第10話 元許嫁からの伝言

 妹の須恵がこんなところまでくるのは、初めてではないか。

 少なくとも軍平のいる間に顔を見せたことはない。兄としての体面を思い出し、泣きそうだった気分が消しとんだ。「お、お前こんなところに、いったい」

「なにもすき好んで、こんな朝早くに出てきたのではありませぬ」

 そっぽを向いて須恵は言った。「ぜひに、と頼まれたのです。あのお方の頼みなど、断れません」

「誰のことだ」まさか、執政の誰かではないだろうな。須恵は混乱する兄の様子を見て、少し得意そうな顔をした。

「昨日のことです。わたくし円福寺に参りました」

 円福寺というのは藩主家の菩提寺でもあり、国で最も格式の高いとされる寺である。祖父の代に、当時の藩主の声がかりで宇藤木一族の墓を新たに設けた。望んで檀家に加われる寺ではない。だから義母は墓参りとなるといそいそ円福寺に出かけ、多少の見栄を満足させている。


「ふむ。墓参りか」

「違います。お花の稽古」

 武芸十八般というが、妹は負けないぐらい実にいろいろな習い事をしている。むろん経費はすべて軍平持ちだ。

「来年の正月に、京から大先生がおいでになります」

「この前、えらい検校がくるというので金をむしり取られたのは……」

「それは琴。もうっ、黙ってお聞きなさい」

 来年早々、京から師匠の師匠にあたる僧がやってくるのに合わせて、円福寺において大掛かりな催しが開かれる。それに先立ち、現役の弟子以外にも、過去に習っていた先輩たちを一斉に集めた合同稽古が行われたのだという。

「そこに、わたくしを訪ねてこられた方がいました。どなたかおわかりですか。普段めったにお顔を見せられぬので、お師匠まで少し驚かれていましたよ」

「しらん。産品所では花も扱っているからな、俺を知っている花屋か。恨まれるような覚えはないが」

「山岡の」須恵はじっと兄の目を見た。「津留さまでした」

 兄が棒を飲んだような顔になったのを見て、須恵は満足そうに笑った。


「ね、驚いたでしょ」亀とカネがうんうん、とうなずいている。

「それでね、津留さまは事情があってなかなか外に出にくく、ましてこの家や御産品所にはおみえにはなれない、今日が機会だったからとおっしゃって」津留は袱紗に包んだものをとりだした。

「これをわたしに託されました。お兄様にお渡しくださいとのことです。昔、おじいさまが津留さまに差し上げたものだそうですよ」

 特に軍平に覚えはなかった。というよりも、祖父は津留をいたく気に入っていて、実にさまざまなものを贈ったり譲ったりしていた。

「でもわたし、ほんとうにびっくりしました。すてきな方とは聞いていましたが、津留さまがあれほどお美しいとは誰も教えてくれなかったもの」

「そ、そう?」返事の声がうわずった。

「ええ、そりゃもう。わたしの仲良しのひとたちとか、一体どなたって、騒ぐこと騒ぐこと」

 津留と須恵では、現在の家格に加えて歳が三つ四つ違い、普段から接点はほとんどないはずだった。

「すらっとしていて、あたりがいっぺんに明るくなるほど色が白いの。それに」妹はやや声をひそめた。

「すぐ近くでお見かけするまで、あれほどお背の高い方とは知りませんでした。たしかに兄さまぐらいないと、釣り合いがとれませんね」

 横でカネが「そうでしょうとも、そうでしょうとも」とつぶやいた。


 須恵が大事そうに持つ袱紗から出てきたのは、大ぶりな根付だった。

 見ると、木枠のなかに石を刻んだものが組み入れてある。とても変わった、店で売っているものとは思えない図柄だ。軍平は触れないままじっと観察した。

「これは、魚かな」

 相当古いと思われる石の彫刻は、かなりすり減っていている。全体の形とうろこらしき模様のあることから、魚と思えた。あまり写実的な描写ではなく、稚拙にすら思えてしまう。祖父の兵部は、どこから手に入れたものだろう。

