第16話  やっとお前を抱けるぜ



ラルポアは元々人の多い美術館にラナンタータを連れていくのは気が引けていた。ラナンタータが窓から飛び出そうとしている場面に遭遇したからこそ、美術館へ行きたいと言う嘘を信じたふりをして街に出たのだ。最初からカナンデラの事務所に行くつもりなのはわかっている。アントローサ警部に禁止されていたが、家にいても襲撃を受けるのなら、カナンデラと共に守る方が安心できる。




アントローサ警部はラナンタータのことで頭を悩ませていた。3人の侵入者は口を貝のように閉じている。ウタマロで捕らえた男は自決して、ヴェルケラピスと目される2人は死んでいた。その上、精神病院から通報があった。


「イサドラ・ナリスが逃げた。精神病院を抜け出したそうだ」



アントローサ警部の声に弾かれるように刑事部屋が動いた。


「イサドラ・ナリスって、あの花屋夫婦殺人事件の」


「あれ……さっきのブガッテイの女……やけにいい女だったけど……」


「イサドラ・ナリスだ」


「一緒にいた男は……」



アントローサ警部は若い刑事に訊いた。


「何処で見た」


「カイマとアベロの劇場から出てくる処を……其のカイマとアベロが発疹を起こして病院行きなんですが、酩酊状態なので電解物質とかいうやつを打って暫く様子を観るとか……昼後に訪ねようと思っていた処です」


この時代にはリンゲル点滴はまだ一般化されておらず、発明家リンガーは各地の大学を放浪して其の考えと仕組みを広めていた。


「病院に連絡してみろ。何かあったら間違いない。イサドラ・ナリスの仕業だ。いや、イサドラ・ナリスが噛んでいるに違いない。皆、よく聞け。イサドラ・ナリスは指命手配だ。精神病院の女医殺害事件だ。イサドラ・ナリスは女医の舌を噛み切って拘束服で入れ替わった。逃亡者を連れ戻し、裁判を受けさせろ。もう精神病では通用しないと思い知らせるんだ」


やおら士気が上がる。行く先々で検討のつかない殺人事件と急死が重なっていた。デルタン通りの凄惨な殺人事件も、犯人に繋がる情報はない。



「あっ、警部。イサドラ・ナリスと一緒にいた男はびっこを引いていました。デルタン通りのアパルトマンの女の首をへし折った犯人と重なります」




其の男は、指命手配されたイサドラ・ナリスとサニーと共にボナペティのテーブルを囲んでいた。サングラスの3人組なんて珍しくもない。ボナペティは其の筋の者たちも多く利用する。




「あ、アランちゃん。なんか用ぉ」


カナンデラは似合わない女っぽい言い回しで電話を受けている。


ラナンタータとラルポアは其々の定位置に着いた。ラナンタータは窓際に立ち、外を眺める。ラルポアはカナンデラの一人用ソファーの肘掛けに腰を下ろした。



「何、イサドラ・ナリスが来た。常連だったのか。わかった。何、撃ち合いだと、何でまた、わかった。直ぐに行く」



電話を切りしなカナンデラはラルポアに笑いかけた。


「いい処に来てくれたよ、兄弟」


ラルポアが立ち上がる前にラナンタータはドアを開けている。




ボナペティは騒乱の最中にあった。イサドラが来ているとホール係りから聞いた厨房の者たちが、ドアの隙間から客席を見た。ジェイコバを見た途端に顔色を変えた若者が、包丁を掴んで客席に飛び出した。若者がジェイコバに切りかかる前に上がった女性客の悲鳴で、イサドラとサニーが異変に気づいた。ジェイコバがテーブルナイフを持つまでに時間がかからない。


其の筋の者たちが立ち上がる。ピストルがジェイコバと若者に向けられた。


「俺たちは静かに飯を食いたいんだ」


「この男は殺人犯だ。デルタン通りの女の首をへし折った犯人だ」


「本当か」


「人違いだ。犯人が俺に似ているのか」


「嘘を吐くな。よくもゼンマを殺したな。俺たちは将来を約束していたんだ。お前が殺したんだ。お前だ。お前を殺してやる」


「人違いだ。いい加減にしろ」



イサドラとサニーが立ち上がる。ジェイコバの袖を引いて店を出ようと促す横に、ピストルが火を吹いた。天井の電球が割れる。複数の悲鳴が上がった。



「J、お前は……覚えているか」 



ウタマロの常連客で、舌を噛んで自決した男の弟だ。ボナペティに全てが集結する。ラナンタータとカナンデラとラルポア。そしてアントローサ警部率いる刑事部の面々とシャンタンの手下。


ジェイコバはテーブルを投げつけ、イサドラとサニーは急いで店の入り口を目指した。ジェイコバは椅子も投げた。ピストルが火を吹く。きゃあっと言う悲鳴がイサドラとサニーの行く手を遮り入り口に向かって殺到する。


