第4話


 聖堂の中はもう結婚式という状況では無くなった。招かれた人々は突然の出来事に怯え、壁際へと寄っている。

 突き飛ばした新婦のフェディエアは、彼女の父に抱き抱えられて聖堂の隅にいる。どうやら無事らしい。

 父上も母上も青ざめた顔で俺を見ている。友人のエクアドが椅子を手に持って構えている。結婚式に帯剣する訳にもいかず、手元に武器が無いのだから椅子ぐらいしか使えるものが無い。

 聖堂の中、祭壇の前で、黒い大蜘蛛が上に覆い被さり、その腹を下から見上げるだけの俺には何もできない。まったく、なんて結婚式だ。


「ダメーーー!!」


 少女の声? 何処から聞こえた?


「カダール、ゼラの!」


 黒い大蜘蛛が身をずらした直後、俺は少女に抱き抱えられた。濡れたように輝く黒い長い髪、褐色の肌、妖しく薄く光る赤紫の瞳の、綺麗な少女に抱き締められて、ちょっと待て、誰だ? この子は? こんな子供が式にいたか? 大蜘蛛に近づいたら危ないだろ?

 そのまま俺はヒョイと軽く持ち上げられて、え? こんな少女が大の大人の俺を軽々しく?


「よいっしょ!」


 見知らぬ少女が一声かけると、俺の身体は宙に浮き上がる。その子が俺を抱えたまま、割れた天井の大穴を抜けて、聖堂の屋根の上に?

 なんだこれは?


 視界がおかしい。街の屋根が、街の建物が凄い勢いで移動している。いや、移動しているのは俺の方か。

 見知らぬ褐色の少女は俺を抱き抱えたまま。そう、俺は男として、生まれて初めて少女にお姫様抱っこされている。有り得ない事態に頭がついて行かない。

 俺をひとり軽々と持ったままその少女は、街の屋根から屋根へとヒョイヒョイとジャンプしている。なんて怪力だ。

 その上、その少女は、その、すっ裸だった。お姫様抱っこされる俺が少し見下ろせば、その、なんというのか、少女の胸が俺の視界に、ジャンプする度に弾む立派な褐色の双丘が、目に入ってしまう。


 待て、待て待て、落ち着け俺。これまで命の危機をなんとか乗り越えて来たんだ。冷静に、冷静になれ。女の胸に意識を奪われている場合じゃ無い。


「止まれ! 止まってくれ!」

「ウン」


 俺の言うことにあっさりと少女は動きを止める。


「……下ろしてくれないか?」

「ウン」


 煉瓦屋根の上にそっと優しく下ろされる。俺をまるで大切なもののように扱ってくれている。

 屋根の上に立ち、褐色の少女をよく見れば、その異形がやっと視界に入る。

 大きな黒い蜘蛛。黒く艶のある短い体毛に覆われた蜘蛛の身体。その頭のあるところから裸の少女の上半身が生えている。蜘蛛の身体が大きく、馬に乗った人を見上げるように背は高い。だが、上半身だけは十四、五のほっそりとしたあどけない少女の姿。一見不気味でありながら、不思議とバランスが取れているように見えるのはどういうことだろうか。

 一流の彫刻家が正気と狂気の境目で作り上げた、黒い芸術のように目を奪われる。

 抜けるような青空の下で、下半身が大蜘蛛の少女が屋根の上に立つ。道行く人がこちらを指差して騒ぎ出す。

 褐色の魔獣の少女は、濡れたように艶やかな赤い唇にほほえみを浮かべて、赤紫の瞳が俺を見ている。なにか、懐かしいものを見るように。

 下半身が蜘蛛、上半身は女の魔獣。


「お前は、アルケニー、か?」

「ウン!」


 コックリと頷く仕草はあどけない。

 アルケニー、目撃例は少ないが凶悪な魔獣と伝えられている。知能は高く狡猾、魔法を使いこなし、女の上半身で男を誘惑して食らうという、人食いの魔獣。

 武器は無いかと腰を落として手で腰に触れるが、結婚式に出る新郎が剣もナイフも持ってるはずが無い。刃物というのは縁を切るものとして、結婚式に持ち込むのは不吉な代物だ。今の俺は丸腰、危険な魔獣を前に武器は何も無い。

 しかし、このアルケニーは俺の言うことを聞いてあっさりと俺から手を離した。屋根の上だから簡単には逃げられはしないが。

 話の通じる魔獣など会うのは初めてだ。


「アルケニーが何の目的で俺を拐う? 食うつもりか?」

「ゼラ、カダール食べない。カダール、女とツガイなる。ゼラ、ヤダ。それダメ」

「どういうことだ?」


 褐色の少女はキョトンと首を傾げる。赤紫の大きな瞳がパチパチと瞬きする。敵意は無いのか? 無防備に肌を晒している。頭ふたつくらい俺より背が高い裸の少女を見上げると、その、立派な胸が、褐色の肌にポツンとふたつ浮くピンク色が視界に入ってしまう。