「たぶんきっとお魚でしょうが、津留様もご存知ないんですって。小さい時、うちのおじい様が下げておられたのが珍しく、しげしげと見ていたら渡されたのだそうです。災難よけのお守りだから持っておくがよいって」

「災難よけ……」ごく小さなひっかかりが記憶の底にあった。


「ええ。なんでも津留様、これに助けられたことがあるとおっしゃっていましたよ。またいつかお会いする機会があれば、兄さまにもお話してくれるそうです」

「でも、なんでいま、これをわたしに」

「いまこそお宇藤木様にお返しすべきだ、それもできるだけ早く、と思ったとだけおっしゃいました。だからわたしもわざわざ、急いで持ってきてあげたのです、えらいでしょう。でも、ほんと、なぜかしら」妹は、いまごろになって首をかしげてみせた。

「とっても真剣そうなお顔だったから迷わず従ったけど、詳しい理由の説明はありませんでした。あんがい、お輿入れが決まって棚ざらえしてたりして」

 カネと亀が顔をしかめた。

 軍平の胸が突然苦しくなった。三人の顔色の変化に、

「いえ、冗談ですよ、冗談」さすがの須恵も、あわてて訂正した。「とにかく、兄さま、これを」


 差し出された根付を無意識に受け取ろうとした軍平は、

「あっ」

 電気に触れたような衝撃を受け、あやうく落とすところだった。

「もう、しっかりしてくださいよ」須恵は怒ろうとして、軍平の表情の変化に口を閉じた。いつもはとぼけた雰囲気の兄の顔が、厳しく引き締まっている。

 自然と背筋を伸ばした軍平は、屹立する大木のようになった。その姿を見たカネが小さく口を開けっぱなしにして、

「……殿様」とつぶやいた。彼の祖父、兵部に対する呼び方だった。


 軍平の脳裏に、いっせいにさまざまな情景が、音が、匂いが浮かび上がり、また消えた。

「そうか……」一斉に蘇ってきたのは、自ら封じていた記憶だった。

「おれは、忘れようとして、忘れたのか」

 ひとりごとを続ける軍平の顔を、探るような顔つきで須恵は見つめた。

「おかしな兄さま。いつも変だけど、今日は特に変」


「そうだ、菩提寺。おれは行かねばならん」

「え、菩提寺は円福寺でしょ。なんなら代わりに行ってきてあげましょうか。駄賃はお安くしておきますよ」

「いや、別にあるんだ」

「ふーん。あ、そうそう。それともう一つご伝言」疑わしげに兄を眺めていた須恵が、

「もし、お探し物が見つからぬなら、まず流雲寺をおあたり下さいって。流雲寺って、あの山際の古いお寺かしら?和尚様が怖い顔だし、あそこだったらお使いは嫌だな」

「そうだ」軍平はうなずいた。津留も知っていた。流雲寺に、いま軍平の見るべき伝書はある。津留の託した根付に触れて、目の前の霧が晴れたような気がしている。ただし、その先に黒々とした雲が横たわっているのもわかっている。できることはすべてやって、危難に立ち向かわねばならない。

 顔をあげると、まだ須恵がこっちを見ている。

「なんだ、おれの顔になにかついてるのか」

 妹は肩をすくめた。町娘のような振る舞いに亀が怖い顔をしている。須恵はかまわず、

「それより、安心しました」と言った。「兄さまとあの津留様との間には、なんていうか、ちゃんとつながりがあったんだなあって。ずっと兄さまの勝手な思い込みだと疑ってたし、お気の毒だなあって思ってもいたのよ、やっぱり残念じゃない。報われない恋なんて」

 この正直な言い草には、カネも亀もあきれた顔になってしまった。



 流雲寺は、実家とカネの家のおよそ中間に位置する。役所へ休みを知らせるのを頼むと、軍平は寺に急いだ。

 義母たちが墓参にゆく見せ墓とは違い、苔むした累代の墓は別にある。その流雲寺は、昔の城あと近くにあった。祖父はそのあたりの風景が好きで、幾度となく小さな軍平を連れてきた。