ラナンタータが後部座席からドアを跨いで降りた時、店の中から銃弾が硝子を割って石畳に跳ねた。通りの向こうのパン屋の硝子が割れた。



「ラナンタータ、乗れ」



ラナンタータはカナンデラの声を無視して店の壁に身体を寄せた。そっと硝子窓から中を見る。カナンデラも降りて来た。


ラルポアはイスパノ・スイザを店の外れに停めて、窓の下を身を屈めてラナンタータに近づいた。


警察車両が近づく。


店の入り口から悲鳴が重なり、数人の客とイサドラとサニーが出て来た。



「ラナンタータ……何故此処に」


「イサドラ……」



ジェイコバがラナンタータの腕を掴み、あっという間に引き寄せられて、ラナンタータの華奢な身体はカナンデラとラルポアから奪い取られた。ラナンタータの首にナイフを当てて、ジェイコバは後退りする。



「よう、ラナンタータ、久しぶりだなぁ。俺様を覚えているか。アルビノ狩りのジェイコバだ」


「ジェイコバ……」



覚えている。縛られて鞭打たれた恨みがある。もう少しでカニバリズム教団ヴェルケラピスに売られる処だった。月明かりの納屋の中だったが、其の声と顔は憎っくきジェイコバだ。よくも私を鞭打ったな。


ラナンタータは盾にされた。店の中から出て来た男たちはラナンタータが人質に取られたことでジェイコバを詰ったが、ジェイコバは高笑いして石畳の表通りに出た。向かい側の空き地にブガッテイを駐車している。


ラルポアはコルトを内ポケットから出した。襲撃犯を恐れたアントローサ警部から手渡された銃だ。ジェイコバの額に照準をあわせた。



「其処の色男ピストルを捨てろ」



ラルポアはジェイコバの額から照準を下にずらす。


胸辺りはラナンタータに当たる。もっと下だ。足を狙うしかない。


警察車両が到着した。アントローサ警部が青くなる。外出禁止の娘が人質になっている。しかも……



「ラルポア、撃てっ」

と叫んだ。



ラルポアは銃を置くふりをして腰を落とし、街灯の鉄の台を撃った。跳弾がジェイコバの膝にめり込み、ラナンタータがジェイコバを投げ飛ばす。


石畳にドウッと倒れたジェイコバに男たちから銃弾が撃ち込まれた。



「止めろ。警察だ。止めるんだ」



イサドラが血塗れのジェイコバに走り寄った。



「ジェイコバ……何故こんなことに……」


「あはは……泣くな、イサドラ。神様は俺たちを見放した様だが、これでやっとお前を抱ける……」



ジェイコバは口から血を吐き、イサドラの腕の中で息絶えた。




シャンタンの元に電話連絡が入ったのはジェイコバが死んでからだ。電話を録るのは側近の務めだ。



「ウタマロの怪しい常連客だな。ウタマロはパパキノシタの縄張りだ。何、撃たれた……カナンデラ・ザカリーがいると」



シャンタンは慌てて立ち上がり、受話器を奪い取った。



「其処は何処だっ」


「ボナペティです。シャンタン会長、撃たれたのはジェイコバというろくでなしですぜ」


「あ……そ、そうか。どんな様子だ。違う。カナンデラじゃない。其処の様子だ……」



シャンタンは受話器を側近に押し付けた。



カナンデラ・ザカリーめ……

あいつをぶっ殺して俺様は男を上げるぜ。

違う、息子よ、お前じゃない。

頭をもたげるな……





「サニー、逃げるわよ」



イサドラはジェイコバのナイフをサニーの喉に当てて、ブガッテイに乗り込んだ。ルノーとブガッテイのカーチェイスが始まる。イサドラはいつも後部座席で、ジェイコバがどのように運転していたのかわからない。サニーが運転席に座り、多分こんな……と言ってブガッテイは動き出した。タイヤがジェイコバの身体に乗り上げる。そして孟スピードで走り出し、街灯に激突した。



カナンデラとラルポアはラナンタータの外出の件でアントローサ警部にきついお叱りを受けたが、揃って報償金を貰った。


ジェイコバが脱獄した地方の刑務所は問題があるとして監査が入り、管理強化されることになった。イサドラが逃亡した精神病院は、支配欲の強い女医の死によって変革が起きた。少なくとも、世界の小さな部分は変わった。


そして、イサドラとジェイコバが目指した世界を変えると言う目標は、メディアの格好の餌になった。


親殺しのイサドラの可哀想な少女時代が報じられ、イサドラ・ダンカンの偽物として一世を風靡した大スターの連続殺人に『彼女は復讐の仕方を間違えた不幸な被害者』という位置付けに収まった。


