今日の出来事を話していただけだったけれど、彼は何やら真剣に考えていた様子でそう言った。彼が真面目に考えて出した答えに私は素直に感心する。


「私の彼氏はそういうことしないもんねぇ」

「そうだね。まあ、幼馴染いないし」

「そういうことじゃないようっ」

「おわっ」


 私は彼の肩に飛びつく。彼はおぶるように私を受け止め、困ったように笑う。


「ふふーん、好きだよ」

「うん、俺も」


 私が耳元で囁くように言うと、彼はやっぱり困ったように笑ってそう返す。

 私たちはまた歩き出す。青空を眺めながら、私はふと考える。

 一体いつからだろう。好きだと伝えるその言葉に、どきどきしなくなったのは。

 一体いつからだろう。私も彼も、照れくささに笑わなくなったのは。

 何が変わったのかは分からない。私が変わったのか、彼が変わったのか、二人とも変わったのか。もしくは二人とも何も変わっていないのに、別の何かが致命的に変わってしまったのだろうか。

 彼は相変わらず優しい。

 普段から日焼けを気にしている私を気遣って、彼は私がなるべく日陰を歩けるように道を作ってくれる。

 ならばやっぱり、変わってしまったのは私のほうなのだろうか。

 彼のことは好きだ。そこはきっと変わっていない。

 でもそれなのに、まるで私の〝好き〟はもう既に吐き出し切って空っぽで、無くなってしまったそれを確かめるだけに口だけが一生懸命に言葉をなぞっているようだ。

 好き、好き、大好き、愛してる。

 何度言っても同じだった。

 空っぽな言葉でも、それでもきっと中には私の想いが詰まっているはずだと、どうしても確かめたくって、私は何度も口にする。

 口先が言葉をなぞり、声が音をなぞる。

 でもやっぱり、前なら絶対に感じられていたはずの胸の奥の熱は、もう感じられなかった。

 彼はどうなんだろう。

 私に向けたその〝好き〟にどんな想いが、どれほどの熱が込められているのだろう。

 そんなこと、重い女だと思われそうで、聞けるはずもなかった。

 なんとなく重たい空気を引き摺りながら、私たちは歩いた。勝手に考えて、勝手に落ち込んで、ほんとばかみたいだ。

 近くの公園で子供が遊んでいるのだろうか。どこからか飛んできたシャボン玉が道に迷ったみたいにたゆたって、弾けて消えた。


「あのさ――――」

「あ、ねえねえ!」


 私はそんな靄を払いのけたくて、わざとらしい明るさで彼を呼び止める。


「これ行こうよ。7月29日!」


 指差す先には地域の連絡板。まだ新しい、鮮やかな色彩のポスターがど真ん中にでかでかと貼り付けられている。


「納涼大会?」

「うん。浴衣着てさ。わたあめとか食べよ」

「わかった。行こう、納涼大会」

「やった! 約束ね!」


 私は彼の腕に抱きつく。彼の顔は見れなかった。

 確かめたい。私たちは何も変わっていないと。繰り返される〝好き〟はただの音なんかじゃなくって、そこにちゃんと大切な気持ちが詰まっているんだと。

 いつかのあの日、手に取るように感じられた気持ちをもう一度、この手に捕まえられるように。


   †


 結果から言えば、あの日――7月29日、彼は来なかった。

 たった一本の電話だけを寄越して、訳も話さずに行けなくなったと、ただそれだけ告げた。

 私は独りぼっち、駅の前で彼を待った。来ないと分かっていながら、待ち続けた。

 この日のために買った浴衣だった。可愛いって言ってもらいたくて、好きだって想ってもらいたくて、選んだ浴衣は何の意味もなくなった。

 涙なんか流してやるもんかと見上げた夜空には、満点の花火が咲いていた。

 その夏休みはなんとなく気まずくて。それと、私の意地みたいのもあって、彼に連絡はしなかった。彼が連絡をくれるのを待っていたけど、連絡はこなかった。

 大きなわだかまりを残したまま夏休みが終わって、彼は文化祭の少し前、私に別れを告げた。

 私は泣いた。

 ずっと一緒だって言ったのに。

 好きだよって言ってくれたのに。

 彼は何も答えず黙り込み、最後に俯いて〝ごめん〟と謝った。



 それから少し経って、冬が来る前に彼は学校を辞めた。

 理由は聞けなかった。あの日、納涼大会の待ち合わせに来られなかった理由も、結局聞けないままだった。

 一方的に別れを告げられても、たぶん私はまだ彼を好きだった。でもあの鮮やかな幸せの日々にはどうやっても戻れないのだと、彼がいなくなって理解した。

 私の初恋は、こうして何も分からないまま、弾けて消えた。



 風の噂で彼の退学は家の事情だと聞いた。両親の離婚だとか、祖母が倒れて田舎に帰ったとかいろいろな憶測が飛び交ったけれど、本当のところを知っている人はいなかったし、いたとしても名乗りを上げたりはしなかった。

 私も深く追求はしなかった。もし真実を知ってしまえば、あの日最後に交わした曖昧なままの〝好き〟が壊れてしまうような気がした。

 結局のところ私は何も知らなくて、彼女なのに相談すらしてもらえなかった無力で取るに足らない存在だったのだと、思い知るのが怖かった。


   †


 彼のいない季節がいくつか過ぎて、またあの夏がやって来る。

 夏はほかのどの季節より、少し憂鬱だ。

 あの茹だるような暑さも、絵みたいな青空も、彼を思い出してしまう。

 きっと好きだった。

 そして、たぶん、今も、きっと――。

 宙をたゆたうシャボン玉に手を伸ばす。指先が触れて、シャボン玉はあっけなく消える。

 私の手がようやく掴んだのは、少し痛い夏の思い出。


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