8.12月24日 昼

「おはよう」

『……おはよう』


 目を開ける。

 美咲はほんの少し、目の周りが赤く爛れていた。


『……あの男はどうした?」

「仕事」


 素っ気ない返事だった。

 窓から差し込む日の光が、すでに正午を過ぎていることを示している。


「約束破ったでしょ。寝ててって言ったのに」

『俺は悪党だからな』

「……そっか。なら仕方ないね」


 部屋を見回しても、昨晩何があったのか、伺い知ることは出来ない。

 サタンクロスが寝ている間に、彼女が片付けたのであろう。


『……美咲、もし君が望むなら』

「やめて」


 明確な拒絶。

 彼女は背を向けている。

 言葉だけでなく、背中に拒否の意思が現れている。


 押し黙るサタンクロス。

 夢と同じだ、と彼は思う。


『……身体がないというのは、存外不自由なものだな』

「じゃあ、さ」


 美咲は振り向く。


「私がサー君の身体を作ってあげようか。今はまだ無理かもしれないけど、ずっと一緒にいてくれたら……」


 そこまで言って、彼女ははっとしたように口をつぐんだ。

 少しの沈黙の後、ばつが悪そうに苦笑する。たった今、自分の口にした言葉を思い出したのだろう。


「なんて、冗談」

『……ふ。もう少しいい女になったら考えてやってもいいぞ』

「厳しいなぁ」


 美咲は窓の外に視線を投げる。

 そして、思いついたように言った。


「じゃあ、いい女になるために、またデートして」

『……デート?』

「うん。今日はイブだよ? 一緒に出かけよ」

『構わんが……大丈夫なのか?』


 サタンクロスの言葉を、美咲は異なる意味で取ったようだった。


「大丈夫。あの人、明日の昼まで帰ってこないし、出かけてからでも十分電話する時間はあると思うよ」

『そういう意味じゃない』


 美咲は着替えを開始する。


「心配してくれたの?」

『一応、クリスマス当日までは傍にいると言ったからな。元気がないと“寝覚めが悪い”だったか?』

「ありがと」


 自分の方をまじまじと見つめていることに気づき、美咲は来ていたスウェットをサタンクロスに掛ける。


『……後で否応なしに簀巻にされるというのに、この仕打ちはどういうことだ』

「仕方ないでしょ。サー君の目、えっちなんだもの」

『Hは変態の頭文字だろう。俺はいたってノーマルだぞ』

「そういう意味じゃないんだけど……」


 仕方なく、彼は衣擦れの音から少女の今の姿を想像することにした。


『……まぁいい。ところで、明日の昼まで帰ってこないということは泊まりこみなのか?』

「……うん。丸一日働いて、二日間お休み、の繰り返しだね」

『随分と不規則な労働時間じゃないか?』

「サラリーマンみたいに、毎日帰ってこないのが救いかな」


 再び視界が開けると、彼女は着替えを終えている。

 美咲はサタンクロスを抱き上げると、手慣れた動きでマフラーを巻き付けていく。


「じゃあ、行こうか」

『行き先は決まっているのか?」

「勿論」





 秋葉原駅は常に人でごった返している。


 電気街北口の前にある広場。

 駅ビルの対面に三本並べられた植木が、クリスマスになると美しく飾り付けられる。


 夜になればライトアップによって、恋人達にとっての人気スポットと化すだろう。

 美咲は、そのツリーの周りをぐるりと囲うベンチに腰掛け、空を見上げている。


「雪、降らないかなぁ」

『寒くなるぞ?』

「サー君、ゆたんぽみたいに暖かくなれないの?」

『焼け焦げるくらい熱くなることなら出来る』

「あはは、遠慮しとく」


 毛糸の塊を抱きながら、それに話しかける少女。

 端から見れば奇異な光景だが、道行く者は、誰も気に留めていなかった。

 マフラーの隙間から、サタンクロスは辺りを眺めていた。


