第3話「将棋は投げても、人生を投げるな」


 ぼくと佐竹は、将棋部の部室にいた。将棋盤を間に挟み、ぼくらは相対していた。

 ぼくはチェスクロックをいじり、

「一手五秒でどう?」

 と尋ねる。佐竹は少し呆れた様子で、

「それ、あなたの方が不利じゃない?」

 と言う。どうあっても、ぼくと佐竹は手合い違いだ。不利だ、有利だというのなら、戦う方が間違っている。

「慎重さで勝てるくらいなら、昨日、勝ってるよ」

 ともかく、彼女はそれで了承した。

「「お願いします」」

 先手はぼく。初手▲2六歩に対して、佐竹は△8四歩で、お互いに飛車の頭の歩を進出させていく。鏡合わせの盤面を見て、、ぼくは戦法を決めた。▲2五歩△8五歩と、さらに歩を伸ばし、攻撃の準備を進めていく。本来ならここで一旦、手を止めて、守りを固めるべきなのだが、ぼくは△2四歩、と飛車先の歩を相手の陣にぶつけた。

「は?」

 と佐竹の口から、声が漏れる。

 この手は初心者向けの本に必ずといっていいほど書かれている手筋だ。これだけはやってはいけない、とされ、五手爆弾の異名で知られている大悪手。ぼくはそれにあえて、踏み込んだ。悪手だからこそ、そんな手を研究する奴はいない。そう読んでのことだった。

「勝つ気、あるの?」

「これくらいの無理じゃなきゃ、通らない」

 彼女は挑発に乗り、同歩と取り返さず、ぼくと同じように△8六歩と飛車先を突き、さらに激しい定跡に合流してきた。

 これはお互いに敵の陣地の乗り込んでいったと金で、相手のはらわたを食いちぎることになる。もちろん、角、金、銀と取っていけば、先手が先に王手をすることになり、後手、つまり佐竹の不利になるので、どこかでと金を追い払わなければならないのだが……。

 佐竹はすぐに、角を取った手を取り返した。互いに角行と飛車の大駒を取り合う激しい変化。この流れなら、ぼくの方がわずかに有利だ。あとは、力任せの殴り合い、腕力勝負だ。

 駒音が高く鳴り、チェスクロックの秒読みが響く。ぼくは将棋にのめり込んでいった。


 日が落ちた宵闇の帰り道、凍えるような向かい風が吹いていた。ぼくと佐竹は横並びで前を向いて、歩いていた。

「小さい頃、祖父に散々叱られ、しごかれて、もう将棋なんて指したくないと言って、蔵に閉じ込められたことがあるの。中は真っ暗で、かび臭くて、古い家や骨董品にありがちな、独特の気配に満ちていたわ。母だって、不気味がって近寄らないような場所。そこで私はずっと泣いていたの」

 ぼくは黙ったまま、佐竹の話を聞いている。彼女は淡々として、感情のない声を紡いでいく。

「夢を見たわ。誰かが私を救ってくれる夢を。その人は、私を連れて、将棋のない世界に連れて行く。もちろん、おじいちゃんは怒って、追いかけて来たわ。でも、彼はおじいちゃんとも戦って、そして、認めさせてくれたの。私はもう将棋をやめるって」

 けれど、そんな未来はやってこなかった。

 御子柴諒が亡くなったのが、三年前。彼女が三段リーグ入りを果たして、すぐのことだ。そこから、佐竹の長いスランプは始まった。いや、スランプなんてものじゃない。彼女の将棋を指す理由が、そこで死んだのだ。

「私はいつまで指し続けなければいけないの。プロになるまで? でも、プロになれなかったら? プロに……なってしまったら?」

 そんなに苦しいのなら、やめてしまったらいい、などとはぼくには言えない。諦めた先はまた新しい地獄だと、ぼくは知っている。いつまでも付きまとうものだ。もしあの時、続けていたら、という後悔が。

 遠いところから、轟々と風の激しい音が聞こえてきていた。風には湿っぽいかおりが乗り、もうすぐ雨が降り始める。

「将棋部に、入ろうと思う」

 佐竹が立ち止まり、空を見上げた。

「佐竹も一緒にどう?」

「私を……誘う理由は何?」

「もう一度、将棋を指そうと思うんだ。今度は勝つ将棋じゃなくて、今日みたいな自分が指したい将棋を」

 負けて悔しいのは当たり前だ。その当たり前を積み重ねていけなかったのは、決して弱さが原因じゃない。積み重ねていく土台、ぼくが目指す場所が、初めからなかったからじゃないのか、と思うのだ。

「あなたも、そうなのね」

 次に続く言葉を、ぼくは知っていた。

「あなたも、将棋が好きで好きで仕方のない人たちと同じなのね」

「――それは違う」

 佐竹がこちらへ振り返る。

「もう一度、将棋を好きになりたいんじゃない。今までの自分の人生を取り戻したいんだ。それが、佐竹とならできるんじゃないかって」

 将棋を失っても、それまでの人生が無駄じゃなかったと思いたい。だけど、今のままじゃダメだ。だから、もう一度だけ……。

 今日、佐竹と指した将棋は、そんな可能性をぼくに見せてくれた。

「私に負けたくせに?」

「勝ち負けじゃない。楽しいとか、楽しくないでもないんだ。もっと違うもの。それを一緒に探さないか?」

 ぼくは佐竹に向かって、手を伸ばす。風が強く吹いて、前を向くのも一苦労だった。顔の前に手をかざし、祈るように佐竹の言葉を待った。

 ふと、風の勢いがやわらいで、小指の先に、温もりが触れた。

「信じてもいいの?」

 ぼくは、大きく息を吸い込み、頷いた。


 平紗綾人。おじいちゃんと将棋を指す、唯一の同い年。彼の指しこなしはなめらかで、のびのびとした彼の攻めは、私の憧れだった。綺麗な棋譜は、やがて私の宝物になり、いつか、彼と対局してみたい。そんなささやかな願いが、私の将棋人生を小さく支えた。

 将棋部の部室で、彼が名前を名乗った時、運命を感じなかったといえば、嘘になる。私はこの時をずっと待ち望んでいたのだ。

 対局を終えて、私は涙をこらえるのに必死だった。先輩に挨拶もせず、一直線に家に帰った。私には、救いなど一つも残されていない。そう突き付けられたようだった。彼が、私を救ってくれるんじゃないか、という淡い幻想は潰えた。だけど、

「将棋部に、入ろうと思う」

 その一言から続いた言葉を、信じてみたいと思った。死人のように将棋を指し続ける自分を、変えたい。私が将棋を指す理由を、見つけてみたい。だから、私は彼が伸ばした手に触れた。しっかりと握ってみせる勇気は、まだ持てないけれど。

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死者の棋譜 ~投了はまだ詰んでない~ 茜あゆむ @madderred

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