アフリカ象と男と男の話

庵田恋

象の鳴き声。

 それは麗らかな陽の光が降り注ぐ、何の変哲もない日常の中のことだった。鳥は陽気に歌をさえずり、木々は風になびいて掠れる音を鳴らす。

 そんな、昼間のことだった。


「いやぁぁああああーーー!!!」


 女性の甲高い叫び声が、こだましたのは。

 

――――

 

 牙塚市民動物公園。

 某県の南部に位置するこの小さな動物園には、およそ40種類の動物が飼育されており、他の動物園と冠する施設よりも幾分小規模のものになっている。

 バブル期の八十年代から開園していることもあり、寂れた雰囲気を感じないこともないが、休日には家族連れの来園なども多く、それなりの賑わいを見せていた。


 やつれた風貌の男がゆっくりとした足取りで園内を進む。明け方の時間ということもあり、園内を動く人影は彼一人だけだ。

 片手には使い古されたバケツが一つ。中には枯れ草が山のように入っていて、彼の手の動きに合わせてゆらゆらと揺れる。

 もう片方の手には真っ赤な林檎が一つ。


「やぁ、ハナ」


 彼が一声をかける。

 微かな明かりが露わにする巨大な影が、ゆっくりと動いた。

 いつもの場所に枯れ草の山を足す。これだけの量が嘘みたいに消えるのだ。そう思うと目の前の動物が、自分たち人間とは異なる存在であることを、男は改めて強く実感する。


 林檎を掲げる。

 のそり、と影の挙動が明らかな動揺を見せた。彼らは甘いものが大の好物なのである。

 その長い鼻がそれ自体が別の生き物であるかのように動き、ちっぽけな果実に向かっていくと、スッと吸い寄せた。

 そしてそのまま自らの口の中へ放り込んでしまう。

 美味しくてたまらないのか、小さくうめくように声をあげた。

 その一部始終を眺めた彼は嬉しそうに微笑み、ざらつく鼻の表面を愛おしげに撫でた。


 一人と一匹は鉄格子の檻の中でささやかな友情を育んでいる。

 その檻には一枚のプラスチックのカードが固定されていて、そこには『アフリカ象』という文字が刻まれていた。

 

――――

 

 彼が最初にそのアフリカ象と出会ったのは、数年前の秋のことである。その数ヶ月前、夏の終わりに彼は十年働き続けた職場を退職していて、いうなれば無職であった。

 前の職場でのとある事件で人間不信気味にあった彼は、ある日牙塚市民動物公園に足を運んだ。

 檻の中の動物達の姿は彼の心を癒すというよりは、より一層の自らの孤独感を強めるばかりだったが、ある檻の前で彼の足はぴたりと止まった。


「デカい……」


 自分の何倍もの体長を誇るその巨大さに、彼は大きく開いた口を塞げなくなってしまった。あまりにも自分よりもスケールが違いすぎたせいで、自らの矮小さを実感したのもあるのかもしれない。

 どうして動くのか不思議なくらいの重量感。それでいて純朴さのこもったつぶらな瞳。目の前の動物の全ての要素に、まばたきよりも短い一瞬の間で彼は虜になってしまったのだ。


 それからの彼の行動は迅速そのもので、その動物園のアルバイト募集に応募したのは次の日の出来事だった。

 そんな彼が『ハナ』と名付けられたアフリカ象の担当になったのは、天啓のように感じられたことだろう。動物園の飼育員としての仕事は年齢に対して不釣り合いな激務であったが、彼はそれに肉体的な辛さを感じても、以前の職場のように精神的に追い詰められることは一切なかった。

