十.四  コンベント

 

 二〇一二年二月

 さなえは、十畳間ほどの広さの中庭に置かれた籐椅子に座っている。

 中庭の真ん中に畳一つほどの小さな池があって、鮮やかな薄水色の睡蓮の花が幾つか咲いている。やや濁り気味の池の水面に浮いた切れ目の入った葉の間を、大小何匹かの金魚がゆっくりと泳いでいる。

 中庭のあちこちにピンクや薄紫色のブーゲンビリアが咲き乱れている。入り口近くの鉢植えの真っ白な花のジャスミンから甘美な香りが漂ってきている。

 四合院風に中庭を囲んで三方に部屋があり、各部屋の全開口式の扉は開け放たれていて、そこが寝室になっているのが見える。肝炎で療養中の友人を見舞いに行った時のコンベント通りにあったタイ風のサナトリウムのようも思える。


 さなえが瞬きをすると正面の部屋の入口に座っている、白いワンピースを着た観音様の様な老女が突然現れた。

「こんにちは」と言いながら老女が優しく微笑んだ。

 さなえは突然のことに驚いて返事ができないでいると、老女が「ここはとても居心地がいいかも知れないけど、長くいてはだめよ、できるだけ早く出ていきなさいね」と真剣な顔で言った。

 確かに、温暖な空気と自分の好きな花に囲まれたこの世界は居心地がいかにも良さそうだ。

 返事をしようと瞬きをすると、老女はいなくなった。

 遠くで「さなえ、さなえ」と誰かが呼ぶ声がするが、どこからか分からない。しばらく赤い金魚を見ていたり、チョンプー・パンティップの花がポトリ、ポトリと落ちるのを見たりしていると、またあの老女が現れた。

 よく見ると、曾祖母の静子おばあちゃんに少しばっかり似ているような気がする。

「あなた、何でここにいるの?」

 老女が悲しそうな顔で聞いた。

 さなえは返事をしようとするが、出来ない。椅子から立ち上がろうとしたが体が動かない。老女は悲しそうにこちらを見ている。ここから早く出ていきなさいと言われても、ここがどこだか分からないし、どこに行ったらいいのかも分からない。

 老女は何度も突然現れて、突然消える。

 時間の感覚が全くない。

「ねえ、さなえ、生きるのよ。早くここから出ていきなさいな」

 生きるのよってどういうことだろうと思っていると、今度は「ほら目を開けなさい」と言われた。目なんか始めから開いているのに。何の事か良く分からないと思っていると、また「ほら、さなえ、目を開けるのよ」と観音様のように慈悲深く、諭すように老女が言った。

 さなえは、目なんかもう開いているのにと思いながらも、気力を振り絞って目を開けてみた。ぼんやりとしているが、自分はどうやら白っぽい部屋のベッドに横たわっているようだ。先ほどの老女はいなくなっていた。ジャスミンの香りは相変わらずしている。しかし、たまらなく眠いので目をつむった。

 どのぐらい経ったのか分からないが、さなえは今度はすっかり目が覚めた。病室の様な部屋のベッドに横になっている。見回すと誰もいない。頭が混乱しているようで、状況が呑み込めない。


《何故ここで横になっているんだろう》

 さなえはぼんやりしながら考えていた。

 様子を見に来た看護師が、さなえが目を覚ましているのを見て驚きながらも笑顔で急いで出て行くと、眼鏡をかけた医者らしい人が入って来て色々チェックし、タイ語で看護師に何か言うと、看護師が日本語で具合はどうか、どこか痛い所がないか、何があったか覚えているか、名前は何かなど聞いた。

 頭と右の脇腹が少し痛かったが、他は特に痛い所は無かった。何があったかは覚えていないが、自分の名前は左右田さなえだと答えようとしたが、喉に痰が絡んで咳き込んでしまった。