 何をするか解らないアルケニーからは目が離せない。だが、騎士としては裸の少女をまじまじと見つづけるのはどうか。

 俺は上衣を脱いでアルケニーに投げる。


「胸を隠してくれ」

「?なんで?」


 アルケニーは両手で俺の結婚式用の上衣を抱えて、顔を近づけてスンスンと匂いを嗅いでいる。アルケニーは知能が高いと話には聞くが、子供でも相手にしているような気になる。

 魔獣が街に現れて俺を拐う?

 俺が女とツガイになるのはダメ、とか言ったか?


「お前は、結婚式を邪魔しに来たのか?」

「ケッコンシキ?」

「お前は何がしたいんだ?」

「ンー、ンー?」


 アルケニーは眉を寄せて困った顔で首を傾げて考えている。俺の上衣を胸にしっかと抱き締めて。胸が隠れて見えなくなったのはいいが、その動作は妙に可愛らしい。なんだこの魔獣は?


「ゼラ、言葉、話せるよになた。カダール、お礼、言う。言うたくて、来た。そしたら女、カダールと一緒、それはイヤ」


 アルケニーは悲しそうに目尻を下げる。


「隠れてこっそり、つもり、でも、ガマンできず。このまま、ダメ、思たら、つい、ゴメンナサイ」

「俺にお礼を言いたくて、来たというのか? それで結婚式を見たらガマンできずに天井から飛び込んだというのか?」

「ウン! ウン!」


 昔から妙に蜘蛛とは縁がある気がするが、アルケニーに拐われて結婚式を中断することになるとは。俺にお礼だと?

 アルケニーは右手で俺の上衣を抱き締めて左手をパタパタと振り、蜘蛛の足がワキワキと動いて屋根を引っ掻く。


「ゼラ、がんばった。ゼラ、がんばって言葉、憶えたの。人の言葉、むずかし?」

「ゼラ、というのがお前の名前か?」

「ゼラはゼラ。カダール、くれた名前。大事、名前、ゼラ、カダールの」


 俺がくれた? 名前を?


「やっと、言える。カダール、ゼラ、助けたくれた。ありがと。恩人、ありがとう」

「俺が、お前を助けた?」

「むかし、ずっとむかし、ゼラ、カダール、ちっちゃい」

「ちっちゃい頃に、俺がお前を助けた? 俺はアルケニーに会うのは初めてだぞ? 憶えが無い」

「ちっちゃいの、昔、ちっちゃいの」

「いや、どれだけ小さくとも下半身蜘蛛の女の子と会った記憶は無いんだが?」

「ちっちゃいの、アルケニー、違う。ちっちゃいの、ゼラ、タラテクトのとき」

「タラテクト?」


 タラテクトもまた森に棲む蜘蛛の魔獣。だが、危険度はさほどでも無い。犬か猫のようなサイズの蜘蛛で雑食。動きは素早く毒は無い。

 タラテクトは見た目は大きな蜘蛛だが、そこから女の上半身とか生えて無い。

 

「俺がタラテクトを助けた?」


 記憶を探りながら呟いた言葉に、アルケニーはビクッと肩をすくめる。


「カダール? 忘れたの? ゼラ、忘れたの? ゼラ、憶えてる。カダール優しい。助けたくれた。ご飯くれた。背中、撫でてくれた。カダール、忘れた? う、あえぇ」


 赤紫の瞳からポロポロと涙を流すアルケニー。上半身は本当に人間のようだ。人間の子供のように表情は豊かだ。


「お、おい、泣くな。なんで俺が泣かせたみたいになるんだ?」

「あえ、えぇ。ヤダ。カダール、ゼラ、忘れた、ヤダぁ、あえええええん」

「忘れたというか、憶えが無いというか」

「ゼラ、ゼラはゼラ。カダール、ゼラのことゼラって、あええええん」

「落ち着け、泣き止んで落ち着いて話をしよう」


 アルケニーは上体を屈めて俺の顔を覗き込む。赤紫に薄く輝く瞳。その色は我が家の庭に咲くゼラニウムの花弁のような赤紫。

 下半身の蜘蛛の足の方を見る。このアルケニーも右の一番前の足が一本欠けている。

 足の一本欠けた蜘蛛。赤紫の花弁のような色の目。タラテクト?

 もう一度アルケニーの顔を見る。まだ目尻からポロポロと涙を溢している。その宝石のような赤紫の瞳。

 形は違うが色は同じ。


「ゼラ、だよ?」

「お前、まさか、あのときの?」



 

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