 周りの同僚たちも彼の一生懸命さを評価し、結果的により一層アフリカ象と共にいられる時間が増えていき、彼の人生は最高の形で第二のスタートを切ったのだった。


「ふんふーん♪」


 男のご機嫌な鼻歌が夕方の閉園後の園内で風に流されていく。

 動物園での勤労の日々は彼にとっての生きがいとなっていて、そんな生活の中で他の動物への愛情も深まっていった。


「タロウ。今日も元気そうだな」


 タロウ、と呼ばれたシマウマが鬣を嬉しそうに横に揺らした。餌を手で直接口に持っていくと、シマウマの歯は快活に噛み砕いた。

 他の動物からも男のほがらかな性格は理解してもらえたらしく、どこへ向かっても人気者だった。もちろん彼の一番のお気に入りがアフリカ象なのは変わりなかったが。


「ん……?」


 突如、微かに目眩がしたような錯覚にとらわれた。男は頭を押さえるもどうやら頭痛がするわけでも、熱があるわけでもない。疲労が溜まっているのだろうか、と思った。

 しかしそれは少しすれば止み、気のせいだったのだと自らを笑い飛ばした。

 ルーチン化した作業を終え、休憩所へと戻ると妙に静かだった。


 音はあった。

 だが、何人かいるのにもかかわらず、誰も声を発することなくただ一点に視線を集中させていた。

 その先は唯一の音を発生している元、テレビの画面だった。


「どうかしたんですか?」


 誰にともなく彼は尋ねると、二、三人が彼の方を振り向き声を震わせた。


「地震があったんですって」

「地震?」


 それから彼はことのあらましを知った。

 今から数時間前に関西の方で大地震があったこと。

 十年ほど前の東北の大地震のような津波に襲われることはなかったものの、土砂崩れなどで大きな被害が出ていること。

 その話を聞いていても、彼にはどこかピンとこないでいた。

 確かに大災害である。だが、それにしては彼らの反応は大袈裟なように見える。


 この世の終わりを見たかのような絶望感。一体その画面に何が映っているというのか。

 テレビの前を陣取る同僚達の隙間から画面を見る。


「え……?」


 言葉を失う。


『暴走』


 最初に見えた単語はそれだった。

 テロップの下に広がる状況は、この世のものとはとても思えないものだった。

 プラスチックのバットのように直角に曲がった鉄格子。そしてその破片と思われる黒い物体がいくつも地面に転がっている。


 その光景は、見覚えのある場所が無惨に壊された残骸。


「○○動物園でアフリカ象が檻を飛び出して園内の客、複数人が負傷、うち一人が死亡した事件について――」


 耳を疑った。

 無感情なアナウンサーの声が告げる事実の羅列が、彼の脳内で何度も繰り返される。しかしその意味を理解できずただエコーし続けるばかりだ。

 画面は別の場所に切り替わり、さっきあったらしい地震の被害状況を、さっきまでと同じトーンで続ける。


「地震で興奮した象が、檻を壊して、飛び出したんだって」


 隣の先輩がそう告げた。彼が人一倍アフリカ象に愛情を傾けていることは周知の事実だった故、所々で区切って言葉を選ぶようにして。


「死亡って……?」

「檻の近くにいた女の子が、その、踏まれたらしい……」


 何百倍もの重量に圧し潰される様。子供なら、いや大人でもただで済むはずがない。その光景を想像すると彼は吐き気を催し、思わず右手を口に当てた。

 みな終始無言だった。


「その象は、どうなったんですか……?」

「麻酔銃が効かなくて、銃殺だって」

 

――――

 

 聞いた? 女の子が象に踏まれて死んだって話。


 アフリカ象がいきなり暴れ回ったって。


 親御さんも辛いだろうな……。


 やっぱり象とかも人畜無害に見えて危ないんだ。


 正直地震の被害よりもそっちの方がインパクトあるよな。


 女の子はハムみたいにぺしゃんこになったのかな?


 なるわけないだろ。骨が砕けて血や内蔵が潰れて飛び出てるんだよ。


 うわ、グロ……。そんなの見たらトラウマになるわ。


 つーか、象って野蛮じゃない?


 そもそも人間が素手で勝てる動物なんかいないだろ。


 でもさ、前にも死亡事故あったよね。何年も前の話だけど。


 ああ、あったね。


 何それ詳しく。


 ggrks。


 ……そういえば。

 

 アフリカ象の象牙って、中国じゃホワイトゴールドって言われてるくらい、貴重らしいな。

 

――――

 

「またか……」


 プラカードの山に、拡声器の乾いた大音量。

 まだ開園前の朝にもかかわらず、動物園の入り口の前には何十人もの人の群が列をなしている。そのせいで従業員たちは裏口から園内に入らなければならない事態に陥っていた。


「アフリカ象を許すなー!」

「子供たちの未来を守れー!」


 あの大地震から一ヶ月が経ち、大災害というイベントが過ぎ去った退屈を紛らわすために人々が槍玉に上げたのは、事もあろうにあのアフリカ象の暴走事故だった。


 女の子を殺した。

 その文言のインパクトは相当のものだったのだろう。一瞬でネットでの話題はその事故一色となり、いつの間にか日本国民にとってアフリカ象は、醜悪な憎悪の対象となってしまった。