 咳をしたら体のあちこちが痛んだ。体中にスパゲティーが絡まる様にカテーテルに繋がれ、肩から腕と足は包帯でぐるぐる巻きにされている。包帯は主に体の右側だ。

 暫くすると、両親が嬉しそうに病室に入って来た。だが、さなえは声が出せずに両親を見ながらただ涙を流す事しか出来なかった。どうなっているのか分からなかった。

 医者が両親にアメリカ訛りの英語で、意識を取り戻して良かった、まるで奇跡がおこったようだ。脳の記憶障害検査や高度認知機能の検査が必要だが、もう少し安静にしていた方が良いので、鎮静剤を点滴に入れておいたと言っているのを聞きながらまた眠ってしまった。

 次にさなえが目覚めた時には、意識がハッキリしていた。部屋には誰もいない。ベッドの脇に幾重にもかけられたプアンマーライ(花数珠)からジャスミンの甘い香りがしている。窓際を見ると、お見舞いに持って来てくれたと思われる花が幾つも活けてあった。その中の一つに、かなり大柄の花瓶に満開のチョンプー・パンティップと裾の辺りにデンファレが活けてあった。

 さなえはそれを見た瞬間に起き上ろうと力を入れたが体中が痛くて起き上れなかった。

《あー、あれは間違いなくプラパンが置いて行ったものだわ。あの二つの花が好きなのは彼しか知らない筈だから……》

 さなえはそうつぶやいたとたん、思い出した。プラパンに捨てられてしまったのだ……。

 ドゥアンチャイにプラパンをとられてしまったんだ。私の事を迷惑に思っているんだ。だから返事をくれなかったんだ。

 そう言えば、あの中庭って何処だったんだろう。あのおばあさんはどこに行ったんだろう。あのサナトリウムみたいなところに長居してはダメだって言っていたけど……。

 そうだ、あのルンピニ公園でのプラパンとの楽しかった思い出に浸りながら、ふらふらとサラシン通りを歩いて車道に出たところでタクシーにぶつかったんだった。死のうとしてたんだろうか、それともただぼんやりして車道に出てしまったんだろうか。

 そう、死んでしまいたいと思っていたことは間違いないが、はっきりと死のうと思っていたかどうかは分からない。

 いずれにせよどちらでも良かった。死にたいとは思っていたけど死ななかったのだ。いっそ死んでしまったら楽だったのに。

 パパやママは悲しんでいるだろうな。さなえの頭の中で、様々な思いが駆け巡った。


 目をつむって、暫くコンドミニアムを出てからの事を思い出そうとしている所に足音がしたので見ると母親が心配顔で入って来た。

「あ、起きたのね。良かったわ。大変な事故だったのね」

「事故……」とさなえは言いながら嗚咽した。

 母親が、手をとりながら、分かっているという顔で何度もうなずいた。

 母親によると、さなえがタクシーとぶつかったのは、渋滞が解消した後の時間であったので、救急車が五分もしない内にサラシン通りの事故現場に駆け付けることが出来たらしい。

 救急隊員はさなえを一目見た時、心肺停止状態だと思ったようだ。ところが、心臓は微弱ながら動いており、呼吸も弱いながらもあったので、救急車内で出来うる限りの応急処置を施しながらサミット病院に連れて行ってくれたそうだ。

 救急隊員が、タイの国民医療保障制度指定の地域の公立病院ではなく、私立大手の日本人や欧米人が良く行くサミット病院に連れて行ったのは、さなえが首から下げていたポーチからポスポートが見えていたので見たら、日本人だと言う事が分かったからだそうで、運が良かったとしか言いようがない。

 サミット病院の様な大手の私立病院の医療水準は日本と比べても遜色ないほど高く、常に予算不足の公立病院では不安が残るからだそうだ。

 不幸中の幸いだったのは、手足の骨や肋骨はあちこち折れてはいたものの、内臓はひどい損傷を受けなかったようだ。

 ただ、側頭部を強く打ったことで脳挫傷による意識不明の状態に陥った結果、意識を回復する確率は極めて低いと当初は言われていたようだ。

 所が、時々目玉が動いたり、指が少し動いたりし始め、幸いにも十日目に意識を回復したのだそうだ。

「ねえ、ママ、静子おばあちゃんって来てくれてた?」

「ううん。来てないけど心配してたわよ。どうして?」

「うん、じゃあ静子おばあちゃんに似た日本人のおばあさんってお見舞いに来てくれてた?」

「来ていないと思うわよ、なんで?」

「うん、それがね。なんとも居心地の言いサナトリウムみたいな所だったの。そのおばあさんがね。ここに長居しては駄目よとか、死んでは駄目よとか、目を開けなさいとかうるさく言ったの。で、目を開けたらこの病室にいたの」

