溺愛からの脱出。もう婚約破棄させて……

monaca

引き返せるうちに

 わたしは婚約者に溺愛されています。

 今も、夕食後、お腹いっぱいで動けなくなったわたしは彼の腕の中でぼんやり。


「片づけ、やれなくてごめんね……」

「気にしなくていい。ぼくが全部やるから」


 万事がこの調子です。

 わたしは彼と暮らすようになってから、家事をろくにしたことがありません。


 彼は、投資家をしているそうです。

 ほとんど外出することなく部屋で働いています。

 買い物くらいわたしが行けばいいのですが、ケータリングを頼んだり、材料をネットスーパーで買って彼が調理したり、何もさせてもらえません。


 とっても楽だけど。

 悪いな、とは思っています。


「わたし、何のためにあなたといるのかな?」

「ぼくには愛が必要だからだよ。きみのためと思うから、何でもできるんだ」


 それはとても心地好い言葉でした。

 わたしは何もしていないけど、彼の原動力になっているのです。

 これが、愛の力というものなのかも……。


「それそろわたし、お風呂――」

「そうだね、連れていくよ」

「恥ずかしいわ。赤ちゃんみたいだもの」

「じゃあひとりで入るかい?」


 わたしは、ぶるぶると首を振ります。

 頬がちぎれるくらいの勢いで。


「恥ずかしいけど、嬉しいから……」

「ごめんごめん、わかってる。行こうか」


 お風呂では、わたしは本当に赤ちゃんになったみたいに彼に洗ってもらいます。

 頭、首、脇、背中――自分では見えないところも、すべて。


「ねえ、そこ、どうなってる? へんじゃない?」

「きれいだよ」

「嘘。自分で触って、ぬるぬるしてるってわかるもの。何か出てきてるでしょ」

「大丈夫。ぼくが対処できる」

「あっ」


 彼が優しく触れただけで、電気が走ったようになり、わたしは思わず声をあげてしまいました。

 こんな姿、人が見たらどう思うことでしょう。

 医者に行くことを勧められるかもしれません。


 でも、お風呂から上がると、彼は言葉どおり、優しく対処してくれました。

 わたしは赤ちゃんになったつもりで、全部ぜんぶ、彼に任せてしまいます。


「わたしが動いたほうがいいんじゃない?」

「ぼくが定期的に動かすから問題ないよ。きみは、楽に横になってて」

「ごめんね。……あっ」

「痛かった?」

「ううん平気。お風呂あがりですこし敏感になってるのかも」


 しばらく彼に身体を触ってもらうのが日課です。

 愛のマッサージ、とわたしは心の中で名づけました。

 彼は飽きもせず、本当に慈しみの表情で、毎日わたしに尽くしてくれます。


 もう、彼なしでは生きられる気がしません。


「わたし、ダメになってる。あなたと別れなきゃ、人間としてダメになる。婚約破棄させて……」

「きみはダメなんかじゃないよ。愛らしさのかたまりだ。ぼくはずっとそばにいたい」

「婚約破棄、させて……」

「もう離しはしないよ」


 彼の唇で、唇をふさがれました。

 それ以上、わたしは言葉を続けられません。


 でも、もういいの。


 本当は、すでに引き返せないことをわたしはわかっているのです。


 最後に体重計に乗ったのはいつだったでしょう。

 120キロの上限を超えたわたしは家庭用では計れなくなってしまい、それからもう、どれほど増えているのかわかりません。

 倍か、それ以上はあるような気がします。


 彼がそばにいてくれなければ、トイレもお風呂も、何ひとつ自分ではできなくなりました。

 身体がぶよぶよで、お腹と腕以外、わたしからは見えないのです。


 背中にはきっと、床ずれがあります。

 さっきもお風呂で気になりましたが、彼がきれいにして薬を塗ってくれたので、今は大丈夫。

 ベッドから動かないわたしの身体を定期的に動かして、床ずれしにくくしてくれます。


 こんな醜いわたしになってしまったのに、彼は、全力で褒めて、かわいがってくれるのです。

 本当に心からの愛を感じずにはいられません。

 恥ずかしいので詳しくは言えませんが、夜の営みもちゃんとあります。


 彼は人とは違う美的感覚を持っているのでしょうが、それも含めて彼という人間です。

 わたしは彼から離れることができないし、彼も、わたしを手放したりはしないことでしょう。


 これ以上の溺愛はないと思います。

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