終わりに

 著者は拙作を取り組む以前、軍事史や軍事知識について全く明るくはなかった。そうした著者が独ソ戦を題材にした戦史ノンフィクションに取り組むようになったのは、これまで繰り返し述べてきたように、独ソ戦の厖大な規模に圧倒されたからである。そして、個人的な背景から発した二つのきっかけがあった。

 1点目は個人的な趣味として、筆者はクラシック音楽を好んで聞いている。好きな作曲家の1人に、ソ連にドミトリ・ショスタコーヴィチという人物がいる。ショスタコーヴィチはレニングラード(現サンクトペテルブルク)の出身だが、彼には1941年9月に始まったレニングラード包囲戦の最中に新作の交響曲を作曲したという逸話が存在している。

 ショスタコーヴィチはレニングラードが包囲されても生まれ故郷に留まり、新作となる交響曲第7番の作曲を続けたが、クレムリンから1941年10月頃に疎開を命じられた。12月に交響曲は完成する。モスクワからソ連軍の総反攻が成功したニュースが流れた。

 ヒトラーは「レニングラードは封鎖され、後は絶滅か餓死があるのみ」と告げ、包囲下の都市は苛酷な飢餓に見舞われた。人肉食まで起きたと言われる1942年1月の冬を越して同年8月に交響曲第7番「レニングラード」はその名前が与えられた都市で初演された。初演の模様は拡声器でドイツ軍の前線にも響き渡った。後にソ連軍の捕虜となったドイツ軍の兵士たちはこう言った。

「もし街がこのとてつもない状況の中でクラシック音楽のコンサートをやれているのだとしたら、一体ロシア人はどれだけ強いんだ?そんな敵をやっつけることは到底できないと思い、恐ろしくなった」

 2点目は、著者が「物量」が戦争の勝敗を決めるという「定説」に疑問を抱いたためである。日本では太平洋戦争の敗因として、アメリカとの「物量」や「国力」に大きな差があったためだと挙げられる。だが、著者は「物量」は軍事作戦上では「兵站」と呼ばれる分野の一角に過ぎないと考えていた。1941年6月に独ソ戦が開戦した際、ソ連は「持てる国」だった。ならば、「バルバロッサ」作戦においてソ連はなぜ致命的な大敗を喫したのか。

 これらが拙作の端緒であった。もとより人類史上最大の戦争についてその詳細を遺漏なく書き切ることは不可能である。レニングラード包囲戦はその全貌を拙作で取り上げることは敵わなかった。2点目の「定説」に対する疑問も拙作の内容が回答となっているかどうかは読者の判断に委ねたいと思う。

 なお本作の性質を考慮した結果、省略した記述は多い。

 フィンランド北部の北極圏戦線や満州作戦については記載していない。独ソ両国による戦争犯罪、ドイツ軍の捕虜となったヴラソフが結成した「ロシア解放軍」やスターリングラード攻防戦で捕虜となったザイドリッツをはじめとする第6軍の将官らが結成した「自由ドイツ連盟」などについては省略させていただいた。拙作で省略した種々の詳細については他の良書を当たられたい。

 最後に古代アテナイの歴史家トゥキディデスの言葉で拙作を締めようと思う。


「もし実際に起こった事件の真の姿を見たいと思う人々が私の書いたものを有益であると言ってくれるならば、私は満足である」

  トゥキディデス「戦史(ペロポネソス戦争の歴史)」第1巻 紀元前400年

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巨人たちの戦争 第8部:落日編 伊藤 薫 @tayki

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