 休み休みさなえは説明した。

「あら、それって……、さなえが自己防衛本能で無意識に創った守護神みたいなものかしらね。良かったわ。あなたはまだとっても生きていたかったのだと思うわ。

 きっとそうよ。

 昼間は私かパパが付きっきりだったし、夜はプラパンさんがいてくれてね。そう、プラパンさんが毎晩ずっと付きっきりでいてくれたのよ。今日もまた後で来ると思うけど。パパももうすぐ来るわ」

 母親は精一杯の笑顔だ。

 両親は、当然ながらプラパンと上手く行ってなかったのを感づいていたはずだ。洪水のバンコクから東京に帰って以来具合も悪かったが、全く彼と会っていなかったからだ。心配をしていたと思うが、干渉しないようにしていたのであろう。

「でも、会いたくないな」さなえはしわぶきながら言った。

「あら……」母親は困り顔になった。

「ママ、ごめんなさい。こんな事になってしまって。プラパンに捨てられてしまって、死のうと思ったのかもしれないの。本気で死のうと思ったのかどうか自分でも分からないんだけど、ふらふらっと車道に出てしまったらしいの」

「そうなんだ。でも捨てられたって……。ここにあなたが運ばれて来てからもう十日間になるけど、夜中は徹夜でずーっとプラパンさんが付き添ってくれていたわよ」

「そうなんだ、でもそれってきっと、同情心からよ。同情なんかされたくないわ。いまさら」

 さなえは苦しそうに言った。

「そう言えば、彼が言っていたわ。色々あって、さなえと距離を置いていたけど大変な間違いだったって。ちょっと行き違いがあったんだってね。で、さなえからメールを貰って返事を書いたけど連絡が無いんでおかしいと思っていたんだって」

「え、返事を書いたって言っていたの?」

「うん」

「そうなんだ……、私の携帯どうした?」

「そこのベッドサイドのキャビネットの引き出しよ。はいこれ。端っこがはがれてしまっているけど、大丈夫だったみたい。警察からかえってきてから充電しておいたわ」

 プラパンからメールが入っていたのだ。さなえは、メールをくれたと言う事は迷惑だと思っていなかったのかなと少し期待をしながら、ベッドを起して貰って読み始めた。


 マイ ディア― サナエ

 メール大変有難う。

 返信が遅くなってしまってごめんなさい。日本語で書き始めたんだけど、上手く書けなくて。英語でまた始めから書き直したので、時間がかかってしまった。それと、昨夜は友達と遅くまでと言うか朝早くまで酒を飲んで馬鹿騒ぎをしてしまって……。さなえに折角会えたのにあんな態度しか取れなくって情けなかったし、でもさなえがくれたメールを見て嬉しくてついつい飲み過ぎてしまったんだ。

 なんて僕はバカだったんだろう。自分のくだらない自尊心と誤解の為にこんなにこんなに愛している人を傷つけてしまったなんて。本当に御免なさい。悔やんでも悔やみきれない。

 あの大学のチャペルの前の時の事は今でも覚えているよ。さなえが今度いつ会えるか聞いた時に、僕は「時間が出来たらね」と冷たく言って、振り向きもしないで真っ直ぐ校舎に入って行ったでしょう?あの時実は僕、泣いていたんだ。さなえに見られたくなくてね。でも、僕はあの時とても打ちひしがれていたし、それはとても惨めだったんだ。とても悲しかったんだ。

 タニンの事を聞いたときにも言ったと思うけどものすごいショックでね。僕ぐらいの階層にいるタイ人にとっては、タニンはまさに別世界の人間で、さなえが僕の手が全く届かない別世界に連れて行かれてしまったと思ってしまったんだ。とても残念だったんだ。

 きっと日本人のさなえには分からないと思うけど、タニン・ラータナワニットは、全く僕の相手ではないんだ。彼と張り合えると思っているタイ人は誰一人いないと思う。初めから全然勝負にならないんだ。シーロムの彼らのあの物凄く広いお屋敷に行ったことがあるでしょう?