 今やその勢いはネット内に留まらず、マスメディアにまで侵食してきており、一部の例外を除く国民全員にとって『アフリカ象=悪』という図式が出来上がってしまっている。どうやらこの国にワシントン条約という単語は存在しないらしい。


「でーていけ! でーていけ! でーていけ!」

「……狂ってる」


 自らを正義の使者だと信じ込んで、血眼になって何の罪も犯していないアフリカ象たちを弾圧する姿が、男には悪魔のように映った。

 

――――

 

 閉園後に行われる終礼。

 どの飼育員も疲労を隠せず、重い溜息を漏らしてしまう。特にアフリカ象の担当である男はそれが顕著だった。

 その状況を見かねている人物が一人。牙塚市民動物公園の園長である。

 年齢は五十代前半。年相応に膨らんだ腹がトレードマークで、温和な性格から他の飼育員からの信頼も厚い。

 その彼もまた、この数週間立て続けに園内、そして園外でも大掛かりなデモを引き起こされていたせいで、目の下にうっすらと隈が出来ている。


「もう、ハナは出せないな」


 誰も何も言わなかった。アフリカ象担当の男もその意見に同意だった。もしも今の状況でアフリカ象を客の前に出せば、一体何をされるのかわかったものではない。


「なぁ、みんな」


 園長が口を開くと、自然と全員の視線がその声の主に向かった。皆、何か普段と異なる雰囲気を感じ取ったのだ。


「ハナを、アフリカに帰そうと思う」

「……えっ?」


 園長の目は積み重なった疲労でとろんとしているものの、そこには強い意志が宿っている。決して思いつきで口にした言葉ではないのは明白だった。


「このままだと何が起こるかわからないだろう。みんな狂ってしまっている」

「ハナを……アフリカに……」

「そうだ。事態は急を要する。既に手配は済んでいて、明後日にはハナは船の中だ」

「そんな、話が急すぎます!」


 男の声が戦慄く。園長の言うことが理屈の上では理解できても、感情がそれを否定してやまないのだ。


「そ、そうですよ! 今はこんなことになっていますけど、時間が経てばいつか……」


 他の飼育員たちも同じように声を上げた。あまりにも早計で、大袈裟な対応だとしか思えないと口々に言う。

 しかしどの声にも園長は眉一つ動かすことはなく、静かにただ一言だけ告げた。


「ハナが、殺されるかもしれないんだ」


 沈黙。

 誰一人、それに返す言葉を持ち合わせていなかった。

 遠くから大勢のデモの声が風に乗って休憩室の中に入り込んでくる。


「どうして、あそこまで連中が狂ったようにアフリカ象に圧力をかけるかわかるか?」


 園長の言葉に飼育員たちは顔を見合わせた。思い出すだけでも胸にドス黒い闇が落ちる、あの事故のことしか思い浮かばない。

 すると、園長は小さくため息をつく。それは呆れて物が言えないようにも、しかしどこか安堵しているようにも見える。


「これを見てほしい」


 そう言って園長はプリントを一枚、彼らの前に差し出した。

 そこに印刷されている形態に男は見覚えがあった。この国で最も規模の大きな匿名掲示板のスクショだった。

 

『アフリカ象の象牙って、中国じゃホワイトゴールドって言われてるくらい、貴重らしいな』

『マジで?』

『釣り乙』

『ソースはよ』

『マジなら殺して牙売れば一石二鳥じゃん』

『ヒーローになってしかも儲かるとか神かよ』

『【悲報】アフリカ象の価値、牙だけ』

 

「ハナは象牙があるアフリカ象だ」


 その瞬間、飼育員たちの目が一気に凍りついた。園長の言わんとしていることを瞬時に理解し、その恐ろしさに戦慄した。


 象牙は高級品として扱われる素材の一つであり、その価格は年々高騰し続けている。その主な原因は象の数が減少し続けていることだ。

 故に象の乱獲に規制をかけるワシントン条約という条約が、国際協力によって作られた。これにより乱獲によって犠牲になる象は減ったものの、さらに値段の高騰に拍車をかける結果となった。