ジェイコバも不幸な生い立ちが報じられ、イサドラに加担して純愛を遂げたと称賛する者も出た。


児童買春グループ満月会Rの存在は明らかにされたが、全てが終わったわけではなかった。満月会Rは総統が亡くなって自動的に分解していた。イサドラが仕留め損ねた残りの会員については、イサドラの回復を待つしかない。


そして誰もが口をつぐむカニバリズム教団ヴェルケラピスについては、アントローサ警部の手元に教団メンバーの記念写真と思われる額がある。


不振な死を遂げたメンバーの他は全て行方を眩ませ、事情聴取ができず、教団に対する警察の介入を拒むものとなっている。従って、組織の存在はメディアに出たものの、残りのメンバーに於いては名前を公表していない。


闇の帝王シャンタンの傘下組織の構成員が、ジェイコバ殺害の罪で逮捕送検された。



カナンデラはため息を吐いた。



「これで一連の事件も終わったみたいな報道だな。裁判はまだだと言うのに」


「取り敢えず、私を襲撃する組織がバラけたってことで、外出できるようになった」



ラナンタータは分かりにくい笑顔を見せる。



「しかし、ラルポアには驚いたよなぁ。ラルポア、お前、よく撃てたな。ラナンタータに当たったらどうしたんだ。」


「どうって……」


「ラナンタータが半身不随になったり、顔に傷が付いたり……」



妹みたいに可愛いと思うが、恋愛感情ではない。ずっと一緒に育ち、守ることが指命だと感じて育った。ラルポアは苦渋の選択をした。



「プロポーズする」



カナンデラは立ち上がってラルポアを抱き締めた。



「おお、そうか、そうか、ラルポア。やっと年貢を納めるか。ラナンタータ、貰い手が居たぞ。女殺しの美形男子だ。良かったな」


「私は嫌だ。何かがあったから責任取って一生縛られますって言う奴は要らん。私は自由でいたい。だから、相手にも自由でいてほしい。私は自由が好きだ。自由に恋愛するのだ」


「ほう、恋愛する気はあるんだな。ではラルポアは止めとけ。そこら辺の女が全員卒倒するからな」


「カナンデラ所長、僕に何か恨みでも……僕はきっぱりフラれたんだけど」


「ラルポアはまだ私にプロポーズしていない。だから私はふってはいない。私はまだ誰にもプロポーズされたくない。自由でいたい」


「はいはい、ラナンタータお嬢様。お前のお陰様で報償金を貰えたから、何か奢るぞ。ボナペティに行くか」


「そうか、どうしても奢ると言うのだな。其れならウタマロに連れて行け」


「彼処はお嬢様の行く処ではないぞ。なぁ、ラルポア。お前、ちょっとしかいなかったからわからないか。しまったな。まあ、兎に角、ウタマロはまだ早い。女はアラウンド・サーティからだ」


「エロい店なんだ」


「凄いらしい。今度、シャンタンを誘うつもりだ」


「えっ、狡い。何で女はアラサーで男は18才でも良いわけ。狡い、狡い。18才でも良いなら私は19才だ。シャンタンよりいっこ上だ」


「ラルポア、お前、よくこんな我が儘お嬢様のボディーガードが勤まるな。偉いよ、今更」


「お誉めに預かり光栄です」



ラルポアは白けて答えた。

ラナンタータは口を尖らせて窓硝子に向き合い、空を眺めた。好きな時間が空の向こうからやって来る。西日が辺りを柔らかく包み、ラナンタータのチョークのような真っ白な髪の毛や色の抜けた肌に温かな色味を添える。ラナンタータは片方の頬を吊り上げて、其の時間を待つ。


ラルポアはカナンデラのソファーの肘掛け部分に腰掛けて、悩める顔つきになった。



妹のように大切に思っている。其のラナンタータが恋愛だって……19才だ。自由だ。

しかし……

いや、しかしはない。ラナンタータがアルビノだからといって、人生に制限を受ける理由にはならない。そうだ、強くあれ、ラナンタータ。お前は自由だ。



カナンデラはシャンタン訪問の口実を探して頭を働かせている。



ウタマロに誘うのは良いとして、側近も付いて来るだろうな。なあんだ、つまらない。やっぱりシャンタンのふかふかのソファーに座りに行くか……電気あんまも恋しくなった頃だろう。



「そう言えばカナンデラ、もし世界が滅んで私たち3人が生き残ったら、カナンデラは私じゃなくてラルポアに迫るって言ったよね……」





イサドラが病院を抜け出したことを此の3人が知るのは、まだ先のことだ。



「神様に見放されても私はまだ生きているわ」



イサドラの目には落胆はなかった。




「会長。来ませんね、ザカリー探偵は。派手な打ち合いだったのですから、もうそろそろ事件の報告に来てくれても良さそうなものなのに……」


「呼べ。いや、呼ばなくて良い。いや……よ、よ……」


「……」


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