 だから、あんな態度をとってしまったのだと思う。

 でもあの後、僕はとても後悔して何度も連絡したかったんだけど、僕は負け犬も同然で、ものすごく打ちひしがれていて、暫く連絡できなかったんだ。さなえが連絡して来たら、話をしようと思って待っていたんだけど、一日経っても二日たっても連絡が来なかった。あの後、さなえは授業にも出てこないようになっていたね。結局、僕を避けているのかと思ったよ。

 でも、僕は必死に気持ちを立て直して一週間後にさなえの携帯にメールをしたら、何度も宛先不明で返って来てしまったんだ。それで電話もしたんだ。そしたらこの電話は使われていないって。それで僕は携帯まで切って僕と話したくも無いんだと思ったんだ。だからさなえの家の電話にもかけられなかったんだ。

 学校にも来ていない様子だったので、てっきりバンコクのタニンの所に行ってしまったのかと思ったよ。そう思ったら、電話を掛けるのも怖くなってしまって。

 でも、あの時の事が原因でさなえが具合悪くなってしまったなんて、僕は本当に馬鹿だと思う。大変な事をしてしまったね。何と言って謝っていいか分からないけど、もし許してくれるのなら、一生かけて償いたいと思っている。

 それから、昨日のマーブンクロンでの事だけど、さなえがあまり話したくなかったような感じだったので、がっかりしてさなえを置いたままにして来てしまったけど、ごめんなさい。さなえがそんな気持ちだったなんて知らないで、僕は本当に馬鹿だ。

 実はあの後、泣いているのをドゥアンチャイに見られて、なんで泣いているのか、さなえにふられたのかって彼女に聞かれたんだ。で、彼女に正直にロイカトーンの時の事とか、タニンにさなえをとられてしまったと思っている事とか、さなえと距離を置いている事とかを話したんだ。

 ドゥアンチャイは、さなえと僕とは当然付き合っていると思っていたんだそうだ。

 タニンは確かにさなえの事は大好きだけど、プラパンがいるので彼はさなえの事は諦めたって言っていたようだし、ドゥアンチャイも僕がさなえの事が物凄く好きだというのを知っていて、やっぱり僕の事は諦めていたんだそうだ。

 それで、傷心の二人はあのロイカトーンの後から付き合い始めたんだって。付き合うと言っても二人は義理の従兄妹同士で、子供の頃から同じ敷地内で兄妹みたいにして育ったので今さらだけどね。

 もっともドゥアンチャイが時々バンコクに戻った時にしか会ってないらしい。そんな二人の関係をサマートおじさんが許すかどうか分からないけど、ドゥアンチャイの方は真剣に考えているんだって。

 それにしても、なんでさなえは学校に来ていないんだろうと思っていたけど、僕のせいで具合が悪くなっていたなんて。そうとも知らずにタニンにひどくやきもちを焼いて、すっかり打ちひしがれていたなんて。

 さなえの事をこんなにとても愛しているのに、ものすごく無駄な時間を過ごしてしまった。

 もし許してくれるのであれば、これからはその穴埋めをしたいと思っている。

 では、連絡を待っているよ。     

 プラパン


 さなえは、読み進むうちに涙がボロボロと流れるのを拭きもせず、うなづきながら何度も読み返し、《死んでしまわないで良かったわ》としみじみ思っていたところに、さわやかなあの笑顔でプラパンが病室に入ってきた。

                                             完

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そしてバンコク 高円寺実 @koenji

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