「つまり、象たちを殺すために、人々はあんなことを?」

「いや、そう考えているのはこの騒動を主導している一部の人間のみだろう。他大勢はただ流れに乗るだけの有象無象だ」

「……腐っている」


 ふと、男の目にプリントの下方に印刷された、最後の一文が映った。


『牙塚の動物園の象って、確か牙あったよな?』


「クソぉっ!!」


 彼は思わず席を立ち上がり、外へと抜けるドアのノブを掴んだ。


「待てっ!!」


 怒鳴るような園長の声に、ピタリと動きが止まる。こんなにも感情を顕にした園長を見るのは、そこにいる誰にとっても初めてだった。


「お前の気持ちはわかる。ハナのこと、本当に好きだったのは知っている。だが、お前が動いて何になる? あの暴徒に何ができるんだ?」


 園長の言葉に彼は何も返せない。

 彼はただの一人の人間だ。

 ただ一頭のアフリカ象に魅入られた、一人の男でしかなかった。


「明日の早朝、ハナをここから搬送する手筈になっている。だから、せめて今夜くらいは、あいつのそばにいてやれ」


 いつの間にか男の傍まで来ていた園長が優しく肩を叩く。

 頭が回っていなかった。園長の言ったことの十分の一も理解できていなかった。


 しかし、もう会えなくなる。

 その事実だけは彼の頭に、嫌になるほどびっしりとこべりついていた。

 

――――

 

 月明かりが一人の男のシルエットを映し出す。

 片手には使い古されたバケツが一つ。中には枯れ草が山のように入っていて、彼の手の動きに合わせてゆらゆらと揺れる。

 もう片方の手には真っ赤な林檎が一つ。


「やぁ、ハナ」


 彼が一声をかける。

 微かな明かりが露わにする巨大な影が、ゆっくりと動いた。

 何も知らない巨体はいつも通り彼の来訪を喜ぶかのように、小さく声を上げた。


「お腹が空いたろう? ほら、ごはんだ」


 枯れ草をどっさりといつもの場所へ置き、そして赤い果実を頭上に掲げた。

 アフリカ象は待っていたと言わんばかりにその長い鼻で林檎を掴み、自らの口の中へ入れた。


「美味しい? そうか……なら、よかった」


 そう言うと彼はゆっくりとその場に座り、巨大な足にもたれかかった。体重をかけてもびくともしない力強さが彼の心を少しだけ安堵させる。


「……僕はね、ハナに助けてもらったんだよ」


 という言葉を皮切りに、彼はアフリカ象に今までの自分のことを話し始めた。


 特にこれと言った大きな出来事もなく、流されるように大人になったこと。

 企業に就職して働くようになってから、日々自分自身の生きる意味を見失い続けてきたこと。

 そんな中で、人付き合いにおいて大きなトラウマを抱え、会社をやめたこと。

 そして、いま背中を預けているアフリカ象と出会ったこと。

 生まれて初めて、自分の生きる意味を見い出せたこと。


 そんなことを、彼は思いつくままにアフリカ象に語りかけていた。


「……長いし、つまらないかな。こんな話は」


 アフリカ象は小さく鳴いた。言葉なんてものは通じないはずだが、どうしてかアフリカ象が彼に「そんなことない」と言ってくれたように思えた。


「だから……、そう言えば今までちゃんと言ったことなかったね」


 彼は立ち上がり、アフリカ象の鼻を優しく撫でる。触り慣れた感触が明日にはもうないことを思うと、彼の胸は張り裂けそうだったが、決して涙は流さないと決めていた。


「ありがとう、ハナ」

 

 ――パリンッ。

 

 何かが、割れるような音。

 反射的に彼はその音の方向を振り向いた。しかし照明の少ない園内で、暗闇の奥で何が起こっているのかは寸分もわからない。

 怒号が聞こえる。

 おびただしい数の足音が、自分たちに近づいてくる。

 暗闇の奥から、ただ、聞こえてくる。


 彼は思わず一歩退いた。

 その間に何百もの足が、十歩進む音が園内に鳴り響いていた。


「ハナ……! に、に……っ!」


 逃げよう。

 そう声にしようとしたが、混乱と恐怖でうまく舌が回らない。

 当のアフリカ象は何が起こっているのかわからず、ぼんやりと音のする方を見据え続けていた。


「ハナ……っ、ハナ……!!」


 彼はどうすればいいのかわからず、ただひたすら太い幹のような足にすがりつくことしかできない。

 その時だった。

 

 ――――!