『街全体が浮かれて見えるな』

「クリスマスだからね。毎年こんなものだよ」

『逃げ惑う群衆なら覚えがあるが……』

「それは……忘れて良いんじゃないかな」


 美咲の口から、白く息が漏れる。


「この時期の駅前って独特だよね。たくさん人がいるのに、恋人同士とか夫婦とか家族とか、そういう人達は、世界に自分達しかいないって信じてるみたい」

『そんなものか?』

「六歳児にはちょっと早かった?」

『抜かせ』


 サタンクロスは、美咲に気づかれない程度に自身の冷却効率を下げる。


「……あの人さ」

『ん?』

「あの人……義理の父親なんだよね。お母さんの再婚相手。かれこれ、十年一緒に暮らしてる」

『ふむ。実の父親は?』

「私の小さい頃に死んじゃった。顔も覚えてないから全然気にしてなかったけど、初めてお父さんが出来るって聞いた時は嬉しかったなぁ」


 父親。サタンクロスには理解出来ない存在である。生みの親は組織の長であるプリズマー総統と言えなくもないが、そこに親子の情はない。言わば上司と部下であり、絶対的な上下関係の基、ひたすらに命令を遂行してきた。


「最初は優しかった、と思う。誕生日にケーキを買ってきてくれたり、算数のテストで満点を取ったら褒めてくれたり」

『……よく分からん』

「あはは。でも、サー君見てると思うよ。良いお父さんになるだろうなって」

『良い父親、か』

「……二人が再婚してすぐ、お母さんが死んじゃったのね。それからお酒を飲むようになって。……三年くらい前かな。寝てる私に覆い被さってた」


 思い出したくもない出来事のはずである。

 実の母親の死、信じていた男からの虐待。

 だというのに、当時を思い返す美咲の声は冷たく乾いている。


『……誰かに助けは求めなかったのか?』

「言えないよ。恥ずかしいし、自分が悪いんだと思ってたし、それに」

『それに?』

「……本当に嫌だったんだ。何でこんな目に遭うんだろう。お母さんさえ死ななければ、今まで通り仲の良い家族でいられたのかなって。そう考えたら、お母さんが憎くて……、そんなことを考えちゃう自分が、もの凄く自分勝手な人間に思えて」

『……』

「もう、慣れちゃったけどね」


 慣れたのではなく、摩耗したのだと、サタンクロスは思った。

 冷たいのではなく、辛いことを辛いと憤り、苦しいことを苦しいと嘆く力を奪われたのだ。


『……とてつもない悪行だ。俺の好みとは外れるが』


 美咲は興味深そうに腕の中のサタンクロスを覗き込む。


「悪いことにも好みがあるの?」

『当たり前だ。自分の力に自負を持つ者をねじ伏せるのは快感だ。だが、自分より力の劣る者を虐げるのは不快でしかない。とはいえ、俺がそういったことをしてこなかったわけではないのだろうが』

「……サー君って、実は悪党向いてないんじゃない?」

『言うな。たまに考えることはある』

「あはははは」

『……さっきも言ったな。俺は君を取り巻く状況を不快に感じている。もし望むのなら、何とかしてやってもいい』


 美咲は一瞬目を丸く見開くと、くしゃりと相好を崩す。

 幸せそうに、寂しそうに。


「ありがとう。でも、だめ」

『……何故だ?』

「だって、正義の味方になっちゃうもの。サー君は悪党になりたいんでしょう?」

『……む』

「私、正義の味方って嫌いなの。苦しい時、全然助けてくれなかったから。サー君には立派な悪党になってほしい」


 笑顔に反して、美咲の目は潤んでいる。


「……貴方達だけだったんだよ。何度も私を助けてくれたの」


 少女の言葉は次第に小さくなり、寒空に溶ける。


『どういう意味だ?』


サタンクロスの疑問に、美咲は沈黙で答えた。

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