 根付に触れた途端、思い出したのは、死の直前に祖父が軍平だけに遺したいくつかの品がここにあることだ。

 常に小遣いに窮している父が、息子の受け継いだ物を金目のものと誤解し、こっそり探す気配があったので、軍平自身が急いで預けて隠してもらった。

 その時、宗仙という住職からは、「お前のじいさんからあずかったものは、まだ他にもあるぞ。覚えておいてくれ」とも言われたはずだった。

 

 寺へのみちみち、早朝の須恵の言葉を思い出していた。

 津留が突然、根付を持って現れた背景には上意討ちがあるのかもしれない。

 むろん、須恵の言ったように結婚のための身辺整理とも考えられるが、祐筆職にある津留の父親は家老とは近い。

 義母にまで知れ渡っているのだから、彼女が軍平にふりかかった難題を小耳にはさむことは十分ありそうだった。

 それより、津留の心にまだ軍平の記憶の残滓があるとわかったのが、意外でもあり嬉しくもあった。

 すっかり忌避されていると思い込んでいたからだ。

 

 早朝の妹との会話をまた思い出していた。須恵がはじめて会った津留は、能面も顔負けの彼女のことだから、軍平に対する感情など表情からさっぱり読み取れなかったようだ。

 それでも、誰に似たのか妙に繊細なところのある妹は、

「みなが思っている兄さまと、津留さまが知っておいでの兄さまは違っているみたい」と言った。

 須恵は、軍平と津留との因縁は知っていて、なおかつ下らないと思っていたと正直に語った。

「兄さまはずっと引きずっておいでですけど、だって、ほんの子供のうちになしくずしに決まり、ただの剣術の試合をきっかけに消えてしまったほどの話でしょう。津留さまにとっては、古証文どころか古い反故紙みたいな話だろうと思っていました。わたしだったら絶対そうだもの」

 ひどい言い草だと思ったが、他人からはそう見えるだろうとは、軍平にもよくわかっていた。だから旅の商人のことで冷やかすのはやめにした。


「立派なお家柄ですから縁談は引く手あまただろうし、もっと条件のいい方と新しい思い出をさっさと作っておられると、お会いするまでは考えておりました」

 妹は挑発的な顔をした。

「でも、いまは違います。わたしの見るところ、津留さまにとって兄さまは消したい過去の染みとか恥ではありませんね。昔むかしに燃え盛った恋の熾火でもないでしょうけど」

「なにを言いたいんだ。また、灘町で変な芝居でも観たのか」 

「そうですねえ、どう言い表したらいいか」須恵は首をひねった。「感じたのは、あのお方は、いままさに何かと戦っておられるのじゃないかって」

「戦っている?」

「ええ。津留さまって、女らしくてお優しい、虫を見たら声をあげて逃げるような方と思い込んでいました。いえ、お姿や物腰は上品でお美しいですよ。でも、女々しくなんかない。とても勁いひとです」

 虫は得意だったなと思っていると須恵は、

「わたしへの語りかけも、むかし因縁のあった男の妹に向かってのそれじゃなかったし、むろん落ち目になった相手への侮りもなかった」と言った。「正直ついでに言うと、はじめはね、べたべたとつまらないお愛想を言ってこられるんじゃないかと身構えてしまったんです。でも違った。淡々としながら堂々として、おしつけがましくない。戦さ場で仲間の弟にねぎらいの声をかける武人ってこんな感じかなって思っちゃった。かっこよかったあ。兄さま、わたしあんなお人の妹になりたい」


「……ただ、急いておられただけはないのか」

「供を待たせておられて、ごゆっくりはできなかったようですけどね。でも、あんな素敵な方に声をかけられたのがうれしくて、ついお引き止めして『ほかに兄にお伝えすることはありますか』って聞いちゃった。そしたら津留さま、しばし考えられてから、『お兄様はお忘れかもしれないけど、以前に私のしたつまらない意見を、とても後悔しています』って。いえ、婚約の話じゃないですよ。なんでも兄さまがこれまでと違う技の修行に取り組むかどうか迷っていたのを、反対されたのですってね。次にお会いしたとき、それだけは謝りたいっておっしゃっていました。どんな技か、わたしにも教えてくださいよ。おもしろそう」