 

 鼓膜を突き抜けるような、鋭い音。

 そして、何かを破壊し突き刺さる音。


「ハナ……?」


 前者は遠くの方から聞こえた。

 後者は、すぐ、隣から。

 甲高い叫び声が、園内でこだまする。


「邪魔だ!!」


 目の前まで迫ってきていた足音が、彼の身体を突き飛ばした。


「ハナ! くっ! ハ、ナぁ……っ!!」


 次々と現れる人影が、ブロック崩しの弾のように彼を次々と跳ね返していく。

 衝撃のせいか最早何も見えない。

 ただ、聞こえる。

 耳に強引に入り込んでくる。


「やめろ……、やめてくれ……っ」


 誰かの叫ぶ声。

 痛烈な破裂音。

 象の鳴き声。


「ハナは……何も、悪くないじゃないか……」


 甲高く鳴り響く金属音。

 誰かの笑う声。

 固形物が削られる音。


「どうしてこんな……っ!!」


 象の鳴き声。

 象の鳴き声。


「あぁ……、あ……あっ……、う、わぁ……っ」


 象の鳴き声。

 象の鳴き声。

 

 ゴトリ。

 

 固く重いものが地面に落ちる。

 そんな、音だ。

 

「うわぁぁぁぁああああああああああああああああっっっ!!!!」

 

 ゾウノナキゴエハ、モウキコエナイ。

 

――――

 

 もうあれからどれほどの日が過ぎただろうか。

 暗く重い色がこの家の中を侵食し始めてから、もう何周この時計の短針は回ったのだろうか。


「はーい、花ちゃん。もうお昼ご飯よ」


 妻の不自然に明るい声がリビングにこだまする。

 それに返す声は、もちろん、ない。


「今日は花ちゃんの好きなオムライスよー。お母さん頑張ったんだから!」


 食卓に並べられる『三』人分の食事。

 だが、この家に住むのは、私と妻の『二』人だけだ。


「ほら、あなたも新聞なんて読んでないで、早くご飯食べましょ! ねー、花ちゃん♪」


 誰もいない椅子に向かって妻が笑いかける。まるでそこに三人目の誰かがいるかのように。

 私は妻に言われたとおり、自分の椅子に座る。出来たてのオムライスが立てる湯気をなんとなく追うと、そこには三人目の顔があった。


 それは、写真。

 湯気と線香の煙が混ざり合い、もう見分けがつかない。


「なぁ」

「うん?」

「花子は、死んだんだ」

「……何言ってるの? そこにいるじゃない」


 もう何度繰り返したやり取りだろうか。

 私が最愛の娘の死を告げ、妻はそれに対して狂ったように喚き散らし、最後には抜け殻のように部屋の隅で座り尽くす。

 その光景を、私は何度見ただろう。

 これから何度、見ればいいのだろう。

 もう嫌気が差していた。こんな毎日に。

 私はもう、これ以上耐えきれない。


「なぁ」

「…………」

「花子は、殺されたんだ」

「……えっ?」


 責める相手が存在せず、自らを責めるしかできない。そんなとき、人はどうするか。

 答えは、あからさまな敵を作り出すということ。

 存在しない、仮想的な敵を。


「誰に……? 花子は誰に殺されたの!?」


 そして、その敵を徹底的に叩き尽くせば妻の、いや私たちの心は少しでも救われるのではないだろうか。

 そうするには、まずは人々を動かすこと。

 小さな流れさえ作り上げてしまえば、あとは勝手に大多数の『正義』が巨大な波を形成する。


「それは……」


――――


 PCを開き、口にするのも憚られるサイトへとアクセスする。既に数週間も経過しているのにも関わらず、まだ私たちの娘の死をツマミに不毛なコミュニケーションをしている様を見せつけられ、衝動的に画面を叩き割ってやりたくなった。

 だが、今そんなことをしてもそれこそ不毛だ。

 代わりに強張る指でどうにか、始まりの言葉を打ち込み、そして送信する。


『アフリカ象の象牙って、中国じゃホワイトゴールドって言われてるくらい、貴重らしいな』


 ああ。

 私たちは、咎人だ。

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アフリカ象と男と男の話 庵田恋 @Anda_Ren

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