陰湿
昼休みのチャイムが鳴る。
今日は、お弁当がないから食堂で食べる予定。お母さんが、昼食用に千円をくれていた。
いつも教室で、一緒にお弁当を広げる仲間たちに断りを入れると、一弦コハルは、そそくさと教室を出た。
多くの生徒達が廊下に溢れ、思い思いに限られた時間を満喫するべく足掻いている。
そんな中、廊下から階段がある
「コハルちゃん。今日は食堂?」
また、あの娘だ、と一弦コハルは思う。
昨日は昼休み中に、自分の教室まで遊びに来ていた。今も来る途中だったのかも知れない。
一弦コハルより学年が一つ上の彼女は、学園内では有名な不良で、腫れ物扱いされている存在である。
その事は、昨日お弁当を一緒に食べている友達から聞いた。
「ええ、そうですけど、それが何か?」
「一緒に行ってもいいかな?」
「いえ。お断りします」
毅然とした態度をとると、一弦コハルは食堂に急いだ。
彼女と話すことなど何もない。ましてや、一緒に食堂に行くなど迷惑以外の何者でもない。
食堂に着くと食券の販売機に並び、Aと書かれたボタンを押す。それから、奥に厨房が見渡せるカウンターで食券を見せると、従業員のおばさんがトレーに載せられたAランチを差し出してきた。
海老フライにミンチカツ、ハンバーグといった、子供の大好物ばかりが盛られた皿は、見るからに高カロリーではあるが、すぐに売り切れてしまう人気のランチだ。
一弦コハルは、たまにしか食堂を利用しないが、利用する際は必ずAランチ。そう決めている。
色々な衣装を着こなしてバイトをしている身ではあるが、支障が出ない程度の贅沢だと割り切っていた。
食堂は混雑しているが、六人がけのテーブルに三人だけの席を見つけて、すぐに確保する。水を持ってくるのを忘れてしまったが後回しだ。腰を落ち着ける間も惜しんで、海老フライにかじりついた。
タルタルの仄かな酸味と、海老の旨味が、一瞬で口の中に広がって幸せになる。お弁当と違って、温かいのもプラスだ。次も絶対Aランチにしようと、また思った。
幸福感を噛み締めていると、一弦コハル以外の三人が一斉に席を立つ。まだ食べかけの皿が見え、昼休みの時間も半分以上残っているのに、どういう事だろう。だけど、すぐに答えが分かった。
立ち上がった三人に代わって、彼女がやって来たのである。
一学年上の、不良の先輩。
皆、逃げるように居なくなってしまった。
一弦コハルは、機嫌が悪くなる。
「ご飯が、美味しくなくなるので、何処かに行ってくれませんか?」
こんな風に言われれば、誰だって頭にくるだろう。
でも先輩は、まるで聞こえていないように前に座った。
「何食べてるのか気になって、来ちゃったんだ」
そう言って先輩は、ポケットから鏡を取り出すと、十円玉ぐらいなら乗ってしまいそうな、まつ毛をいじり始めた。学生には似合わない派手な化粧である。
「貴女は食べないの?」
先輩が何処にも行く気がないのだと分かって、一弦コハルは、うんざりした。
「私は我慢してるの。明後日までね」
明後日は金曜日だ。
先輩は、一弦コハルに宣言しているのだ。
金曜の夜になったら、お前を襲いに行くと。
「そうですか。でも、そんな脅しには負けませんから」
一弦コハルは腹が立って来て、メンチカツを大きな口で噛みちぎった。味がしない。せっかくのランチが台無しだ。
鏡ばかりを気にしていた先輩は、ようやく一弦コハルを見る。
「ねえ、コハルちゃん。もっと野菜も食べないと駄目だよ」
「ほっといてください」
「そんなに脂っこい物ばかりじゃ、血がドロドロになっちゃうよ」
ハッとして、一弦コハルは箸を止める。
この時になってようやく、
この派手な女は、出荷される家畜の仕上がり具合を確認しに来ているのだ。
よりよい品質になるように、それはそれは、旨い味がするように、最後の最後まで、気を抜かないつもりらしい。
「野菜ジュース、買って来てあげようか?」
「…………」
「どうしたの? コハルちゃん。顔が真っ青だけど」
「…………」
「貧血でも起こした? だったら鉄分が足りてないかもね。今日の夜は、ママに頼んで、レバーでも食べたら? そしたら健康でサラサラの血になるんじゃない?」
一弦コハルの鼓動が速くなる。
黒い不安が、手足に絡み付いて、箸を落としてしまいそうになる。指先が震えていた。止めようと思ってみても、一向に収まらない。
周りには誰もいない。
大勢の学生が群れているが、助けを求める事が誰にも出来ない。
コウタさんも、タクヤさんも、天狼の人達もいない、自分一人だけの空間。
「大丈夫? コハルちゃん。震えているけど」
俯いた顔を、
悔しい。
吸血鬼に、いいように
その時だった。
一弦コハルの記憶の中で、お爺ちゃんの姿が浮かび上がった。厳格で、威厳に満ち、誰よりも優しいお爺ちゃん。
お爺ちゃんは、小さい私に、よく言っていた。
不条理に負けるなと。
理不尽に
例え、打ちのめされても、抗う限り、負けてはいないのだと。
一弦コハルは思い出す。
私は、鬼と呼ばれた
私の中の一弦の遺伝子が、この卑怯な吸血鬼に負けるはずがないと。
そして顔を上げる。
「大丈夫ですよ先輩。えーと、野菜ジュースでしたっけ? 奢ってくれるなら戴きますよ」
「うん、それがいいよ。待ってて」
明るい表情で
「やっぱり止めた。アンタなんかに奢ってもらったら、ストレスで血が腐るわ。てか、もうストレス溜まっちゃったかも? アンタ見てると気分が悪いし、食事も美味しくない。駄目だな~、不健康だ~。あ、そうそう! 今度の金曜日、電気街で待ってるから、遅れないように来てよね。探すの面倒臭いんで。てな訳で、いい加減、空気読んだら?」
汚ない言葉遣いだ。
お爺ちゃんに、きっと叱られるだろう。
振り返った吸血鬼は、ニヤリと笑った後、何も言わずに遠ざかっていった。
怒るとお腹が空いてきた。
いっそ唐揚げでも追加してやろうかと、一弦コハルは真剣に考えている。
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