 軍平も思い出していた。妖術についての記憶が一部欠け、修行の進んでいなかったのは、そのせいだ。

 たしかに津留は反対したが、それは彼女のせいではない。妖術に身を捧げるのが怖かった軍平が、津留から肯定してもらっただけなのだ。忘れることを選んだのはあくまで彼である。それに津留は、まだほんの子供だったはず。津留がそれを悩んでいたら、まことに申しわけがなかった。


 祖父が亡くなって、間もない時のことだ。

 心の支えを失った軍平は、たまたま会った津留に、これからの身の振り方について相談してしまった。もちろん妖術とは明かさなかったが、祖父の伝え残した技があり、それを一から修行しようか迷っている、と。

 まだ、ほんの子供だったのに、津留は落ち着いた表情をしてそれを聞き、

「それは、厳しい修行なのですか」と穏やかな口調で尋ねた。

 軍平は、これまでとはまったく異なる技であり、祖父さえも伝授を躊躇していた。そのために他国に旅に出ることになるかもしれないし、もしかするとことが成ったあかつきには少々人がわりがするかも知れない…などと伝えた。

 津留は目を伏せてしばらく思案したのち、期待通りに反対の意を伝えてくれた。

「わたくしが、同道できるようになってからではいけませぬか」

 だから、彼は天下晴れて妖術に身を託すのを後回しにしたのだった。

 あの時点で妖術と縁を結んでいたら、十代で妖術を使いこなせていれば、どんな人物になっていただろうかと軍平は考えてみた。

 おそらく、いまより自信にあふれていたろうし、失地回復の末に若くして出世していたかも知れない。

 恐れをしらぬそのかわりに、傲慢で冷酷な、弱い者の気持ちなどわからぬ人間となっていただろう。

(たぶん、上意討ちなど、すぐ人に押し付けたろうな)

 祖父の兵部は、峻厳な貌の下に人らしい温かみを隠していて、いまでも時々、思いもかけない相手から感謝を伝えられることがあった。軍平がそんな男になれたかは、心もとない。


 昨日、須恵に伝えられた津留の言葉によると、彼女もまた祖父の兵部を誰より尊敬し、亡くなったことに強い衝撃と悲しみを憶えた。

 だから、「兄さまにまで何かあれば大変だと思い、危ない修行を止めるようにおっしゃったそうですね。兄さまは津留さまの言うことはなんでも聞く人だったから、分かったと言って」彼女の言葉を受け入れ、その後二度とその件に触れなかった。

 しかし、道理のわからない津留が、不用意に漏らした意見のせいで軍平が大切な飛躍の機会を逸したのではないかと、「このごろ気になってなりませぬ」と言ったそうだった。

 祖父の死後、運気はくだりっぱなしだというのは、互いに共通の認識であるのだな、と軍平は思った。


 あの日、軍平と津留は、刀を使って金打をうつかわりに、祖父の根付に指を強く当てて音をならした。翌日になると、そんなことをしたことすら忘れていた。それ以来、妖術について考えるのさえ嫌になってしまった。  


 彼の目指している流雲寺には、役に立つかは全くわからないものの、祖父の残した妖術の伝書があるはずだ。先祖伝来の剣術の伝書なら軍平が受け継いだが、たいしたことは書いていない。しかし菩提寺に行けば、あの祖父が自ら記した伝書と、謎の道具があったはずだ。

 住職は祖父と懇意だった人物で、軍平も面識がある。

 あの和尚様なら、藩からの追手はともかく、義母やその親戚程度なら口先で追い払ってくれるだろうから、寺にこもって伝書をじっくり読むのもいい。もし伝書がなくなっていたら、寺からそのまま、逃げるのもいい。そう考えると先日からの気鬱が少し楽になるような気がした。



 

 

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